アパタイト 早く僕に戻りたい

酒原美波

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第四章 奪い合い

アパタイト 早く僕に戻りたい

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1.変化
 カーティスがコーデリア・ブーケと偽り、ベルクバック侯爵一族の代表として後宮入りしてから1年が経った。
 いま、後宮で退屈しきっていた側妃たちの目下の話題は、コーデリア・ブーケの追放だった。
「皇帝陛下も、ようやくマトモにお戻りなられたようね。醜女好きなんてレッテルも、これでようやく消えるわね」
「それにしてもコーデリア・ブーケは、どんな失態をやらかしたのやら。追放処分なんて、相当なことよ?」
「ベルクバック侯爵一族から新たな側妃の後宮入りは、来春まで免除されるそうよ。免除とはいえば聞こえはいいけど」 
「実質は、皇帝陛下の逆鱗に触れた罰よね!」
 側妃が人質であることを理解していない、オツムの軽いある妃たちの派閥では、ベルクバック侯爵一族のコーデリア・ブーケの嘲笑がメインとなっている。

 しかし別の側妃派閥での目下の話題は、コーデリア・ブーケ関連には違いないが、別の観点からだった。
「コーデリア・ブーケ追放の代わりに、ベルクバック侯爵一族から、ウェスリー子爵令息が、陛下の側近に取り立てられたとか」
「正確には、夜のお勤めのお相手よね。ヴァイゼ皇帝陛下に、そんな趣味があったなんて」
 これは非難ではなく、萌えによる発言で、言った妃は頬を赤らめて喜んでいる。
「姉からの手紙によると、舞踏会などでは皇妃殿下を差し置いてまで、ウェスリー子爵子息を皇帝陛下は離さないのだとか。顔立ちは美形とは趣が違うけど、なんとも表現しがたい色気のある青年なんですって」
「私も社交界デビューしたての妹からの手紙で知りましたわ。皇帝陛下と変わらぬ長身だけど、目を引かずにはいられない魅力ある方なのだとか。皇妃殿下たちも、皇帝陛下とウェスリー子爵令息のカップルに、嫉妬どころか見惚れているらしいですわ。あー、私も一目、皇帝陛下とウェスリー子爵令息が並んでいるところを見たいですわ!」
「表向きは病気のせいとして、せっかく貴族学園入学試験首席となったのに、入学辞退したそうですね。ですが代わりに猛勉強の末、本来なら貴族学園は4年制なのに、特例で受けた帝国総合大学入学試験に合格したそうですわ。しかも首席で」
 貴族学園卒業生が、帝国総合大学へ進学するのが一般的だが、抜け道もある。飛び級制度を利用すれば、大学入学試験を受ける権利があるのだ。しかし学園在籍者でなくとも、推薦人がいて、皇帝が許可を出せば貴族学園に在籍していなくても、入学試験を受けることが出来る。カーティスの推薦者は当然ながら、天才ノートル・ナユタ博士。これ以上、文句のつけのようにない推薦人だ。
 ちなみに貴族学園は貴族の子女しか入学許可は下りないが、帝国総合大学は平民でも一般の学校を卒業して受験に合格すれば入学できる。そして好成績で卒業すれば、官僚への道も開かれるのだ。そのため爵位はないが金はある商人や資産家の子女が、皇宮務めを目指して帝国総合大学を目指す者が数しれず。しかしシュトゥルムフートの数ある大学の中でも最高峰の帝国総合大学には、真に実力のある者にしか門戸は開かない。生半可なエリートでは、受験で振り落とされるのがオチだ。
「こんな有望な青年がいたのかと、各貴族から婚約を申し込もうとしたものの、既にスマラウト侯爵令嬢と婚約していて、16歲の成人を迎えたら、すぐにスマラウト侯爵家に婿養子に入られるそうですわ」
「婚約者だったバイエル公爵家のミラン様から婚約破棄されて、反動で引きこもりとなった上、過食に走り見るも無残な巨漢令嬢になったとの噂でしたわね」
「ところが、久々に現れた皇宮主催の舞踏会では、輝くほど美しかったとか。スマラウト侯爵領特産の化粧品の効果もあるのでしょうけど。それに驚きなのが、私生児と噂だった子供が、実はウェスリー子爵令息との間に生まれた姫で、貴族譜にも正式に父親の欄に子爵令息の名が記載されているとか」
「それって、ウェスリー子爵令息が幾つの時のお子様なのかしらってなるわよね。ウェスリー子爵令息、年の割に早熟なこと。病に伏したというのも実は口実で、スマラウト侯爵令嬢との逢瀬に忙しいだからだとも噂になっているそうよ。今も社交界復帰なさったと思った矢先に、スマラウト侯爵令嬢はご懐妊が判明して、皇都の邸で静養なさっておられるのだとか」
 側妃たちは口には出さないが、「ウェスリー子爵令息、なんて絶倫なのかしら」と心の中で萌えている。皇帝陛下の愛人を務めながら、婚約者との同衾も忘れないとは、恋愛小説よりも面白い。
「それでも大学首席合格なさる程の秀才なのですから、素晴らしいですわよね。まあ、そこが陛下の目に止まって、側近に取り立てられたらしいのですけど」
「側近と言っても、昼間は大学で忙しく、皇帝陛下への『お仕事』は夜がメインですもの。婚約者のスマラウト侯爵令嬢は、どう思っていらっしゃるのかしら?」
「コーデリア・ブーケを追放したのも、ウェスリー子爵令息を囲い込むためだったとの噂よね。時期がちょうど、コーデリア・ブーケ追放と入れ替わるように、ウェスリー子爵令息が陛下の側近取り立てられたのですもから」
「スマラウト侯爵家は質の良い化粧品シリーズが大当たりして、いまや資産家で有名ですけど、それも影でウェスリー子爵令息が動いていたからだとか。稀代の天才と名高い放浪の自由人・ノーマル・ナユタ博士と共に、素晴らしい化粧品開発をなさったのですから。没落した侯爵家を救うため、学園入学を蹴って、スマラウト侯爵家を救った英雄伝は帝国中で有名だそうですわ」
「画期的な化粧品てますものね。これまでのものは肌荒れを起こしたり、人工香料特有の匂いで、体調が優れないときは気分が悪くこともありましたけど、スマラウト侯爵領名産『レット・シェーン・ブルーメ社』の化粧品は、その名の通り究極の美を助ける化粧崩れしにくくて肌にも優しく、控えめながらも本物の花の香りがする、素晴らしい化粧品ですわ。出来れば本店に直接買いに行きたいけれど」
 ラベンダーの香りが好みの側妃は嘆く。
「本店は様々なファンデーション、口紅、頬紅など色も豊富で、様々な香りの種類もあるとのことですものね。後宮にもたまに行商が来るけれど、色はともかく、香りは限られているから」
 定番のバラの香りの化粧品を使っている側妃も嘆く。
「来年はじめには皇都にも支店を出すそうですわ。半日だけでも、後宮から出る許可をいただけないものかしら?」
 柑橘の香りをまとった側妃が言う。美への追求心は、女性なら皆、誰もが抱いている。家族から本店へ出向いた自慢話の手紙を読むたびに、籠の鳥の側妃たちは悔しがる。行商では手に入らない、限定の香りの化粧品が一緒に送られてくるのは嬉しいけれど。
 いま、スマラウト侯爵領の本店に出向くことが、貴族たちのステイタスだった。相変わらず『レット・シェーン・フルーメ社』の化粧品店はスマラウト侯爵領を拠点に、ウェスリー子爵領主都に一軒あるのみ。この冬には皇帝命令もあって、皇都に本店クラスの規模を誇る支店がオープンすることになっている。きっと皇都に店ができたら、客が殺到するに違いない。

