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三 皇子イザークについて
お砂糖たっぷり 二
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帝宮の厨は広々としていて、一角を借りてもなんら問題はない。料理人たちが昼餉の支度を慌ただしくしている中で、アウローラはふざけているような気分になり、やや申し訳なく思った。しかしながら、これも犯人捜しに必要な儀式なのである、怠るわけにはいかない。
まあ、アウローラとイザーク皇子が厨の中に入った途端に、料理人たちが一斉に作業の手を止めてお辞儀するものだから、だいぶ戸惑った。
「イザーク殿下、おはようございます」
「おはようございます、皆さん」
好意的な挨拶は、だが、イザークが連れているもう一人の女は誰だ、という探りの視線に変わる。正確には、アウローラがイザークを連れて厨に入った、が正しいのだが。
さて。厨の片隅には大きな銅製の打ち出し鍋が用意されていた。あらかじめ厨を借りるときに手配するよう申し付けておいたものである。その隣には、籐籠が三つ。中には、大勢の侍女たちに手伝ってもらい人海戦術で集めた薔薇の花びらが山と盛られていた。
「こんなにたくさん……ね」
アウローラは一つ、皮肉っぽい溜め息をついてみせた。むろん、犯人に向けたものだ。犯人への怒りが内心で増幅していく。
「エリカ、手伝ってくれてありがとうね」
同行していた侍女エリカが目礼した。
「いえ、奥様をお助けするのは私の喜びとするところでございますから」
目の前には、水を張った盥。
「まず、花びらを洗わなければなりませんね、奥様」
「ええ、手伝ってちょうだい、エリカ」
さあ、とアウローラは手を打った。
「イザーク殿下、どうぞこちらへ。三人寄れば、作業も速いですわ」
「え、ええ……」
戸惑っているイザークも加わり、三人で作業を始める。もちろん、花びらを一枚一枚、丁寧に水洗いするという地味極まりないものだ。傷んだ花びらを取り除き、使えるものだけを選別していくのには、根気がいる。
「これは、私の薔薇。確かに、私自身で作業せねばなりませんな」
イザークが慣れない作業に袖を水に濡らしながらそう呟いたので、アウローラは微笑んだ。
「それにしても」
作業の傍ら、アウローラは口を開いた。
「庭師の方々は、どのような方たちですか」
「そうですね……」
イザークが思案する口ぶりになる。
「五人とも、よく働いてくれている、優秀で忠誠心の高い者たちばかりです。棟梁のトビアスは、私が生まれる前から帝宮に仕えていまして……」
イザークは一人一人、庭師たちの経歴を語ってみせた。皇子が庭師たちをここまで気にかけていることに、アウローラの胸がつきりと痛む。
「誰かが裏切ったとは、思いたくありません」
イザークの横顔が沈痛なものになっていた。
「犯人が庭師たちの中にいるのなら、首謀者に命じられたかもしれませんね。庭師自身の意思で裏切るなど、道理に合いませんから」
イザークの言いたいことは、アウローラにもすぐ分かった。皇子の世話している薔薇を切り刻むなど、場合によっては死罪だ。そこまでの危険性を冒して、事件を起こす理由がない。あるとしたら、やはり、脅されているか、金のためか。
「おそらくは、その首謀者は皇位継承争いに関わる者なのでしょう」
アウローラは、イザークの語りを、じっと聞いていた。……首謀者。果たして、ヴァルフリードの信奉者か。はたまた、継承を辞退したアガーテ派の残党か。
「──よし、洗い終わったわね」
アウローラは服の袖で額の汗をぬぐった。洗い終えた花びらを清潔な布巾の上に広げて、しっかりと水気を取る。
そして、水を入れた銅鍋を火にかけ始めた。花びらを少しずつ投入していく。
鍋の中で、花びらたちがゆっくりと踊り始めた。最初は水に浮いていた花びらも、いずれは水に馴染んでいく。その光景を見ているうちに、アウローラはレンゼルの民を思い出してしまった。帝国という巨大な鍋に放り込まれた花びらは、一緒くたに煮込まれているうちに、元の形を失っていく……。
色素が水に溶けだしていけば、やがて、美しい深紅の液体へと変遷した。
花びらが柔らかくなってきた頃合いに、木綿の布で花びらを濾し取る。煮汁だけを鍋に戻し、砂糖を加えてさらに煮詰めていく。紅玉のように澄んでいる汁が、水分が蒸発してシロップ状になれば……。
「よい香りですね」
イザークが目を閉じてそっと呟いた。アウローラは先ほど取り分けておいた花びらを鍋に戻し、再び火にかけて焦がさないよう木べらでかき混ぜていった。あとは、ひたすら完成を待つだけだ。
「仕上げに……」
薔薇水を匙で数杯。瞬間、爆発的に甘い芳香が立ち昇って、さながら薔薇園の只中にいるようだった。
「よし。完成いたしましたわ」
「流石です、奥様」
エリカが珍しく正面切って褒めてくれる。
「さて、イザーク殿下」
「はい」
アウローラがイザークを呼ぶと、彼はぱちりとまばたきを一つ、二つ。
