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三 皇子イザークについて
お砂糖たっぷり 一
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アウローラは、朝餉をぼんやりと終えて、大公邸の薔薇園を漂うように散歩していた。ヴァルフリードは、いたって元気そうだった。むしろ清々しいほどに生き生きとしている。
鍵は元の場所に戻しておいたし、覗き見したことはばれていないはず……いや、封蝋を開けてしまったのだから、取り返しがつかない。
喪神したように、おぼつかない足取りで歩き回っていたアウローラを、侍女エリカが呼び止めた。
「奥様、一大事にございます」
「何か、ありましたの?」
「帝宮から、今しがた急使が参りまして。イザーク皇子殿下が、奥様にお会いしたき由を」
イザーク皇子。ヴァルフリードの腹違いの弟。皇太子候補の一人。
「イザーク殿下が、私に危急で?」
アウローラは首をひねって、その理由を考えた。が、この間の「冠事件」でお礼を言いたいのか、くらいのことしか想像がつかなかった。それであれば、危急の用とは呼べない。
アウローラはヴァルフリードを伴わず、一人で帝宮に向かった。ヴァルフリードとは、あの遺書を読んで顔を合わせる気には、どうしてもなれなかったからだ……。
♢
帝宮、〈東ノ宮〉の一角、イザーク皇子の私邸に通されたアウローラは、そこで信じられない光景を目にすることとなったのである。
薔薇の花が、全て、枝先から切り落とされている。
一つ残らず、だ。誰かが時間をかけて、几帳面に、執拗に、花を刈り取っていった。
アウローラは、散乱している無数の花びらをなるべく踏まないように気をつけながら、ゆっくりと庭園の中を歩き始めた。
「これは……」
アウローラは膝をついて、散乱した花びらの一枚を拾い上げた。まだ朝露に濡れてしっとりした手触りのそれを、陽光に透かしてみる。昨晩、身にまとっていたベビードールの刺繍を思い出して、わずかばかり胸が痛んだ。
そして、薔薇園全体を見回す。大小合わせて二十本はある薔薇の木は、ことごとく被害に遭っているのだった。
「アウローラ王女殿下」
ふと、背後から声がかかった。振り返れば、一人の青年が立っている。ヴァルフリードとは異なり、黒髪の持ち主だ。蒼い瞳は皇家の特徴なのか、フィリベルトやジルヴァンにも似ているが、どこか彼らより柔らかさを帯びている。
「イザーク殿下、お初にお目にかかります」
アウローラが膝折礼をとるや、イザークも挨拶を返した。
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです。どうか、固くならないでくださいね」
以前に見た神経質そうな表情は、今は憂うものへと変わっていた。
「ご覧の通りです。私が幼少の頃より育てていた薔薇なのですが、こうして一晩にして切り刻まれ……」
「ご心痛、お察しいたします」
イザークはこう説明した。
アウローラの推理能力を見込んで、この犯人を特定してほしい。
「犯人に心当たりはございますか」
アウローラが尋ねると、イザークは言葉を選ぶように、一呼吸おいて告げる。
「アガーテ殿下の園遊会や、さきの宝冠の件の直後であることを鑑みれば、政治的な意図があるものと思われますが……」
──園遊会。
貴族令嬢が自作自演で池に落ち、アガーテ皇女に疑いの目を向けさせた冤罪事件。
──宝冠。
皇弟ジルヴァンが戴冠予定の純金の冠を、銀との合金で職人に作らせた財務官を検挙した事件。
「アウローラ殿下は、聡明で行動力に優れていらっしゃる。それに、この件を公表すれば、また皇位継承争いの火種となりかねません。内々に処理したいのです」
イザークはこうも言う。
「私は、皇太子になりたいわけではありません。ただ、この薔薇たちが……」
イザークは、切り落とされた薔薇の幹に手を置いた。
「この薔薇園は、私が十のときに、母から譲り受けたものでして」
そしてイザークも、薔薇の花びらを拾い上げた。深紅の薔薇だ。