2.事業拡張問題
「皇都に支店を出すつもりはなかったんですけどね」
 大学から戻ったカーティスは、仕事を一段落させた皇帝とイノセント伯爵と共に、アフタヌーンティーセットを食べている。給仕はいつもながら皇帝の忠臣執事のみで、人払いされていた。窓の外では雪が舞っている。馬車が使えないほど大雪になることは、比較的温暖な皇都では滅多にないが、今年は大雪になりそうだと虫や植物の状態から、カーティスとナユタ博士は予測している。
「そこまでスマラウト領に集中させることもないだろう。今や『レット・シェーン・フルーメ社』の工場はスマラウト侯爵領にいくつもあり、山や湿地といった開墾に向かない領土全土が、農作物以外は花やハーブ畑になっているそうではないか」
 皇帝は、むしろ帝国全土に支店を出しても良いのではと思っている。と言うのも、方方の貴族から「我が領土にも支店を出すお力添えを」と、会えば必ず言われるからだ。なにより税収が国庫に入るのは大歓迎だ。
「抽出する香料に、どれだけの花とハーブが必要だと思っておられるのですか。今でさえ、売れすぎて工場はフル稼働しているのですよ。第一、花やハーブの種類が豊富なので、原料の生産量にも限界があります。皇都に本店クラスの支店を出すのだって、悩んだ末の決断だったんですから」
 『レット・シェーン・フルーメ社』の社長であり、経営権を持っているのはカーティスだ。まだスマラウト侯爵家の婿養子になっていないが、新商品開発の先導はカーティスが担っている。皇都に支店を出すことになったのは、皇帝命令だったので仕方なくだ。
「他の領土、例えば君の家のウェスリー子爵領を利用することは出来ないのかい?更にいえば、帝国の特産にするのが希望なのだが」
 イノセント伯爵は言うが、カーティスは首を横に振る。相変わらず細身だが、カーティスの身長は僅かにヴァイゼ皇帝を越えた。平均身長のイノセント伯爵などは、立ち上がればカーティスの目線の位置に頭のてっぺんがあるので、伯爵としてはカーティスと並んで立ちたくない。
「香料抽出には技術が必要で、専門の職人に監修させる必要があります。この職人育成が大変なのですよ。師匠並みの鋭敏な鼻を持ち、抽出加減は経験を叩き込むしかありませんから、なかなか専門の職人の域まで到達する者が少なくて。花やハーブも同じに見えて、領土の土壌や風土によって、香りに大きな違いがでるのです。スマラウト領の原料にしても、場所によってばらつきがあるため、原料の調合段階で均一調整に骨が折れるんですよ。そもそも帝国特産にしたら、スマラウト領の実入りが減るではありませんか」
 カーティスはスコーンを割りながら話す。かつてはイノセント伯爵を怖がっていたカーティスも、公私に渡って場数を踏んだ分だけ図太くなり、もはや伯爵に遠慮なく思ったことをズケズケ言う。ヴァイゼ皇帝は、カーティスの積極性を、帝国総合大学で非常勤講師としてこの秋から教鞭を取りはじめたノートル・ナユタ博士の影響が大きいと思っている。
 かつて子鹿のように怯えていたカーティスは愛らしかったが、今の図太い神経に成長したカーティスも魅力的だと、ヴァイゼ皇帝は思っている。特に夜の営みは、少年から青年らしくなってきたカーティスを屈服させる征服感で皇帝を満足させていた。まあ、相変わらずカーティスは鳥肌を立てていて、皇帝の愛が注がれるのに痛みを堪えているが。
「特許を別の領土に許可しても良いのでは?」
 イノセント伯爵が提案するが、やはりカーティスは首を横に振る。
「既にスマラウト侯爵領の二番煎じを行っている貴族や商人も沢山いますが、ウチの社の足元にも及ばない粗悪品しか作れていません。調合や抽出は、厳格な監修が必要なのです。僕や、たまに手伝ってくれる師匠だけでは、スマラウト領の工場を抜き打ち視察するのも限界です。これ以上、生産量を増やせば質が下がってしまいますし。ですから無理、今でさえ限界を超えているぐらいなのですから」
 カーティスはスコーンを平らげ、ティースタンドとは別の皿に盛られたサンドウィッチを食べる。アフタヌーンティーセットのサンドウィッチは、淑女でも食べれられるように具も少なくて小さい。成長期のカーティスには物足りないので、具だくさんのサンドウィッチが別に用意されていた。
「難しいものだな。他国からも出店要請が来ているが、断るしかないか」
 皇帝はため息をつく。せっかく外交のよい手札になりそうだと計算していたが、カーティスがここまで言うなら仕方がない。
「そうしてください。まあ、あえて助言するならば発想の転換で、原料の香りすらしない良質な化粧品を開発することですかね。無臭なら、好きな香水を使うことが出来ますし、香料にこだわらない分、開発も容易で、量産も可能です。質を重視する前提なのは、言うに及ばずですが。しかし開発が成功して量産と販売が軌道に乗れば、それこそ帝国全土だけでなく、他国にも輸出できますよ」
 カーティスの提案に、皇帝とイノセント伯爵だけでなく、給仕兼護衛を務める忠臣執事が驚きを露わにする。
「その発想には驚いたな。しかし、そうなると『レット・シェーン・フルーメ社』の採算が落ちるのではないか?」
「いえ、むしろ競争相手が居るほうが飽きもきません。それに本当に、我が社の工場は生産が限界で、助けて欲しいぐらいなんです」
 カーティスは、ため息をつく。疲労と憂いを帯びたその表情は、皇帝ばかりでなく男色趣味のないはずのイノセント伯爵さえドキリとした。
「新規開発の出来る者や、生産を任せてもいい貴族や商人は居るだろうか?」
「早速、調べてみます」
 ヴァイゼ皇帝の言葉に、諜報活動長官のイノセント伯爵は力強く言う。そこに横槍を入れたのは、カーティスだった。
「でしたらプルネン伯爵閣下に、新たな化粧品会社を興してもらうのはいかがでしょうか」
 カーティスは推薦したが、皇帝もイノセント伯爵も良い顔をしない。
「プルネン伯爵は若いながらも、外務副大臣として手腕を振るってもらっている。会社を興す暇などないだろう」
 しかしカーティスは、それについても織り込み済みだ。
「名前を貸すだけなら、大丈夫だと思います。なにしろ師匠の弟君ですから、投資の利益還元率計算も決断も早いはずです。それに師匠には、プルネン伯爵閣下の他にもランス様という弟君がいらっしゃいます。表向き伯爵領で家令をしておられますが、実際は趣味に時間をかけるため、大学卒業後に領地に引きこもったのですがね。秀才型のプルネン伯爵閣下より、ランス様は師匠寄りの天才です。問題はやる気を起こさせるのに、骨が折れることでしょうか。師匠の引きこもり版・没頭型天才と思ってくだされば、よろしいかと」
「初耳です。プルネン伯爵の優秀さは周知の通りですが、その弟についてはノーマークだったので」
 そう言いながらも、裏の顔は諜報活動長官兼暗殺部指揮官のイノセント伯爵は、浮かない顔だ。一応、プルネン伯爵の末弟が帝国総合大学を出たことは知っている。しかし成績は辛うじて卒業できた程度で、官僚としてスカウトするほどでもないと断じたからだ。役人採用試験にも参加せず、いつの間にか領地に引きこもって兄の家令に成り下がった、天才ノートル・ナユタ博士と秀才ウォレス・プルネン伯爵の出涸らしとしか、イノセント伯爵は思っていなかったのだ。
「面倒事が嫌いなだけです。そして趣味に没頭するのを生きる喜びとしています。プルネン伯爵領特産の新種の金魚は、ランス様が改良したものですよ」
「まさか。金魚の品種改良は、専門の業者が行っているはずでは?」
 皇帝とイノセント伯爵は同時に驚く。血の繋がりはないのに、どことなく2人が似ているのは、生活環境の影響だろうか。
 もともと金魚は、東の大陸から献上されたものだ。形は鯉に似ているが、白や赤や金など様々な色合いが美しく、皇宮の池でも優雅に泳いでいる。だが近年、尾ひれがドレスの裾のように美しいものや、複色の模様が美しく、形も変わった金魚など、続々と新品種がプルネン伯爵領から産出され、生きた宝石として、貴族はもちろん裕福な商人愛好家も多い。
「ランス様は、表に出るのを面倒くさがりますから。他にもこれまでにない全く新しい品種の野菜や料理器具の開発など、手広く行ってますよ」
「なんと……全てここ数年でプルネン伯爵領の特産品となったものばかりじゃないか」
 イノセント伯爵は大きく目を見開いた。
「一番の推薦理由は、ランス様が開発品した、いま女性の間で大流行の脱毛クリームですかね。表向きは領土内の凄腕開発者となってますが、あんな凄い発想と開発をこなせるのは、師匠かランス様ぐらいなものです。体毛に悩む女性たちだけでなく、ヒゲそり跡の濃い貴族男性がこぞって買い求めていますよ。それほどの技術があれば、新たな完全無臭化粧品開発など簡単でしょう」
 東の大陸では男性はヒゲが不可欠らしいが、シュトゥルムフート帝国内でヒゲを生やしている貴族は、少数派だ。ヒゲの青い剃り跡は淑女から嫌われるので、剃り跡に悩む男性は、これまではファンデーションで誤魔化していた。だが脱毛クリームでヒゲそのものが毛根から抜ければ、常にファンデーションが落ちるのを気にすることもなくなる。
 カーティスの助言によって、早速、イノセント伯爵は立ち上がり、異母弟の皇帝に退出許可を願う。皇帝が了承すると、マナーなどお構い無しに元皇太子は部屋を飛び出した。

