ふしあわせに、殿下

古酒らずり

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二 皇女アガーテについて

消えたマシュマロ 一

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 園遊会の会場となっている離宮「花鳥宮」。この宮は、春から夏にかけて庭園に植えられている様々な花が一切に咲き誇り、その蜜を吸いに来た鳥たちが集うことに名が由来する。

 ヴァルフリードは挨拶回りをすると言いおいて建物の方に入っていったから、今アウローラは付き添いのエリカと二人きりだ。庭園には、すでに多くの貴族たちが集まっていた。そして、アウローラを出迎えたのは、主催者であるアガーテ皇女その人だった。

「ようこそ、アウローラ王女殿下。お会いできて誠に光栄でございますわ」

 第一印象から、おっとりとしてどこか憂いを帯びた美人といった感じで、アウローラに対する敵意はないようにも思われる。「皇太子筆頭候補であるヴァルフリードの婚約者候補」という微妙な立場とはいえ、継承争いの敵といえば敵なのだ。もう少し警戒されてもよさそうなものだが、と逆にアウローラの方が不安になった。

 アガーテの手には客人に配るための菓子を載せた銀盆があった。

「本日は、私自らがお菓子をお配りいたしますの。普段は出不精で図書室で本ばかり読んでいるものですから。流石に外に出なさい、と父上……皇帝陛下から叱られまして。皆さまとの距離を縮めたいのですわ」

「まあ、皇女殿下がご自身で」

「ええ。出不精な上に堅苦しい宮廷作法も嫌いなものですから、自己流でやっております」

 アガーテは冗談混じりににこりと笑うと、アウローラにマシュマロを差し出す。ちょうど青空に浮かぶ綿雲にも似てふわふわだ。

「外の庭園にいらっしゃる方々には、マシュマロを。屋内の方々には、ビスケットをお配りいたしていますわ」

「ありがとうございます、皇女殿下」

 アウローラはマシュマロを受け取りながら今一度アガーテを観察したが、やはり彼女からはどうしても、皇位を得たいという野心の暗い炎は感じられないのだった。

 この「花鳥宮」の庭園は、アウローラの想像以上に広大な場所で、帝国の財と威信がそこはかとなく察せられる。遠方からわざわざ取り寄せたという高級な大理石を惜しげなく使った小路が庭園をぐるりと巡っている。そして、両脇に並ぶ花壇には、薔薇、チューリップ、ジャスミンなどが陽光を浴びながら甘い匂いを放っていた。

 他にも、大公邸のものよりさらに豪華な東方の建築様式を模した四阿ガゼボや、季節の果樹があって、皇家のこだわりがふんだんに感じられる空間だった。

 集まった庭園の貴族。花々にも負けないほど色鮮やかな絹の装束に身を包んだ令嬢たち。今年の税収はどうだとか、縁談は順調に進んでいるだとか、とりとめのない政治の話題で談笑する令息たち。

 しかしながら、レンゼル元王女アウローラの姿を認めるなり、視線が一斉に集中し始めた。

──ヴァルフリード大公殿下の婚約者ではないか。
──あれが、滅ぼされたレンゼルの王女か。
──平民同然の身分だというのに、帝国ででかい面でもする気か。
──それなのに皇太子妃候補に?
──大公殿下はあの女に篭絡されたのでは?

 ひそひそと低声で囁き交わす多種多様な声は、微風に乗って、アウローラの耳にまで届いてきた。いや、わざと聞こえるように言っているのだ。敵意もあれば、値踏みもある。純粋な好奇もあるようだったが、やはりその好奇も、アウローラが失敗をしでかしてしまえば、たちまち否定的なものへと変わるはずだ。