「母は今も健在ですが、宮廷での政争に疲れ果て、十年前から離宮で静養しています。私がこの薔薇園を手入れし始めたのは、母が離宮に移り住んだからです」
紅い花びらに触れるイザークの手は、兄ヴァルフリードとは違って、蒼白く、繊細だった。
「──守れなかった」
「私がきっと、犯人を捜し出してご覧に入れましょう。見当はついています」
アウローラが励ましの言葉をかけると、イザークは目を見開いた。花びらが、彼の手からすり抜けていく。
「……本当でございますか」
「ええ。まず、犯人像について。これだけの薔薇の量です。一晩で作業するには時間と労力がかかるはず」
「確かに……」
イザークが華奢な顎に指で触れて、小さくうなずいた。
「つまり、犯人は夜通し薔薇園にいても怪しまれない人物ということです」
アウローラは、イザーク皇子の目を見た。
「この庭園に出入りできるのは、どなたでしょうか」
イザークは、視線を斜め上に向けた。
「私と、母と……あとは、管理を手伝わせている庭師かと」
「庭師は、何人です?」
「五人ですね。みなが、長年この薔薇園の手入れにたずさわってくれている恩人ばかりで……」
まさか、とイザークが顔を蒼白にさせた。
「庭師を疑わなくてはならないと?」
「可能性は、ゼロではございませんわね」
アウローラはこうも補足した。
「庭師であれば、立ち入りに不審がられることもなく、おおよそ自由に行動できるでしょう。剪定鋏の扱いにも長け、これだけの薔薇を手際よく切ることができたのにも、納得は、できます」
イザークは、うつむいて、また地面の花弁に視線を落とした。
「長い間を共に過ごした彼らを疑いたくは、ありません。ですが、ときには人は断固たる態度で物事に挑まねばならない、とヴァルフリード兄上がいつかおっしゃっていました」
ヴァルフリードは、弟に助言するような人物だったのか、と思いつつ、アウローラは一つの提案をした。
「この花びら、全部集めて厨に運びましょう」
イザークが、うつむかせていた顔を上げて、アウローラをまじまじと見た。
「……厨に?」
「ええ。お砂糖たっぷり、怨讐たっぷり。薔薇のジャムにいたしましょう……」
アウローラは、不敵に微笑んだ。
鍵は元の場所に戻しておいたし、覗き見したことはばれていないはず……いや、封蝋を開けてしまったのだから、取り返しがつかない。
喪神したように、おぼつかない足取りで歩き回っていたアウローラを、侍女エリカが呼び止めた。
「奥様、一大事にございます」
「何か、ありましたの?」
「帝宮から、今しがた急使が参りまして。イザーク皇子殿下が、奥様にお会いしたき由を」
イザーク皇子。ヴァルフリードの腹違いの弟。皇太子候補の一人。
「イザーク殿下が、私に危急で?」
アウローラは首をひねって、その理由を考えた。が、この間の「冠事件」でお礼を言いたいのか、くらいのことしか想像がつかなかった。それであれば、危急の用とは呼べない。
アウローラはヴァルフリードを伴わず、一人で帝宮に向かった。ヴァルフリードとは、あの遺書を読んで顔を合わせる気には、どうしてもなれなかったからだ……。
♢
帝宮、〈東ノ宮〉の一角、イザーク皇子の私邸に通されたアウローラは、そこで信じられない光景を目にすることとなったのである。
薔薇の花が、全て、枝先から切り落とされている。
一つ残らず、だ。誰かが時間をかけて、几帳面に、執拗に、花を刈り取っていった。
アウローラは、散乱している無数の花びらをなるべく踏まないように気をつけながら、ゆっくりと庭園の中を歩き始めた。
「これは……」
アウローラは膝をついて、散乱した花びらの一枚を拾い上げた。まだ朝露に濡れてしっとりした手触りのそれを、陽光に透かしてみる。昨晩、身にまとっていたベビードールの刺繍を思い出して、わずかばかり胸が痛んだ。
そして、薔薇園全体を見回す。大小合わせて二十本はある薔薇の木は、ことごとく被害に遭っているのだった。
「アウローラ王女殿下」