3.手強い相手
「今の時期なら、弟は呼べるよ。冬だからね」
 イノセント伯爵は、早速外務副大臣のウォレス・プルネン伯爵を通して化粧品事業の開発のため、末弟ランスを皇宮に呼び出してもらえないか打診した。しかしプルネン外務副大臣が弟に召喚命令を出しても、結果は「面倒くさい」の一言文で突き返された。それでもプルネン外務副大臣は何度も打診の手紙を送り続ける。どうせ読まずに竈の焚き付けにされているだろうと知りながらも、皇帝命令の義務として。
 イノセント伯爵などはわざわざ領地に出向き、直接ランスに懇願した。だが理路整然とした皮肉を含む断り文句を並べ立てられ、頭がキレると評判の元皇太子は、反論の余地さえ与えられなかった。
 そして最終手段として、ノートル・ナユタ博士に助力を求めた次第だ。
「何故、冬なら平気なのですか?」
 イノセント伯爵は首を傾げる。
「金魚が卵を産まなくなるからだよ。卵が孵化しなければ、品種改良が成功か失敗かも分からないだろ。それに頼み方を誤ったね。あいつは命令されるのが大嫌いなんだ。そもそも生真面目なウォレスと、偏屈のランスの相性は極めて悪い。ウォレスを使ったことで、ランスを意固地にさせちゃったね。もし本当に皇都まで来てほしかったなら、機嫌を直させるためにも、相応の見返りを手土産に持参しないと」
「そーいうことは、早く言ってください!」
 全てが裏目に出ていたと知ったイノセント伯爵は、頭を抱える。
「だって、そんな話は初耳だもの。せめて弟子に相談してたら、まだ対処法もあっただろうけど。弟子はランスの唯一の友なんだ。だからこそ、弟子を偽装後宮入りさせた理由を見抜いたランスは、余計に皇宮を嫌ってるわけ。正確には皇帝陛下を、だな。皇宮へ無理やり連れてきたら、ランスは皇宮を吹き飛ばしかねないよ。あいつ、人との交流を基本的に嫌ってるから、本当にヤバいんだ。邪魔する奴は、躊躇いなく」
 ナユタ博士は、自らの首を右手で切るジェスチャーをする。それから延々と、既存のものより被弾範囲の広い新型爆弾の作り方と使用方法、保管の仕方などの講義を始めた。元皇太子にして頭脳明晰なイノセント伯爵でさえ、公式だらけの説明についていけず、途中で「もう結構ですから!」と悲鳴に近い制止をかけた。
 気を落ち着けるために咳払いしたあと、イノセント伯爵は尋ねる。
「ランス殿が喜ぶ品とは、どのようなものでしょうか?」
「まだ勧誘諦めないんだ、呆れた。ランスを喜ばせるもので、僕が知ってる範囲だと2つかな。1つ目は、世界三大万能薬の1つ、グローセベリアル草。2つ目は、ブリリヤルダイヤモンド。どっちも希少価値が高く過ぎて、皇都の一等地で邸1軒分の値段がするね」
 ナユタ博士の言葉に、イノセント伯爵は顎が外れそうになった。博士の言う通り、どちらも採取採掘が運まかせの幻の品とも言われてるだけに、その価値は計り知れない。
 ナユタ博士は、弟のランスが、どうしてその希少な薬草と宝石を欲しがっているのか知っている。
(金魚の品種改良のため、餌に混ぜるつもりだと真相を暴露したら、この元皇太子は卒倒するだろうな)
「どうやら諦めるしか無さそうだ。ブリリヤルダイヤモンドは、宝物庫に皇帝の戴冠式用王冠についているもののみ。グローセベリアル草に至っては、取り扱いしている店すら無いだろう。別の開発者を探した方が良さそうだ」
 イノセント伯爵は、ガックリ肩を落とした。
「そこまで頑張って諦めるのも残念だねぇ。まあ、ランスを連れてきたところで、依頼を受ける確率は低いし、別のアテを探した方が早いのには違いない。ちなみにグローセベリアル草を、僕は持ってるけどね」
「なんですって!」
 イノセント伯爵はカッと目を見開き、ナユタ博士に詰め寄る。懸命になりすぎて殺気ダダ漏れのイノセント伯爵に、博士は身の危険を感じて退くが、壁際に追い詰められて肩を激しく揺さぶられた。
「あの幻の薬草を、どうやって手に入れたのですか!教えてください!」
「落ち着け、落ち着け!」
「これが落ち着いてなどいられますか!3大万能薬の中でも頂点に立つグローセベリアル草なんて、よほど幸運でない限り、一生お目にかかれる機会すらないんですよ!」
「ともかく落ち着けって!」
 ナユタ博士はイノセント伯爵の手を振り払う。暗殺手段に長けたイノセント伯爵から逃れるのは常人だと容易ではないが、博士は体の仕組みを熟知しているので、さほど力を込めずとも、元皇太子の肩関節を外して逃れる荒業を用いた。
「痛え!」
「そりゃ、関節外したからね。冷静に話を聞く約束をするなら、関節入れ直すけど?」
「分かった、頼むから!」
「んじゃ」
 ナユタ博士は、イノセント伯爵の肩関節を戻した。痛みの余韻がまだ残るが、その分、イノセント伯爵も日頃の冷静さを取り戻した。
「別に特別なことをしたわけじゃない。これまで採取された場所の情報を集めて、生息地域を絞って自ら赴いただけだ。薬効を期待して採取しに行ったわけではなく、空の青のような珍しい花が見たいというだけの、純粋な好奇心さ。実際、高山で花咲くカトレアのミニチュア版みたいな青い花の群生は素晴らしかったよ。真昼のたった数時間しか咲かない花で、計算していたとは言え、僕はタイミングが良かった。薬草が見つかり難いのは、花がないと葉の形や大きさが、トリカブトかニリンソウと見分けがつきづらいからだね。あとは自生地の問題かな?」
「何処に生えているのか、教えては頂けませんよね?」
 イノセント伯爵は、遠慮がちに質問する。
「いや、別に秘密にするつもりはないよ。アルル山脈の最高峰、ガルゲン山八合目付近に自生している。部下を派遣して採りに行かせるには、いまは時期が悪いだろうけど」
「ガルゲン山……」
 イノセント伯爵は、その場に座り込んでしまった。アルル山脈のガルゲン山といえば世界最高峰の山で、登山者憧れの山だが、登頂に成功した者は皆無に等しい。山脈が入り組んでいるためガルゲン山にたどり着くことさえ困難であり、仮にガルゲン山の麓までたどり着いてアタックを開始しても、自身の登山経験で無理と判断して下山した者以外は、万年雪に覆われた山頂近くのクレバスに落下して生きて戻る者が少ないからだ。仮に命はあっても、凍傷で足の指が腐り落ちてしまったり、ともかく五体満足で帰れる山ではない。
「よくご無事でしたね……」
 イノセント伯爵は、尊敬の念を込めて言った。
「僕は登頂を目指したわけではなく、植物の限界生域までで引き返したから、何ともないよ。ただあの高度だと、高山病に熟知した者でないと、苦しいどころか、山ではなくあの世へ登頂しちゃうだろうね」
 ナユタ博士は高山病対策を万全にして、体を高度に慣らしながら高山病対策用の薬を飲み、ペース配分を徹底したからこそ、五体満足で戻ってこれたのだ。途中、警戒していても熊や猪にも遭遇したが、そこは手製の小型爆弾で倒して登山食にした。
 話を聞きながら、イノセント伯爵は「やっぱ天才は違う」と感心しつつ、ナユタ博士がグローセベリアル草を持っていることを思い出す。
「博士、そのグローセベリアル草を譲ってはいただけないでしょうか?」
「相場の値段を払ってくれるなら、構わないよ。ただ金を溝に捨てるような賭けをする必要ある?別の専門家を探した方が安上がりだと思うけど」
「確かに専門家に関しては、別をあたった方が良いかもしれません。しかしプルネン外務副大臣は、もしも弟が化粧品開発をするのなら、その援助資金や自領での工場建設投資をしても良いと仰っているのです。他の貴族にも話を持ちかければ、飛びつく者も居るかもしれません。しかし誠実さを重視すると、プルネン外務副大臣にお任せするほうが堅実なのは間違いありませんから」
「ふーん、堅物のウォレスは貴殿にさえ信頼されているんだな。それで、本当に相場の値段で買うの?」
「……多少、勉強していただけると助かるのですが」
「現物支給でも構わないよ。弟子の婚約者の皇都の邸の隣が売りに出されてるでしょ。あれの所有権を僕に書き換えてくれるなら、構わないけど?」
 皇都のスマラウト侯爵邸は、没落した際に一旦一等地の邸を手放し、下位貴族の貴族街に邸を移した。しかし化粧品が大当たりして資金が潤沢になったことで、新たに高位貴族が暮らす一等地の邸を買い戻したのだ。新たなスマラウト侯爵邸の隣の空き邸は、イノセント伯爵が粛清した、とある公爵家が所有していた場所だった。
「あの邸の所有権は、ただいま皇帝陛下がお持ちです。交渉に少しばかり時間をいただければ、色よい返事が出来るかと」
「じゃ、決まったら連絡して。僕は皇都では、基本的にウェスリー子爵邸に滞在しているけど、弟子が戻ってる時はスマラウト侯爵邸にいるから」
 こうして商談は成立した。

4.ライバルは救世主?
 今日は週に一度の帰宅日だった。カーティスは、週の6日間は、皇城で寝起きしている。特別な仕事、つまり皇帝の夜の相手を務めるためだ。

 皇帝は、後宮や皇妃のもとを訪れても、泊まることなく皇城のプライベートエリアに戻る。それはカーティス寵愛のためだけが理由でなく、実子はこれ以上必要ないと断じたからだ。だから女官長に妃たちの排卵期を尋ね、あえてその時期に当たった妃の元へは近寄らなかった。
 先代の父、先々代の祖父、そのまた曽祖父が成した子供の養育費と、成人後の一代貴族として送り出すための資金は、子供の数だけ膨大な出費だった。ましてや、いまは後宮に先々代までの倍以上の側妃がいる。反皇帝派の取り潰し、もしくは降格が一段落するまで、それは元皇太子のイノセント伯爵が判断することだが、了承が得られ次第、後宮は一気に縮小するつもりだ。ともかく妃を養う金がかかりすぎる。国庫を傾けるほどでないにしても、その無駄金を公共事業や防衛費に回したいと思うのが、皇帝及び家臣たちの未来展望だ。

 カーティスが帰るのはウェスリー子爵邸ではなく、実質的な妻である婚約者と娘が待つスマラウト侯爵邸だ。
 この日、帰宅したカーティスは、客人に驚いた。
「ランス様、いらしてたのですか!」
 皇都嫌いで知られているプルネン伯爵末弟のランスが、1歳娘クラーラと遊んでいるのを見て驚いた。
「うん。君と会いたくても、今までみたいにウェスリー子爵領では会えないからね」
 出不精なランスだが、金魚の繁殖に一段落がつく晩秋から冬にかけて、カーティスが偽装して後宮入りするまで、毎年ウェスリー子爵領の本邸に滞在し、互いに研究分野の討論を夜更けまで行った。
「君が皇帝に酷い目に遭わされていることは知っているよ。だがその話よりまず、クラーラ嬢と婚約させてくれない?」
「はあ?」
 ついカーティスは大声を出してしまった。愛娘クラーラは1歳、ランスは23歳だ。年の差が違いすぎるし、そもそも愛娘は可愛い盛り。嫁になど出すものかと、親バカが最も発揮される年頃だ。だが婿養子となって、次期侯爵となるカーティスの愛娘は、高位貴族令嬢となる。下位貴族令嬢なら、ある程度の自由恋愛が可能。しかし高位貴族令嬢となると、婚姻の自由など無いに等しい。
「ランス殿が他人に興味を持つのは、珍しいですね。年の差はともかくとして、申し訳ありませんが、ランス殿と結婚させるわけにはいかないのですよ」
「爵位もない私だと、嫁に出すのは不満ということか?まさか君に、そんな風に言われるなんて。次期侯爵様となると、急に身分を気にするようになるんだな」
 ランスはクラーラを抱き上げて、あやしながらも、口調は厳しい。そもそもランスは人嫌いで、家族にさえ必要事項以外は話さない。屈託なく対等に話す相手は、カーティスぐらいなものだ。
「クラーラは皇帝陛下の命により、皇太子エアーリヒ殿下の婚約者に内定してしまったんだ」
 言葉に出すと、憂鬱でしかない。カーティスの愛娘は、順調に育てば皇太子妃として、10歳になったら皇城に住み込み、お妃教育が始まる。第一皇妃、第二皇妃は皇太子が幼いうちから、家柄や令嬢の資質を考量して定められる。ヴァイゼ皇帝の場合は急な皇太子交代劇のため、皇妃は側妃の中から選んだが、それは皇帝もしくは皇太子にとって特例だ。
「なんだよ、それ!皇帝は君を束縛するばかりか、クラーラまで取り上げようと言うのか!」
 ランスが激昂して声を荒立てたため、機嫌の良かったクラーラが泣き出した。慌てて乳母がクラーラを引き取り、育児室へと連れて行く。
 訪問伺いもなく訪れたランスを、ヴェルことヴェリーナ・スマラウト侯爵令嬢は快くカーティスの親友として招き入れた。既にランスとヴェリーナは面識があり、事情はどうであれ、愛し合っている親友とその婚約者を祝福した。もっとも他人と話すのが苦手なランスは、カーティスが用事で少しの間だけでも席を外すなり、自分も図書室に籠もってヴェリーナと日常会話さえしなかった。
 しかし今回は違った。夫婦双方の容姿を継いだクラーラに一目でメロメロになり、クラーラをあやしながら、ごく普通に初めてヴェリーナとお喋りしながら、カーティスの帰宅を待っていた。もっぱら話題はクラーラのことで、幼い親友の娘の好きなものや好きな遊びを聞き出すことに夢中だったが。
「あのクソ皇帝、どうしてくれようか」
 不気味な発言をするランスに危機感を憶えたカーティスは、さりげなくヴェリーナに、クラーラの様子を見に行くよう指示した。
 なまじ宥めたり慰めたりすると、余計にランスがへそを曲げることを、カーティスは長年の経験から知っている。こういうときは、落ち着くまで放っておくに限る。
 カーティスはリビンクに常備してある、だがクラーラの手の届かない本棚からスマラウト侯爵領の地図を取り出して広げる。最新の地図だが、カーティスの書き込みで文字がビッシリだ。既存の森や林を開墾したくない。しかし香料となる原料植物を育てるには、既に土地が足りない。そうかと言って、農作物畑を潰して他の領地から野菜を仕入れるリスクも冒したくない。天候不良で野菜や麦の出来が悪ければ、食べ物のない領民が困窮するのが目に見えているからだ。
「それは、スマラウト侯爵領の地図か?」
 少しは落ち着いたのか、テーブルの上に広げた地図をランスは覗き込む。
「ええ。陛下のご命令とは言え、皇都に出店するとなると、スマラウト侯爵領の店より倍の量を常備する必要があるのですが、やはり土地が足りない。工場をウェスリー子爵領にも建てる時期かな、と考えているんです。ただスマラウト侯爵領の化粧品と趣向と違うものを売り出せば、客も分散化するのではと思いましてね。もともとウチの領地は、医療用薬草が特産品ですから」
「しかしウェスリー子爵領は、いまや帝国医療最先端を担っている。薬品開発研究場や薬の生産工場で使う薬草を、化粧品まで使う余裕は無いだろう?」
「そこなんですよね。開墾できる土地もないし。伯父上やお祖父様の領地に薬草畑を作ったり、工場を建てても、品質を維持できる保証がない。大学を卒業して、スマラウト侯爵領へ戻ることが出来れば、技術者の育成に力を注げるんだけど」
「アレク兄上に協力してもらっても駄目なのか?」
「おいおい、捨てた名前を拾って使うなよ」
 いつの間にかリビンクには、大学の残業を終えたノートル・ナユタ博士が立っていた。彼の本名はアレクサンドロス・プルネン。本来ならプルネン伯爵になっていたはずなのに、自由を求めて名前も伯爵の使命も捨てて出奔した。長男に期待していた両親はショックのあまり隠居を決意、ウッドバルト男爵となって、プルネン伯爵領の主都で暮らしている。