 そう思うと、アウローラは市場の露店に並べられた鸚鵡よろしく、いくらか落ち着かない気持ちになるのだった。いや、あんたんたる気持ち、という方が正確かもしれない。

「あまり、心配を召されないでくださいね」

 と、隣のエリカが励ましてはくれるものの、アウローラの背筋は寒いままだった。

「貴族たちは、みんな新しいもの好きなだけの野次馬根性です。慣れればすぐに興味を失うというものが定めですよ」

「ええ、そうね」

 飼い主に忘れられ、餌を与えられなくなった籠の中の鸚鵡は死んでしまうが、アウローラはあいにくと人間だ。忘れられてしまった方が、圧倒的に都合がよかった。

「帝国貴族たちの非礼、代わりに私がお詫び申し上げます」

 アガーテが頭を下げたので、アウローラは「いえいえ!」と慌てた。

 ところで、庭園の中央には、睡蓮を浮かべた大きな池がたたえられており、その涼やかな水の中を見事な鯉がゆったりと泳いでいるのだった。

 赤、白、金、黒。

 鯉たちの鱗が陽光を弾いて、池の中に細かな光の粒を描きだしている。

「アウローラ王女殿下」

 ふと、アガーテが誇らしげに池の中を指さす。

「本日は、皇家が手に入れました、錦鯉のお披露目なのです」

 アウローラは池に近づいて、中を覗き込んだ。確かに見事な鯉だ。観賞用だという。とりわけ、緋色と真珠色の斑模様の一匹は、ひときわ大きく美しい。水面近くを滑るように泳ぐ姿は、さながら錦をまとった踊り子のようだった。

「先日、東方の商人から譲り受けた鯉たちでして。はるばる海を渡ってきたのだそうですよ」

「へ、へえ……」

 自慢げに話すアガーテにアウローラが呆気に取られていると、さらにアガーテはこう言った。

「特に、あの紅白の鯉は最高級品なのだそうで。金貨五十枚の値がつけられたほどですの」

「えっ」

 アウローラは戦慄した。いや、戦慄せざるを得なかった。金貨五十枚といえば、ヴァルフリードに大公邸に招かれたとき提示してくれた生活費の十倍の金額なのだった。金貨五枚あれば、平民の一家が半年は優に暮らせるほどだ。その十倍。五年分。

「私のお小遣いの十倍が泳いでる……」

「まあまあ、泳ぐ宝石ということで。これから、この鯉たちを眺めるのが楽しみなのですわ」

 と、アガーテは困ったように苦笑した。

 そんなとき、庭園の奥にある野外演壇から、楽士たちの楽しげな演奏が聞こえてきた。竪琴と葦笛の軽やかな調べが、吹き抜ける爽やかな風とともに流れてくる。

「さて、アウローラ王女殿下。どうぞ、ごゆるりとお楽しみください」

 アガーテは一礼して、他の客人のところへと向かっていった。

 アウローラはエリカを伴って庭園をゆっくりと歩きだした。周囲の貴族たちは依然としてアウローラを遠巻きに観察しているようだった。直接に話しかけてくるものはまだいない。

「皆さま、様子を窺っているようですわね」

 エリカは軽く息をついた。

「アウローラ殿下の為人ひととなりが分からないわけですからね。まあ、そのうちに話しかけてくるでしょう」

「ええ」

 ふと気になって屋内の方を遠望すると、ヴァルフリードの後ろ姿が見えた。彼は窓際に立って、重臣たちと何かをしきりに話し込んでいる。その横顔は、アウローラに見せる甘いものではなく、険しいものだった。

 ああ、あれが「大公ヴァルフリード」なのだ、という当たり前のことがアウローラの脳裏に浮かんでは消えていった。レンゼル城でイチジク煮を頬張っていた彼とは、わけが違う。

「殿下、お忙しそうね」

「ええ。立太子を控えて、臣下とは関係構築が不可欠ですものね」

 エリカはこうも言った。

「それに、殿下は妾腹のご出身。古くからの貴族の中には、まだ殿下を認めてはいない者も少なくないはずです」

「…………」

 アウローラの胸が鈍く痛んだ。ヴァルフリードはこの瞬間も孤独な戦いを強いられているようだった。同情はできないが、気持ちは察することができる。彼は皇太子になりたくないと言っていた。