ふと、背後から声がかかった。振り返れば、一人の青年が立っている。ヴァルフリードとは異なり、黒髪の持ち主だ。蒼い瞳は皇家の特徴なのか、フィリベルトやジルヴァンにも似ているが、どこか彼らより柔らかさを帯びている。
「イザーク殿下、お初にお目にかかります」
アウローラが膝折礼をとるや、イザークも挨拶を返した。
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです。どうか、固くならないでくださいね」
以前に見た神経質そうな表情は、今は憂うものへと変わっていた。
「ご覧の通りです。私が幼少の頃より育てていた薔薇なのですが、こうして一晩にして切り刻まれ……」
「ご心痛、お察しいたします」
イザークはこう説明した。
アウローラの推理能力を見込んで、この犯人を特定してほしい。
「犯人に心当たりはございますか」
アウローラが尋ねると、イザークは言葉を選ぶように、一呼吸おいて告げる。
「アガーテ殿下の園遊会や、さきの宝冠の件の直後であることを鑑みれば、政治的な意図があるものと思われますが……」
──園遊会。
貴族令嬢が自作自演で池に落ち、アガーテ皇女に疑いの目を向けさせた冤罪事件。
──宝冠。
皇弟ジルヴァンが戴冠予定の純金の冠を、銀との合金で職人に作らせた財務官を検挙した事件。
「アウローラ殿下は、聡明で行動力に優れていらっしゃる。それに、この件を公表すれば、また皇位継承争いの火種となりかねません。内々に処理したいのです」
イザークはこうも言う。
「私は、皇太子になりたいわけではありません。ただ、この薔薇たちが……」
イザークは、切り落とされた薔薇の幹に手を置いた。
「この薔薇園は、私が十のときに、母から譲り受けたものでして」
そしてイザークも、薔薇の花びらを拾い上げた。深紅の薔薇だ。
「母は今も健在ですが、宮廷での政争に疲れ果て、十年前から離宮で静養しています。私がこの薔薇園を手入れし始めたのは、母が離宮に移り住んだからです」
紅い花びらに触れるイザークの手は、兄ヴァルフリードとは違って、蒼白く、繊細だった。
「──守れなかった」
「私がきっと、犯人を捜し出してご覧に入れましょう。見当はついています」
アウローラが励ましの言葉をかけると、イザークは目を見開いた。花びらが、彼の手からすり抜けていく。
「……本当でございますか」
「ええ。まず、犯人像について。これだけの薔薇の量です。一晩で作業するには時間と労力がかかるはず」
「確かに……」
イザークが華奢な顎に指で触れて、小さくうなずいた。
「つまり、犯人は夜通し薔薇園にいても怪しまれない人物ということです」
アウローラは、イザーク皇子の目を見た。
「この庭園に出入りできるのは、どなたでしょうか」
イザークは、視線を斜め上に向けた。
「私と、母と……あとは、管理を手伝わせている庭師かと」
「庭師は、何人です?」
「五人ですね。みなが、長年この薔薇園の手入れにたずさわってくれている恩人ばかりで……」
まさか、とイザークが顔を蒼白にさせた。
「庭師を疑わなくてはならないと?」
「可能性は、ゼロではございませんわね」
アウローラはこうも補足した。
「庭師であれば、立ち入りに不審がられることもなく、おおよそ自由に行動できるでしょう。剪定鋏の扱いにも長け、これだけの薔薇を手際よく切ることができたのにも、納得は、できます」
イザークは、うつむいて、また地面の花弁に視線を落とした。
「長い間を共に過ごした彼らを疑いたくは、ありません。ですが、ときには人は断固たる態度で物事に挑まねばならない、とヴァルフリード兄上がいつかおっしゃっていました」
ヴァルフリードは、弟に助言するような人物だったのか、と思いつつ、アウローラは一つの提案をした。
「この花びら、全部集めて厨に運びましょう」
イザークが、うつむかせていた顔を上げて、アウローラをまじまじと見た。
「……厨に?」
「ええ。お砂糖たっぷり、怨讐たっぷり。薔薇のジャムにいたしましょう……」
アウローラは、不敵に微笑んだ。
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