 皆で食事を囲んだ後、いつもならヴェリーナとの逢瀬を満喫するカーティスだったが、今日はクラーラと共に下がってもらい、改めてプルネン伯爵兄弟とカーティスとで、話し合いをすることになった。
「まさか私が皇都にいるとも知らず、兄上と薬草売買契約を結ぶとは。せいぜい搾り取ってやることだ」
 手酌で赤ワインをグラスに注ぎながら、ランスほほくそ笑む。
「まあ、依頼を引き受けるかどうかは、おまえ次第だ。僕も、弟子のために一肌脱いでやりたいところだが、いまは手が回らなくてな。講師なんて引き受けねば、もう少し何とかしようもあったが」
 ナユタ博士はワインよりもビール派なので、ポテトフライをツマミにしてビール飲んでいた。
「師匠が皇都に残ったのは、僕のためでしょ。何らかの手を使って、少なくとも後宮から出られた。お陰で愛する妻子とも、週に一度は再会できています。本当に有り難い」 
 カーティスは改めて、師匠のナユタ博士に頭を下げた。カーティスが飲んでいるのは紅茶。アルコールも飲めるが、今夜は頭をハッキリさせておきたい。話し合いが終わったら、愛しい婚約者と共寝したかったから。夜の営みは妊婦に負担をかけるので避けるが、婚約者の柔肌を撫で回す貴重な一晩だ。いつもはゴツい手で、撫で回されている側なのだから、週に一度の補給は絶対に必要。
「まだ妻じゃなくて婚約者だろ。だがスマラウト侯爵令嬢の懐妊は誤算だった。それがなければ、来春に特別免状で結婚できたのに。本当は大学進学と同時に本当の夫婦にしてやりたかったが、皇帝の説得に時間がかかった。僕の失態だ」
 特別免状とは、本来なら男性16歲、女性13歳で結婚可能になるが、皇帝の許可が下りれば、それより前に結婚して夫婦になれるのだ。
「師匠はよくやってくれています。それに季節は素晴らしいけど、そんな急だとヴェルもウェディングドレスを既製品を着てやらねばならなくなってしまう。人生一度切りの結婚式なのだから、オーダーメイドで、ヴェルの好みをふんだんに取り入れた特製のウェディングドレスで美しく着飾って欲しい。それに侯爵家の体面もあることだし、来秋の挙式披露宴では第2子のお披露目も出来ます。貴族の皆さんに、ヴェルの美しさと子供たちを大々的に披露しないとね。侯爵閣下は跡継ぎとなる男児を望んでいらっしゃるけど、正直、僕は次も娘がいいなぁ。従妹は父方、母方合わせても3人だけで、あとはみんな男ですから」
「弟子ならすぐに3人目もできそうだから、どちらでも構わないだろう。だが少なくとも、挙式を終えるまでは婚約者を妊娠させるなよ。どうも、おまえたちは体の相性が良すぎるのか、子供が出来やすいようだから」
 師匠に揶揄われて、カーティスは耳まで真っ赤になった。確かにヴェルとは相性が良すぎるようで、計算すると後宮を出て皇都で再会してすぐ、ヴェリーナは第二子を身ごもったようだ。
「だがクラーラのためにも、このまま皇帝の慰み者でいるのはいただけないな。少なくともクラーラが物心つく前には、君は皇帝の束縛から逃れないと」
 ランスは眉間にしわを寄せて考え込む。そして何かを思いついたようだ。
「兄上、報酬を受け取ったら、皇帝との謁見の手筈を整えてもらいたい。友人の負担を解消するために、化粧品開発は引き受けるのは決定事項だが、その条件を満たすための条件を、皇帝に突きつけてやりたい」
「物騒なことではないだろうな?」
 ナユタ博士は心配する。下手を打てば、真面目な弟のウォレスにまで迷惑をかける。自分とランスなら、どこででも生きていけるが、ウォレスには妻子がいるし、老いた両親にこれ以上心労を与えたくない。
「常識の範囲だから、心配せずとも大丈夫。クラーラと友の為に、私は最善のことをするだけだ」
 ランスは不敵な笑みを浮かべた。
 カーティスは、「いまランス様の中では、クラーラが優先なんだな」と、少々不安に思う。師匠は従妹の幼いゾフィーを熱愛、ランスはクラーラにご執心というのは……深く考えるほど怖いので、これ以上は思考を止めた。

 スマラウト侯爵邸隣の空き邸が、ナユタ博士のものになった。引き換えに、ナユタ博士は所有していた世界三大万能薬の頂点に立つ幻の薬草・グローセベリアル草を渡した。小瓶に入った何の変哲もない乾燥薬草は、コルクを開けると、表現しがたい香りがした。まるで百花繚乱の花園の香りを詰めたような匂いで、受け取ったイノセント伯爵は驚いた。これをランスに手渡せば、少なくとも皇都へ連れてくることは出来る。早速、プルネン伯爵領へ旅立とうとしたイノセント伯爵に、いたずらっぽい笑みを浮かべてナユタ博士は言った。
「弟なら唯一の友人たる弟子に会いに、先日から皇都のウェスリー子爵邸に滞在してるよ」
 それを聞いたイノセント伯爵は目が点になった後、「詐欺だ!」とわめき出した。しかし邸の所有権は既にナユタ博士に書き換えられ、その登録証明書もナユタ博士に渡した後だ。確認を怠らなければと、地団駄踏んで悔しがる。
「無駄にはならないよ、それ。末弟に化粧品事業開発のこと話したら、『皇帝陛下のために、貴重な時間を割きたくない』とすねてしまってね。弟子と2人で宥めるのに大変だったんだ」
「それで、機嫌は直ったのですか?」
 恐る恐るイノセント伯爵は尋ねる。ランスの偏屈ぶりは何度も目の当たりにしているので、せっかく皇都まで来ているのに、このまま領地へUターンされたら大変だと思ったのだろう。
「そこの説得は、貴殿次第かと。地雷を踏まないよう、慎重にね。僕もあいつには手を焼いているんだ」
 ナユタ博士は、わざとらしいため息をつく。
 一応、ナユタ博士かカーティスと同行の上で説得したら上手くいくのではと、イノセント伯爵は提案するが、博士は難しい顔をして首を横に振る。
「他人の助力を充てにするような真似は、逆効果だよ。末弟は、常に相手の本気度合いを測ってる。癖みたいなもんだね。その際の第一関門が、他力本願。一番、末弟が嫌う地雷だよ。誠意をもって、本気で伝えれば通じるぐらいの常識が、あいつにもある。言動を間違えないことに気を配ればの話だけどね」
 イノセント伯爵は、頷いた。邸所有権を譲る手配は、簡単だが難しくもあった。皇帝からの免状を得るのは簡単だったが、土地管理の部署との交渉が大変だったのだ。頭の硬い役人は、これだから困る。失敗はもう出来ない。
 