「残りは皆で味わうとして、まずは庭師五人に配ってしまいましょう」
「は、はあ……」
煮沸消毒したガラス瓶に詰めれば、完成だ。
「怨讐たっぷり薔薇ジャムの、出来上がり」
まあ、アウローラとイザーク皇子が厨の中に入った途端に、料理人たちが一斉に作業の手を止めてお辞儀するものだから、だいぶ戸惑った。
「イザーク殿下、おはようございます」
「おはようございます、皆さん」
好意的な挨拶は、だが、イザークが連れているもう一人の女は誰だ、という探りの視線に変わる。正確には、アウローラがイザークを連れて厨に入った、が正しいのだが。
さて。厨の片隅には大きな銅製の打ち出し鍋が用意されていた。あらかじめ厨を借りるときに手配するよう申し付けておいたものである。その隣には、籐籠が三つ。中には、大勢の侍女たちに手伝ってもらい人海戦術で集めた薔薇の花びらが山と盛られていた。
「こんなにたくさん……ね」
アウローラは一つ、皮肉っぽい溜め息をついてみせた。むろん、犯人に向けたものだ。犯人への怒りが内心で増幅していく。
「エリカ、手伝ってくれてありがとうね」
同行していた侍女エリカが目礼した。
「いえ、奥様をお助けするのは私の喜びとするところでございますから」
目の前には、水を張った盥。
「まず、花びらを洗わなければなりませんね、奥様」
「ええ、手伝ってちょうだい、エリカ」
さあ、とアウローラは手を打った。
「イザーク殿下、どうぞこちらへ。三人寄れば、作業も速いですわ」
「え、ええ……」
戸惑っているイザークも加わり、三人で作業を始める。もちろん、花びらを一枚一枚、丁寧に水洗いするという地味極まりないものだ。傷んだ花びらを取り除き、使えるものだけを選別していくのには、根気がいる。
「これは、私の薔薇。確かに、私自身で作業せねばなりませんな」
イザークが慣れない作業に袖を水に濡らしながらそう呟いたので、アウローラは微笑んだ。
「それにしても」
作業の傍ら、アウローラは口を開いた。
「庭師の方々は、どのような方たちですか」
「そうですね……」
イザークが思案する口ぶりになる。
「五人とも、よく働いてくれている、優秀で忠誠心の高い者たちばかりです。棟梁のトビアスは、私が生まれる前から帝宮に仕えていまして……」
イザークは一人一人、庭師たちの経歴を語ってみせた。皇子が庭師たちをここまで気にかけていることに、アウローラの胸がつきりと痛む。
「誰かが裏切ったとは、思いたくありません」
イザークの横顔が沈痛なものになっていた。
「犯人が庭師たちの中にいるのなら、首謀者に命じられたかもしれませんね。庭師自身の意思で裏切るなど、道理に合いませんから」
イザークの言いたいことは、アウローラにもすぐ分かった。皇子の世話している薔薇を切り刻むなど、場合によっては死罪だ。そこまでの危険性を冒して、事件を起こす理由がない。あるとしたら、やはり、脅されているか、金のためか。
「おそらくは、その首謀者は皇位継承争いに関わる者なのでしょう」
アウローラは、イザークの語りを、じっと聞いていた。……首謀者。果たして、ヴァルフリードの信奉者か。はたまた、継承を辞退したアガーテ派の残党か。
「──よし、洗い終わったわね」
アウローラは服の袖で額の汗をぬぐった。洗い終えた花びらを清潔な布巾の上に広げて、しっかりと水気を取る。
そして、水を入れた銅鍋を火にかけ始めた。花びらを少しずつ投入していく。
鍋の中で、花びらたちがゆっくりと踊り始めた。最初は水に浮いていた花びらも、いずれは水に馴染んでいく。その光景を見ているうちに、アウローラはレンゼルの民を思い出してしまった。帝国という巨大な鍋に放り込まれた花びらは、一緒くたに煮込まれているうちに、元の形を失っていく……。
色素が水に溶けだしていけば、やがて、美しい深紅の液体へと変遷した。
花びらが柔らかくなってきた頃合いに、木綿の布で花びらを濾し取る。煮汁だけを鍋に戻し、砂糖を加えてさらに煮詰めていく。紅玉のように澄んでいる汁が、水分が蒸発してシロップ状になれば……。
「よい香りですね」
イザークが目を閉じてそっと呟いた。アウローラは先ほど取り分けておいた花びらを鍋に戻し、再び火にかけて焦がさないよう木べらでかき混ぜていった。あとは、ひたすら完成を待つだけだ。
「仕上げに……」
薔薇水を匙で数杯。瞬間、爆発的に甘い芳香が立ち昇って、さながら薔薇園の只中にいるようだった。
「よし。完成いたしましたわ」
「流石です、奥様」
エリカが珍しく正面切って褒めてくれる。
「さて、イザーク殿下」
「はい」
アウローラがイザークを呼ぶと、彼はぱちりとまばたきを一つ、二つ。
「残りは皆で味わうとして、まずは庭師五人に配ってしまいましょう」
「は、はあ……」
煮沸消毒したガラス瓶に詰めれば、完成だ。
「怨讐たっぷり薔薇ジャムの、出来上がり」
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