 ならば、彼を皇太子位から良い意味で引きずりおろせるのはアウローラだけだ。そもそも、アウローラが近づいているだけで、彼の負担にはなっていないだろうか。だから、「愛妾でいい」とひたすらに言い続けているのだ。

 ただでさえ出自に問題があるヴァルフリードに、敗戦国の元王女であるアウローラがいて、重荷のはずだ。だが、それと、アウローラが何もしないで静観しているということとは違う。

 よい立ち回りがしたい。できれば、彼の有利となりうる立ち回りを。そう願ってしまうのは、本心のはずなのだ……。

 庭園の遠方、先ほどの池の近くには、一人の若い令嬢が錦鯉を眺めている様子があった。

 深緑色のドレスをまとった、糸杉のようにすらりと背の高い女性だ。彼女は羽扇で顔の周りをあおぎながら、何かを考え込むように池をじっと見つめている。

「あれは、マグダレーネ様ですわ」

 エリカが教えてくれた。

「帝国大諸侯の御息女で、美女と名高いお方なのです。……そして、ヴァルフリード殿下の妃候補のうちのお一人でもありましたわ」

「ふうん、そうなのね。確かに美男の彼には、美女が似つかわしいわ」

 と、苦笑してみるものの、どうも締まらなかった。

 アウローラは、興味はなくとも、しげしげと遠くからマグダレーネを観察した。確かに端麗な美貌の持ち主であることがこの距離からでも分かる。象牙色の肌、長い睫毛、彫りの深い鼻筋。貴族の令嬢らしい気品が全身から立ち昇るようだ。

 その近くには、アガーテ皇女も立っていた。相変わらず菓子の銀盆を携えたままである。そこでアウローラはマグダレーネの観察に飽きて、彼女に背を向けたのだが……。

「──きゃあああっ!」

 絹を引き裂いたような甲高い悲鳴が、池の方角から響いてきて、アウローラはすぐにマグダレーネの方を再び振り向くこととなった。

 池のほとりで水しぶきがあがっている。誰かが池に落ちたようだ。深緑色のドレスの裾が、逆さに落ちた花のように水面へと広がっている。落ちたのは、マグダレーネのようだ。

「誰か、助けて!」

 近くにいたアガーテが必死に叫びをあげて助けを求めている。侍女たちが慌てて駆け寄っている現場が見えた。アウローラは急いで食べかけのマシュマロを飲みこむと、急いで池へと向かった。

 池の中から引きあげられたマグダレーネは全身ずぶ濡れで、芍薬の花を描いた羽扇が池に浮いている。

「マグダレーネ様! 大丈夫ですか!」

「すぐに火を焚いたあたたかいお部屋へ。着替えをお持ちいたします」

 一番の責任者らしい侍従が素早く支持を出し、マグダレーネは侍女たちに付き添われて、震えながら室内へと移動していった。

 残された貴族たちは、まことしやかに囁きだす。

──何があったのか。
──池に落ちたのか。
──それとも誰かに突き落とされたのか。
──それならマグダレーネ様の一番近くにいらっしゃたのはアガーテ皇女殿下だ。
──まさか、嫉妬か何かで犯行に及びなさった?

 アガーテに疑いの目が向けられ始めると、不穏な空気が庭園に漂い始めるのだった。

「アウローラ」

 そこに、ヴァルフリードがやってきた。

「これは、一体」

 アウローラは目をつぶり、首を横に振ってみせた。

「まだ、何事も分かりません、殿下。確定的なことは、何も。ですが、マグダレーネ様がご無事でよかったですわ」

「ああ、その通りだな」

 ヴァルフリードは、ほっと胸を撫でおろすようにして息をついた。そのとき、なんとフィリベルト帝までもが姿を現したのだ。事態を聞きつけて、室内からヴァルフリードとともにすぐさま駆けつけてきたのだろう。

「何があった」

「マグダレーネ嬢が池に落ちたのです、陛下」

 と、ヴァルフリードが状況を手短に説明する。

「事故か」

「いえ、それはまだ分からないそうです。故意の事件やもしれませぬな」
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