 イノセント伯爵が慎重に交渉した末、グローセベリアル草を渡した甲斐はあった。翌日には、ランスとヴァイゼ皇帝、そしてイノセント伯爵とプルネン伯爵を交えた茶会が開かれた。給仕はいつもの忠臣執事。
 まず世間話をイノセント伯爵が始めたが、ブランデーをたっぷり入れた最高級品コーヒーを飲みながら、ランスは不機嫌を露わにする。
「時間が惜しいから、早く本題に入ってくれない?」
「おいランス、陛下の御前でなんて無礼な!」
「ウォレス兄上だって、こんなところで時間を潰している暇はないはずだろ。エヴァルト前皇帝の元第一皇妃の実家フェルム王国と、国交断絶の危機を何とか回避しようと、外務省は躍起になって忙しいはず。まあ、戦争をしたくなければ、国内情報をベラベラ敵国に流すシュタイルハンク伯爵を捕らえて拷問にかけるんだね。娘を使ってバイエル公爵家の次男坊を取り込み、バイエル公爵家を味方に付けようと画策したシュタイルハンク伯爵の罪は重い。奴を潰さない限り、国交回復はまず無理だ。ちなみにバイエル公爵は、白だよ。後宮を引っかき回した馬鹿な長女と、婚約破棄騒動スキャンダルを起こした種無し次男のせいで、このところ散々な目に遭っているけど、たまたまこの2人が馬鹿なだけで、バイエル公爵家に罪はない。諜報活動リーダー、イノセント伯爵。部下の言うことを鵜呑みにしないほうがいいよ。バイエル公爵家自体を黒と報告した奴も、シュタイルハンク伯爵と繋がった二重スパイたからさ」
 ランスの指摘に、「はぁー」と長いため息をイノセント伯爵はつく。
「やはりそうか。機密情報が流出していることを調べた結果、ダウル伯爵家出身の部下が黒らしいことまでは行き着いた。ただこれが部下独自の判断か、ダウル伯爵家そのものがーー」
「ダウル伯爵家は白。あんたの部下は反体制グループに属しているが、それは家督を親父と長兄嫡子から奪うのが目的で加入したんだ。あんたを欺けるほどの天才と酔っているみたいだけど、どこが。あんたが本当はエヴァルト前皇帝の嫡子だった、ヴァイゼ皇帝派が捏造した偽の親子鑑定結果により、汚名を着せられた哀れな元皇太子様を復権させ、フェルム王国と協力して皇位奪還作戦を練り上げていた真の首謀者は、既に処刑した侯爵ではなく、影で操ってたシュタイルハンク伯爵さ。元皇太子殿下を即位させた見返りに、フェルム王国の協力のもと、シュタイルハンク伯爵は一気に大公までのし上がって一国の主となる野望を持っていたわけ。馬鹿だよね、傀儡なるほどあんたは甘くない。むしろ粛清を強化して、フェルム王国そのものも配下にしようと目論む野心を、不義の子だと自ら暴くことで、わざと眠らせていたのにさ」
「なんで、そんなことまで知ってる!」
 ランスの兄のウォレスが興奮のあまり大声で叫ぶが、ランスは太々しいまてまに平静だ。
「国の税収、領土の状態、口さがない社交界の噂を分析すれば、簡単に答えを導ける。イノセント伯爵諜報長官は、慎重を期して証拠集めをした末、一気に断罪したかったようだけど。そんな悠長なやり方をしてたら、取り返しのつかないことになってたかもしれないよ。まあ、フェルム王国が武力を帝国に向けてくる余裕はないけどね。アレク兄上が裏で動いて、フェルム王国の隣国にフェルム王国の急所を流していたから。背後からいきなり突かれる衝撃は、どれほどのものだろうか」
 その時、人払いしたお茶会会場の応接室の扉が激しく叩かれる。忠臣執事が扉越しに敵か味方か確認し、味方と分かると扉を開け放った。外務大臣だった。
「申し上げます!西大陸東の端のイスートファイム王国が、フェルム王国に侵攻しました!」
 皇帝、イノセント伯爵、プルネン外務副大臣が一斉に立ち上がる。だがランスだけは、優雅に生クリームたっぷりのイチゴケーキを食べていた。
「貴重な薬草をいただいたお礼ですよ。ちょっと私も、イーストファイム王国に知恵をお授けしました」
「どうやって……」
 薬草を渡したのは、ほんの数日前だ。イノセント伯爵は驚愕しながら尋ねる。
「隼を伝令に使えば、一気にイーストファイム王国まで届きますよ。彼の国には友人にはなり得ないが、金魚新品種開発の同志がいましてね。で、たまたまその金魚愛好家同志がイーストファイム王国の国王だった、それだけの話です」
 人嫌いのランスだが、金魚を通じて、とんでもない人脈を持っていたようだ。
「慌ててるでしょうねぇ、反体制派グループ首謀者は」
 コーヒーでケーキの甘さを中和しながら、流し目でイノセント伯爵を見る。イノセント伯爵は我に返り、ヴァイゼ皇帝に一礼すると、部屋を飛び出した。プルネン外務副大臣も、外務省へ駆け戻る外務大臣の後を追って茶会の部屋から飛び出していく。
「慌ただしいですね。でもこれで、後宮の出費も半額以下まで抑えられるのではないですか?」
「……ああ、大助かりだ」
「少々、薬草のお礼をしすぎましたかねぇ」
 ランスは微笑みながら、真っすぐヴァイゼ皇帝を見つめる。
 ランスは銀髪と真冬の凍てつく星のような青い瞳を持つ美青年だ。これだけの美貌の持ち主なら、さぞ在学中も目立って話題になっていたはずだ。しかし異母兄のイノセント伯爵も実際に会ってみて初めて、ランスの知性だけでなく、際立つ容姿にも驚いたと語っていた。こんな姿で、よく埋没できていたものだ。
「イーストファイム王国へは、なにを報せたんだ?」
 ヴァイゼは声を上ずらせて尋ねる。正直、この青年に見つめられると胸の高まりが止まらない。
「イーストファイム王国側から、フェルム王国の砦の急所を何箇所か。それと王城の抜け道の出入り口ですね。まあ、腐っても帝国と並ぶ大国フェルム王国を滅亡させるまでの実力がイーストファイム王国にあるとも思えませんが、領土の四分の一程度は奪えるんじゃないでしょうか。フェルム王国の国民は、辺境近くほど税収の高さの割に、国の恩恵を得られずに不満を燻らせていますから、寝返る国民も国境に近いほど多いでしょう」
 ランスはテーブルに向き直り、オレンジタルトを食べ始める。好物がケーキと聞いていたが、既に3個の普通サイズの切り分けたケーキを食している。その割に細身だ。
 ランスの横顔に見惚れたヴァイゼ皇帝は、「月の女神」と呟いた。ランスの美しい顔は、冴え冴えとした冬の空に輝く美しい月を連想させたからだ。
(帝国貴族にも、女性を凌ぐ美貌の男性は多い。だが何故、ここまでこの青年から目を離せないのだろうか?)
 動悸は益々激しくなる。気がつけば、ランスを引き寄せて熱烈なキスを浴びせていた。
(男に欲情するなんて、カーティス以外初めてだ。何故だ、彼が欲しくてたまらない)
 ランスからは柑橘系のコロンの香りがした。それが体臭と混じって、よりヴァイゼ皇帝を興奮させる。
 ランスもまた、皇帝の首に腕を絡ませて、激しいキスに応じた。
 部屋に残っていた忠臣執事は、そっと部屋から出る。扉の外に立ち、「フー」とため息をついた。
(あの青年は魔性だ。この私まで、妙な気分にさせるとは)
 忠臣執事は心のなかで呟きながら、扉の前を守る。扉の内側から、物音と喘ぎ声が聞こえてくる。
(カーティス君も、これでお役御免になるな。もともと、あの平凡な容姿の何処に陛下が惹かれたのか、私も意味が分からなかったが。ともかくカーティス君は来秋の結婚で、正式に子爵令息から一気に侯爵家跡取りとなる。何にせよ、高位貴族の跡取りと陛下が結ばれているのは、色々と不都合な憶測を生みがちだ。ランス殿なら、伯爵家三男で愛人にはもってこいの人材。しかも頭脳はカーティス君に並ぶか、それ以上の天才だ。まるで作り上げられたかのような交代劇ではないか)
 忠臣執事は、内側の物音を聞きつつ、安堵の息をついた。
 部屋の中で夢中で行為に耽る皇帝と、それに抵抗することなく応じるランス。しかし甘い声を漏らしながらも、ランスの目は侮蔑を浮かべていた。もちろん、皇帝がそんなこと気づく余裕も無かったが。

5.思い知れ
 真夜中、皇帝は皇城のプライベートエリア内の寝室で目を覚ました。茶会を開いていた部屋から、こちらに移動してなお、ヴァイゼ皇帝はランスを抱いた。何度も何度も。そして疲れ果てて、夕飯も取らずに寝込んでしまったわけだが、真夜中に喉の渇きで目覚めた。
 水差しからコップに水を注ぎ、一気飲みする。ベッドでは美しい青年が眠っている。眠っている姿は、本当にこの世の者とは思えない美しさだった。しかし皇帝は違和感を憶える。眠る前までの情欲が、すっかり失せていたのだ。カーティスが相手の時は、こんなことはなかった。
 するとランスが目を覚ます。服の下は意外と筋肉質で、胸筋が割れている。
「うー、想像以上に痛いな。カーティスも可哀想に。彼、男と出来る体じゃないじゃん。ほんと、陛下は酷いことするよね。妃だけで満足できないなら、相手したがる貴族令息なんて星の数ほど転がっているだろうに」
 あの茶会室での妖艶さは何処へやら。ランスは心底から軽蔑しきった目で皇帝を睨む。
 不意にヴァイゼ皇帝は目を見開いた。
「貴様、俺に薬を盛ったのか!」
「薬は盛ってない。ただ兄達が出ていった隙に、媚薬混じりのコロンを自分に振りかけただけだ。でも陛下、あの程度の媚薬で惑わされてたら駄目じゃん。いくら急に皇位が巡ってきたとは言え、皇太子時代からだいぶ経ってるのだから、毒耐性つけてるはずでしょ。それとも少量の毒さえ怖くて、耐性つけるの放棄してるとか?そっちのがヤバいじゃん。周囲は敵だらけなのに」
「毒耐性なら、幼い頃から付けている。皇妃腹の皇子は何が起こるか分からないからな。普通の媚薬程度なら、俺に効くわけがない。貴様の媚薬、我流で作った特別製だろう」
 皇帝も鋭い目でランスを睨みつける。大抵の者なら怖気づくが、ランスは不敵に笑った。
「陛下の耐性を考慮して、成分を変えた強めのものを使用した。でもあんなに盛るなんて思わなかったよ。効力が早く切れるよう、改善の余地ありだな。でないと私の大事な部分が避けてしまう。それより痛み止め軟膏ぐらい常備してるだろ?早く出せよ」
「二度と貴様なんぞ抱くものか!」
 皇帝は引き出しから軟膏を取り出すなり、ランスに放り投げる。その軟膏は、カーティスのために常備しているものだ。ランスは薬を塗った後、ベッドから立ち上がる。年齢は、確か皇帝より3歳年上だったはず。悔しいが、裸体までもが羨むほど美しかった。
「服はここだ。さっさと着て出ていけーー何をする!」
 皇帝は、おもむろにランスにベッドの上に放り投げられた。ランスは服を手に取ったが、それを着ずにポケットから薬を取り出して口に放り込むと、ベッドから降りかけた皇帝を押し倒す。
「私はねぇ、人が根本的に嫌いなんだ。そんな中で、唯一、大切だったのがカーティスだったわけ。親友を超えて、何度、彼を抱くことを夢想したことか。耐えるのに必死だったよ。それを貴様は穢した。どれだけ痛いか、その身で確かめろ」
 ランスが飲んだのは、強めの媚薬だった。薬を飲まなきゃ、大嫌いな男を抱くなんて出来なかったからだ。そもそも人嫌いのランスは、カーティス以外に欲情したことはないし、カーティス以外は触りたくすらない。
 皇帝は護身のために鍛えているが、ランスは長兄同様、医学知識に長けているため、人を暴れなくする術も熟知していた。ランスに動きを封じられた皇帝は、愛撫すらなしで、美しい男に本懐を遂げられた。その痛みは想像を絶した。 
「もうカーティスに手出しするな。約束しろ」
「くっ……誰に向かって言っている!」
「ふーん、痛みにはさすがに強いか。敵に捕らわれた際の拷問を想定して、皇族は痛みに耐える訓練を受けてるもんなぁ。だが私も、カーティスの幸せを守る守護者になりたいんでね。カーティスを抱くことは生涯なくてもいい。ただ彼が幸せでいてくれるなら」
 痛みが無効なら、逆なことをすればいい。それで皇帝が逆の意味で男色にハマったところで、ランスにしてみれば、知ったことかって話だ。
 丁寧な行為に、思わず皇帝は墜ちかけた。辛さはあるが、今度は快楽も混じってる。
「へえ、そっちの才能も充分じゃん。気色悪いけど、これもカーティスのためだ。薬が切れるまで、もう少し頑張るか」
 ランスはもう一度、皇帝を優しく抱いた。慣れてきたのか、次は快楽の波がさっきより強烈だ。
(マズイ、こんなはずでは……)
 ……皇帝はランスに陥落した。

 翌朝、目覚めると寝室にランスの姿はなかった。代わりに便箋が枕元に置いてある。
『カーティスに昨夜の痴態をバラされたくなければ、二度と彼に手を出すな。相手が欲しけりゃ妃とするか、別の男を探せ。ああ、どっちで感じたかは、一目瞭然だったな』
 皇帝は手紙を握りしめながら、屈辱でワナワナと震えた。

6.幸せの形
 フェルム王国とイーストファイム王国との戦争は、翌年早春に決着した。イーストファイム王国が、フェルム王国国土の半分を占領したところで、フェルム王国は降伏。講和条約が締結された。その条件は、好戦派だった国王と皇太子の退位と処刑、フェルム王国は穏健派かつ国民からの人気も高かった国王の同母弟ピースウッド公爵が継ぐことになった。同母弟は26歳、そしてシュトゥルムフート帝国の帝国総合大学へ留学経験があった。なにより金魚愛好家という趣味からして、イーストファイム国王ばかりか、プルネン伯爵の弟・ランスと繋がりがあるのは明白だった。

 隣国の戦争が、影響あったのか定かではない。しかしフェルム王国とイーストファイム王国が開戦した翌日、カーティスは皇帝から「もう、ここへ来なくていい。側近の話も白紙だ。おまえは『レット・シェーン・フルーメ社』と妻子に専念しろ」と、お役御免となった。
 突然のことだったので、カーティスは首をかしげるばかりだが、ともかく妻子のもとへ毎日帰れるのは嬉しくてたまらなかった。そう、妻子。結婚披露舞踏会は予定通り秋に行うが、皇帝から「餞別だ」と、ヴェリーナとの正式婚姻が認められ、カーティスは正式にスマラウト侯爵家の婿養子となった。
 ヴァイゼ皇帝から厄介払いされた日には、嬉しさのあまり馬車を使わず、スキップしながら皇都のスマラウト侯爵邸に帰った。

 今日はカーティスの『お務め』の日なので、寂しさと心細さを我慢していたヴェリーナは、予告なく帰宅した婚約者に心底から喜び、妊婦なのにも関わらず、カーティスのもとへ駆け寄って抱きついた。娘のクラーラも、父親の帰宅に大喜びだ。
「ただいま、愛しの妻よ」
 カーティスはかがみ込んで、ヴェリーナにキスをする。「まだ妻ではないわ」と照れくさそうに笑うヴェリーナに、カーティスはその言葉を待っていたとばかりに、鞄から純金製の書簡箱を取り出して手渡した。
「まあ、素敵な箱だこと。何が入っているのかしら?」
「開けてご覧」
 薔薇の花が浮き彫りにされた書簡箱を、カーティスの腕の中でヴェリーナは開けた。中には厚手の紙が丸められ、赤いリボンで括られている。リボンを解いて紙を広げると、王家の紋章入り金の縁取りのある、特別な紙だった。金のツタ模様の枠の中には、カーティスとヴェリーナの結婚を認める旨の文章と共に、ヴァイゼ皇帝のサインと印章が押されていた。この婚姻承諾書は当人達所有のものだが、同じものが皇宮書庫室に保管されている。
 ヴェリーナは喜びのあまり、カーティスの胸に抱きついて泣き出した。
 カーティスは、妻となったヴェリーナの銀髪を優しく撫でる。
「陛下に、戸籍も見せていただいた。僕はもうウェスリー子爵の長男ではなく、スマラウト侯爵家の婿養子として記載されていた。ヴェリーナ・ケイテ・スマラウトの夫として」
「嬉しい、こんな幸せが来るなんて!」 
 婚約者に手酷い振られ方をしたとき、人生は終わったとヴェリーナは思った。そして紆余曲折の末、彼女は愛しい人の正式な妻となったのだ。
「もう一つ、いい報告があるよ。僕は皇帝陛下から、もう来なくていいとお役御免になった。ようやく、君だけの夫になれたんだ」
 カーティスは、夜が来るたびに皇城の皇帝のベッドの上で辛い思いをしてきた日々が絶えたことが、嬉しくてたまらなかった。
 皇帝はヴェリーナに見せつけるために、カーティスの週に一度の帰宅前夜は必ず、沢山の刻印を体中につけた。それを見るたびヴェリーナが悔しさと嫉妬で怒り狂いそうになりながらも必死に堪えている姿に、カーティスは罪悪感を憶えずにはいられなかった。
 だが、やっと2人は悪夢から解放されたのだ。その夜は急遽、パーティーとなった。隣のナユタ博士所有となった邸は改築中なので、皇都のウェスリー子爵邸に滞在しているノートル・ナユタ博士と、ランス・プルネンも招待された。
 プルネン兄弟は、心からカーティスとヴェリーナを祝った。お酒が飲めないヴェリーナとクラーラはジュースを、カーティスとナユタ博士とランスは極上のワインで祝杯をあげた。
 侍女頭は、いの一番にスマラウト侯爵家とウェスリー子爵家に手紙を手短に書いて、早馬をそれぞれの領地に向けて出した。共に西方面なので、この時期でも多少の雪は残っているが、明後日には到着するだろう。
「皇帝の側近になれるチャンスが逃げて、悔しくないかい?」
 この幸せを密かにお膳立てしたランスは尋ねる。
「むしろ嬉しくて、スキップしながら帰ってきたよ。だから門番にびっくりされた。馬車じゃないんですかって」
 心から陽気に笑うカーティスを、全員が久々に見た。後宮入りして以来今日まで、彼は笑ってもいつも何処か憂いを含んでいた。
「それに、いいタイミングだった。ヴェルのお腹の胎児は双子だから心配でさ。早産の危険性もあるから、その時は僕が近くにいた方が対処できるし。だから、どう陛下に説明して納得してもらえるか、少なくとも夜だけでも傍らに付いててあげたいと悩んでたから」
「確かに、そのために僕は本格的な春になったら大学講師を辞して、この邸に滞在するつもりだったけど、奥方としては弟子が傍らにいる方が心強いだろうからね」
 ナユタ博士は追随する。双子のお産はリスクが高い。安定期に、医学最先端のウェスリー子爵領、つまりカーティスの実家へ連れて行ったほうが良いかもしれないと、博士でさえ悩んだほどだ。しかし弟子のカーティスは、皇都から、正確には皇帝に離れられない。ヴェリーナの不安ストレスを招きかねない、弟子との遠距離生活の方が為にならないと結論づけた。それで皇都に留まってもリスクを減らせるように、赤子の命を守る保育器の改良の最中だ。弟子が皇帝の執着から解放されて一安心だが、医療機器はやはり準備しておいた方が安心なので、引き続き博士は制作を続けるつもりだ。
「つーか、上級官僚目指してるわけじゃないなら、カーティスに大学の卒業証書なんて必要無いだろ。僕は両親と次兄の命令で、『金魚ばかり相手してないで、学校で友達作ってこい』と追い出された口だったけど、結局は友達になれるレベルの奴は周囲に居なかったし、時間の無駄だった」
 ランスにとって、退屈を通り越して、古臭い知識教えてどうすると、軽蔑していた。皇帝やイノセント伯爵が見惚れたほどの美貌は、皇都にいる時は寝るときでさえ、変装して地味な根暗を演じていたので、お節介や変わり者以外は近寄ってくる者は居なかった。たまにイジメの対象にされたが、リーダー格を瞬時で判別すると、長兄直伝の関節外しを使って黙らせた。たまに力加減を間違えて相手の骨を折ってしまった事もあったが、地味な根暗を装ってるのが幸いして、イジメた側も根暗にやられたと言いつける事も出来ずに泣寝入りしていた。
「僕が進学したのも、少しでも陛下の近くにいる時間を減らすためだったからなぁ。まあ、せっかくだから春までには卒業するよ。もう在学の理由もなくなったけど、あって困るものでもないからさ」
 ちなみに大学は4年制である。しかしランスが思っていたように、カーティスも「学ぶ価値もないな」と、授業中は会社の決算報告書の作成や、予算編成を考えることに使っていた。まだ半年も経ってないが、既に単位の半分は取っている。これでも手加減していた方だ。4年間退屈な大学を通えば、4年間は皇帝の側近になる執行猶予が出るからだ。だが、もう手加減の必要はない。さっさと学生生活は終わりにしよう。そして愛する妻と愛娘に寄り添いつつ、事業計画を見直す余裕が出来る。
 工場は稼働限界を超えていて、だが客はますます増えている。支店出店希望の領地も多い。
「実は祖父と伯父の領土に、工場と専門香料畑を作る計画を進めています。既に師匠はご存じですが、工場は建設に入っています。他にも母方の親戚筋であるクライノート伯爵領にも。グリューンフレス子爵領に至っては、既に師匠の独断で工場は完成し、稼働準備に入っていますね」 
「まあね。客が殺到しすぎて、毎日のように喧嘩沙汰が起こっているから。だからこの際、製品を統一出来ないのを逆手に取って、各領土のブランド花で化粧品を作って売り出すことにしたんだったよな」 
「ええ。ですが、それでも人気シリーズの薔薇や木犀などの花木は生育に時間がかかる。柑橘系は廃棄果物を安く買い取っているので、人気シリーズの中でもラベンダーに並んで安定供給が可能ですが、それでも足りない。だったら、抽出が難しい花の香りを合成して作ればいい」
「それだと、『レット・シェーン・フルーメ社』の根本の自然由来から作られたという精神に反しませんか?」
 ヴェリーナは、領土のブランド品がたとえ足りなくても、初心の精神を忘れないで欲しいと思って発言する。
「うん。だから社名は別のものを使う。ヴェルは妊娠中だから避けてもらうけど、師匠とランス殿はちょっとコチラへ来て確認してもらえないかな」
 カーティスはダイニングを中座して、師匠と友人を研究室へ連れて行く。リビンクは、あとで食後のデザートを食べるのに使うから、安全性は保証するが、妻に万に一つでも妊婦の障害となりかねない香りを嗅がせたくなかった。ハーブも薬同様、妊婦に使えないものが意外と多い。

 研究室の鍵を開けて2人を招き入れてから、金庫の鍵を開けて、3本の小瓶を取り出す。
「原液なので、薄めますね」
 ビーカーにエタノールを入れて、小瓶の液体を数滴垂らす。
「へえ、これは蘭の香りか」
「こちらは新緑の森の香りがします」
「最後はこれ」
 カーティスは、最後のビーカーに3本目の小瓶の液を垂らす。
「もろにブドウの香りだな」
「ワインと違いますが、頭からジュースをかぶったと勘違いされそう」 
「まずこれらを、父方と母方の祖父の領地で生産しようかと。いかがでしょうか?」 
 お伺いを立てながらも、カーティスは既にこれで勝負を賭ける心意気が伝わってくる。
「合成香料というが、ブレンドした自然香料じゃないか。しかも雑草と薬草、おまけに果物や野菜まで使ったのか」
 ノートル・ナユタ博士は的確に、調合した植物を言い当てる。
「さすが師匠、鼻が利きますね。でもブレンドされた原材料の名前に眉をひそめる御婦人も多いでしょうから、あえて合成香料ということにしておきます。本当は口の固い職人に任せようかと考えていましたが、ランス様のお陰で僕の自由時間が増えたので、これの調合ぐらいならできるかなと」
「ははは、ランス、バレてやんの」
 ノートル・ナユタ博士は弟をからかい、ランスは罰の悪い顔をする。人嫌いのランス自らが、体を使って皇帝を貶めたことをカーティスだけには知られたくなかった。
「本当に、助かりました。妻の前では申せませんでしたが、ランス様には感謝してもしきれません」
「じゃあ、クラーラを僕のお嫁さんにくれよ」
 体裁が悪いため、ぶっきらぼうな口調でランスは言う。
 カーティスも、理由や状況の違いはあれ、同じ穴のムジナなんだが。あ、同じ穴って考えるの嫌だな。
「そこは皇帝陛下を説得してください。勅命には逆らえませんし、僕は二度と顔を見せるなとも言い渡されていますから」
 カーティスは、心から礼を述べる。どれほど感謝しても、ランスに恩は返しきれない。だがクラーラを嫁に出すのを考えるのは嫌だ。相手がランスだからではなく、愛娘に男ができるが、父親として許せないだけだ。
(で東の大陸流で言うと、僕とランス様って、皇帝陛下を介した義弟の契りを結んだことになるのだろうか。もっと下品な表現も浮かんだが、蕁麻疹が再発しそうだ。深く考えては駄目だ)
 心中複雑なカーティスに対して、ランスは熱弁を振るう。
「クラーラの為なら、そのぐらい我慢するけどさ、薬なしでは、とてもじゃないが無理だ。しかしあの皇帝、今日はクッションなしで座るのキツイだろうな。だけど……」
 綺麗な顔にランスは意地悪な笑みを浮かべて、クスクス笑う。
「おまえ、相当やらかしたな。一歩間違えば、ウチは取り潰しだぞ」
 ナユタ博士は顔しかめて叱るが、瞳は心底から面白がっているのが伺える。
「だってさあ、あの皇帝、最後は理性が溶けて自ら腰を振ってたんだぜ。媚薬効果はとうに切れていたのにさ」
「えっ、そっち?」
 思わずカーティスは驚きを声に出してしまう。それも当然、いつもヴァイゼ皇帝は帝王らしく、カーティスをいたぶるのを楽しんでいたからだ。想像しようにも、植え付けられた記憶を改竄できない。
「君もアレク兄さんから護身術ぐらい学んでるのだから、関節外して反撃してやれば良かったのに」
「ランス、捨てた名前を使うなと、いつも言ってるだろうが。それにカーティスには無理だ。根本的に、男は受け付けない。薬を使っても無理だろうな。逆に吐いて醜態を晒すだけだ」
「……と言うかランス様、陛下の関節外しちゃったの?」
 顔色悪く、カーティスは尋ねる。
「まさか、そこまでしないよ。ただ動けないよう、東の大陸の書物で得たツボを押しただけさ」
「なるほど。東の大陸の秘術を用いたのですが。確かに、麻酔を使うほどでもない怪我の治療には便利なんですよね」
「そーなんだよね」
 ナユタ博士は、年の差はあるが無邪気に弟子と戯れる末弟に目を細める。
(恋愛感情がランスの原動力とは、まさか弟子は思うまい。幸い、変なところで鈍感だからな)
「そろそろ戻るぞ。今日は結婚祝いのパーティーなんだ、主役のヴェリーナ夫人を放っておくわけにはいかないだろ」
 ナユタ博士はじゃれ合う2人に声を掛ける。
「ヴェリーナ夫人……」
 その響きに、カーティスは胸を熱くさせた。

7.未練
「忠告したはずですよ、末弟はヤバいって。なのにアッサリ引っかかってしまうとは。それも悪い意味で」
 ここは皇帝のプライベートエリアのリビング。いつも影のように付き従う忠臣執事もいない。だが皇帝が存在すら知らない、どこかのの狭い部屋から、忠臣執事は聞き耳を立てていることだろう。
「カーティスさえいれば、俺は元に戻れるんだ。だけどランスの……ああ、どうしたらいいんだ!」
 ヴァイゼ皇帝は頭を抱える。一応、女性も抱けるため、片っ端からいま残っている妃を抱いた。

 フェルム王国が敗戦してから、ヴァイゼ皇帝は後宮を大幅に縮小した。まず10代で、未だ清らかな体を保っている妃は、持参金を持たせて強制的に実家に返した。10代なら、結婚相手も容易に見つかるはずだ。ましてや後宮に出仕するほどの美貌を持っていたならば、将来を心配することもない。
 さすがに子を生んだ側妃は、年齢に関わらず後宮に残ってもらうことにした。
 20代でも、子供のいない希望者は、やはり持参金を持たせて後宮から出した。これは10代の側妃でも該当し、たとえ皇帝と夜を共にしても、希望があれば多めの持参金を持たせて実家に返した。後宮リストラで、これまでの5分の1まで即妃を減らせた。持参金で一時的に国庫は寂しくなるが、長い目で見れば相当な節約になる。
 それと新たに後宮の一部を改造し、家族と会える館を建てた。厳密に言えば、後宮から去った側妃の館の周囲を高い塀で巡らせて、面会所を設置したのだ。これには家臣から反対の声も続出したが、皇帝は断行した。退屈な後宮で暇を持て余しながら歳を重ねていく不憫さもあるが、皇帝の息子は5歳になれば後宮から出されて、一代貴族となるべく、別邸で教育を受ける。今生の別れとなるのは、母子にとって身を切るより辛いだろう。せめて年に数回でも、母子の対面ぐらいさせてやりたいと思った皇帝の温情だ。
 だが最大の思惑は、里心だ。子をなした妃は外へ出せない。これも後々改革して、子を産めない年頃になったら、多額の持参金と別邸を与えて外へ出すつもりだが、いまは時期尚早。焦らず、ゆっくり取り組まねば。
 目下、子供を産んでいない側妃を後宮から出すための面会館設置だった。
 最初は皇帝をいつまでも待ち続けるつもりだった妃も、ポツポツと持参金を手に去っていく。皇帝が、もう子を作るつもりがないことは、周囲を見れば分かること。当初は出産ラッシュが続いたが、いつの頃かパタリと懐妊する側妃が居なくなったのだ。
 皇妃の座も、未だ2席空位のままだ。ちなみに皇妃は正室のため、去ることは出来ない。

「ランスに拘らなくてもら他の嗜虐趣味な美形でも連れてくればいいだけでしょうに」
 ナユタ博士は、情けない皇帝の姿に呆れかえる。
「おまえに分かるものか!禁断の果実を食べた者の気持ちなど!」
「いや、分かりたくないもないですけど。掘られて喜ぶ趣味はないので」
「俺だって、そんなの知らなかった!ああ、どうしてカーティスはこれほどの快楽に溺れなかったのだろうか?そんなに俺が下手だったのか?」
「以前にも申し上げた通り、弟子は男を受けつない体なんです。あ、思い出した。一度だけなら、ランスと出来る手段を」
「言え!どんな手段だ!」
 皇帝はナユタ博士を揺さぶろうとしたが、寸前で止める。ガルゲ山に登って世界三大万能薬の最高峰の薬草を摘んでくる男だ。それに暗殺に長けた異母兄でさえ、彼にいとも容易く関節を外された。怒ればきっと、ランス以上にひどい目に遭わされるだろう。
(酷い目……)
 皇帝はゾクリと身を震わせる。それが恐怖からでないことは、ナユタ博士でも分かる。「この国の皇帝が困難でいいのかねぇ?」と、博士は心配になる。
「頼むから、もう一度だけでもランスに会わせる手筈を整えてくれ!」
 皇帝はドサリとソファに腰を下ろし、両手で顔を覆ってサメザメと泣き出した。
 ナユタ博士は呆れ果てる。そして何気なく見た風景画、春の皇城の絵の花園の影から覗く4つの目玉と目が合った。慌てて目玉は絵画から消える。
(また細工もへったくれもない所に、覗き部屋を作ったな。執事とイノセント伯爵か。まあ、皇帝の真の姿を知っておいて損はあるまい。いい男でも充てがってくれ。ただしランスと弟子は除く。ついでにウォレスも。あいつも僕にとっては大切な弟だからな)
 泣きながら「教えてくれ」と訴える皇帝に、ナユタ博士は「そのうち向こうからやってきますよ」と応え、泣き止むのを待った。
(あー。そこの2人。何とかしろよ)
 視線でナユタ博士は絵画に訴える。定位置に戻った4つの目は、同時に横にフルフル揺れた。
(貴方こそ、何とかしてください!)
 絵画の隠し部屋の2人は、目で訴える。
「無理」 
 ナユタ博士は小さく呟いたが、泣くのに夢中な皇帝はその声に気づかなかった。

8.エピローグ
 6月はじめ、予定より半月早いが、ヴェリーナは双子の男児を生んだ。母子ともに健康。
 順調だったため、産室に医師は必要なく、産婆と看護師で取り上げた。
 カーティスは「立ち会わせてくれ!」と訴えたが、産室は内鍵がかけられ、ナユタ博士が羽交い締めにして止め、駆けつけたスマラウト侯爵夫妻とウェスリー子爵に「邪魔はするな」と説教された。
 ウェスリー子爵夫人は、産室から離れた部屋でクラーラと遊んでいる。娘が欲しかった子爵夫人は、クラーラにメロメロだ。

 そして秋、社交シーズン最後の宴として、皇城でカーティスとヴェリーナの結婚式および舞踏会が開かれた。
 結婚式と言っても、神父の前で神に愛を誓うのではなく、皇帝夫妻に結婚の報告をするだけだ。
 しばらく見ないうちに、カーティスは青年らしい骨格となっている。それでもまだまだ少年の面影は消えていない。皇帝はカーティスが後宮に入った2年前のことを感慨深く思い出した。
(立派になったものだ。ああ、懐かしい。もう一度、カーティスをこの腕に……) 
 かつての思い出に耽っていた皇帝は、射殺さんばかりの殺気に気づく。
「あ……」
 それは忘れもしない、ヴァイゼ皇帝の禁断の扉を開けて去ったランス・ハーミット伯爵だった。ウォレス・プルネン伯爵家で名ばかりの家令をしていたが、フェルム王国撃退と反体制派の炙り出しに貢献した名誉で、領地と伯爵の位を、皇帝はランスに授けた。
 ますます美しさに磨きがかかったランスに憧れる令嬢たちの熱視線を鬱陶しい小バエのように思っているのが露骨に迷惑そうな表情から分かる。
 皇帝は、ランスと2度目の夜を経験した。
「約束通り、これっきりだからな!」
 ランスの出した条件を飲む代わりに、皇帝はもう一度だけ夢を見ることが出来た。
 だがそれっきり、相変わらずランスはカーティス以外には目もくれない。
 皇帝はランスとの2度目の夜を最後の思い出として、禁断の扉を閉じた。
 
 いや、ランスにとってカーティス以外の例外がいる。カーティスの娘、クラーラだ。しかしクラーラと皇太子との婚約破棄が成立しても、カーティスは首を縦に振らなかった。
「あくまでもクラーラの意思が優先。クラーラが、君を夫にしても良いと本気で言うようになったら、婚約を認めよう」
 ランス・ハーミット伯爵は、口実を作っては、カーティス一家のもとを訪問して、クラーラを甘やかしている。だが、わざわざカーティスの邸を訪れるのは、クラーラのためだけではない。化粧品開発の相談のためだ。
 ランスは無臭化粧品の開発に成功し、自領ハーミット伯爵領だけでなく、次兄ウォレス・プルネン伯爵領にも工場を建てて着々と財を築いている。
 無臭化粧品は当たった。だがハーミット伯爵が設立した『ディア・ヴィーナス会社』の売れ筋は、相変わらず脱毛クリームだ。ランスが新たに開発した男性用ヒゲ落としクリームは、既存のものより強力で、女性のようなツルツルお肌となると、今では他国からも注文が殺到している。
 カーティスはナユタ博士と共に、スマラウト侯爵領が本拠地の『レット・シェーン・フルーメ会社』で業績を伸ばしている。
 また、カーティスとナユタ博士は、ウェスリー子爵領とグリューンフルス子爵領を本拠地とした、『ナチュラル・グロリア会社』を建てた。当初は合成化粧品を手がけようとしたが、カーティスは子供たちのプニュプニュ肌の手触りを楽しむうちに、基礎化粧品会社に方向転換した。これが当たった。
 『ナチュラル・グロリア』社の本拠地が2つあるのは、ウェスリー子爵領を基礎化粧水専門に、グリューンフルス子爵領を基礎クリーム専門に分けたからだ。ただしウェスリー子爵領は、会社だけがあって、工場や原材料は伯父が継いだベルクバック侯爵領で製造と本店を置いている。
 カーティスの実家ウェスリー子爵領に工場を建てたものの、いまや帝国の名医が集結する最先端医療を担っているため、父親の命令により、工場は医学研究室を兼ねた調剤工場に変えざるおえなかったのだ。工場建設資金だけ持ってかれた形だが、末弟が医学知識をますます高めているし、資金は潤沢だ。
 ただ唯一の憂いは、次期子爵に内定していながら、医師に憧れるカーティスの次弟エーリクだ。彼は子羊の解剖から進化して、麻酔を打った羊の臓器を取り出してから再び戻して縫合。僅か11歳にして外科手術が出来るようになっていた。今では獣医の代理を充分務められるが、自室で手術練習をしている時に母親や侍女が入ってきて卒倒することが多いのだとか。
 仕方なくカーティスは、年齢を問わない外科医専門学校を設立し、手術はそこで監修外科医立ち会いのもとで行うようエーリクに指示した。すると当初は薬草に興味を持っていたカーティスの末弟アロイスまでもが、外科医に憧れるようになってしまった。さすがに年齢問わずと言っても8歳では早すぎるので見学のみを許したが、今度はアロイスが自室で子羊を屠殺して解剖するようになり、またしても母親たちを卒倒させている。

 カーティスは2つの会社を兼任しているが、本業は『レット・シェーン・フルーメ会社』だ。そこで実質的な『ディア・ヴィーナス会社』の化粧水部門の本拠地ベルクバック侯爵領の工場と本店は伯父に任せたのだが、いつの間にか伯父の娘カメリアが化粧水開発の先導をするようになった。
 もし後宮が健在なら、カメリアは今頃、後宮の籠の鳥になっていたはずだった。

 帝国では男性は16歳、女性は13歳で成人と見なされる。
 カメリアの社交界デビューは、彼女にとって従兄にあたるカーティスの結婚披露舞踏会となる。
 しかし公的なデビュタントは、来春行われることになった。理由は、デビュタントは純白のローブデコルテ着用が定められてとあるが、結婚披露舞踏会で白を着用できるのは花嫁とフラワーガールのみ。
 今年の夏にはデビュタントが出来たにも関わらず、カメリアは来年を希望した。理由は、彼女の初恋相手がカーティスだったからだ。帝国では従兄妹でも結婚できる。カメリアはカーティスとの結婚を夢見ていたが、前皇妃の浮気発覚で、元皇太子はシュタルク・イノセント伯爵になり、後宮制度が強化された。だがいまは、その制度もフェルム王国の敗戦と国内反体制派貴族の粛清で改善された。
(あーあ。あの女さえ居なければ。年増の色情魔と結婚させられるカーティス兄様可哀想に)
 カメリアは花嫁をひたすら睨んでいた。
(私の方が若くて綺麗で、頭だって良いのに。あのアバズレ、カーティス兄様の初めてを奪って、子供を作って縛り付けるなんて、卑怯極まりないわ)
 ストロベリーブロンドの美少女カメリア・ベルクバック侯爵令嬢。男系のベルクバック侯爵家直系では、前皇帝側妃だった叔母アーデラ以来26年ぶりの娘だった。
 若草色のドレスがよく似合い、色合い的には春の女神のような美少女。しかしブリザードの冷気をまき散らす険悪な顔の彼女に、話しかけようとする貴族令息はいなかった。
 そんななか、皇帝はフラフラと立ち上がる。結婚報告を終えて、舞踏会開催の口火を切るファーストダンスを待つばかりのカーティスとヴェリーナ夫妻を、咄嗟にナユタ博士とランス・ハーミット伯爵が庇うように立つ。
 しかし皇帝が向かったのは、ブリザード令嬢のカメリアの前だった。
「私の皇妃になってくれませんか?」
 いきなり恍惚とした顔の皇帝が、カメリアの前に膝まづいて求婚したものだから、周囲は本日の主役そっちのけでざわめく。
 しかし皇帝は見つけてしまった。ランスに代わり、いたぶってくれる愛しい者を。しかも顔立ちは全く違うのにカーティスの従妹というのが、またツボだった。
 カメリアの顔がますます険悪になる。皇帝がカーティスに何をしたか、少女であっても知っている。 
「この身の程知らずが!顔洗って出直してきなさい!穢らわしい!」
 カメリアの罵声が大広間にこだまする。
「ああ、君こそ俺が求めていた人」
「キモっ!」
 思わずヒールでカメリアは、皇帝のつま先を踏みつけた。
 周囲のざわめきは更に大きくなる。しかし皇帝はカメリアの足元に抱きついて頬を擦り寄せる。
「愛してる、一目惚れなんだ!」
「ウザい、キモい、この両刀使いの変態が!」
「ああ、なんて心地良い罵声。これこそ求めていた天上の美声。どうしたらかの想いを信じてくれるだろうか?」
「まずは離れろ、変態!」
 カメリアは持っていた扇で殴ろうとしたが、その前にベルクバック侯爵が皇帝を引き離し、娘を抱き上げると、なりふり構わず皇宮から出ていった。
「ああ、俺の愛しい人!」
 皇帝は追いかけようと立ち上がったところで、シュタルク・イノセント伯爵やその配下の者たちに皇城の皇帝プライベートエリアに連行された。
「やはり、陛下はグロリア伯爵を忘れられないのですわ」
「おいたわしい。あの威風堂々たる陛下がご乱心なさるとは」
 大広間の貴族ほぼ全員が、非難の目を今夜の主役、カーティス・グロリア伯爵に向ける。
「何でこんな目に……僕はなにかに呪われてるのか?」
 カーティス・グロリア伯爵は遠い目をして、呆然と立ち尽くすのだった。
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