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終 祝われた子
姫君との逃避行
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ヴァルフリードの愛馬「黒いの号」の蹄が月光の下の山道を力強く叩いていく。あまりに適当な名付けだが、それはさておき、アウローラはヴァルフリードの背中にしがみついて、頬に彼のぬくもりを感じていた。夜道は冷えるが、こうしていれば、少なくとも心だけは寒くなかった。
「結局、おれは殺人に快を見出しているらしい……」
夜風にのって、彼の呟きが耳に届いてきた。蹄の音に紛れてしまうほど、静かな声だった。
「本当にどうしようもない人殺しだな」
アウローラは、彼の背中に頬を押し当てたまま慎重に言葉を選ぶようにして答えた。
「あなたが、私の命の危機を助けてくれたのは、どうあっても、事実です」
「…………」
彼は、沈黙を選んだ。
「私が人質にされていたら、必ず、あなたまで殺されていた。あのときのあなたの判断は、とても合理的で、正しかった……」
「問答無用で殺した。倫理的にはどうかな?」
彼はそのように返した後、またしばらく黙っていた。シュヴァルツの側対歩の規則正しい足音だけが聞こえてくる。
「だがまあ……きみからそう言ってもらえると、救われるな」
安堵の色が滲む声は、彼の背からアウローラの頬を通じて、低く、くぐもって響いた。
「そもそも、どうやって逃げ出したのですか。私と一緒に拘束されたではありませんか」
「エディングだ。またあいつに助けられてしまった」
「ああ……」
フィリベルト帝に依頼された「ヴァルフリード監視係」であることを公言してもなお、レンゼルに向かうヴァルフリードに付き従うと宣言した、蜂蜜のように蕩ける金の髪の騎士。もちろん、エディングと「そういう仲」のエリカもレンゼル行に一緒だった。
「エディング卿だったのですね」
「おれが捕まる前にあいつだけは逃げおおせていたらしい。そして、おれを監禁していた部屋の見張りを、背後から音もなく片付けてくれたわけさ」
ヴァルフリードは苦笑するように息を吐く。
「まったく、腐れ縁とはよく言ったものだな」
「それで、なぜ、私のところに?」
「きみが逃げるなら、窓から一択であることなど、予想がつく」
「えっ」
「部屋の外にアンズの木があるのは、見ていた。きみなら必ず、あの木を使って脱出を試みるだろう、と。だから、ずっと、そのときを張っていたのさ」
アウローラもつられて苦笑した。
「私の行動、読まれていましたのね」
「木登りが趣味の姫君だものな」
ヴァルフリードの肩が小さく揺れた。笑っている。
「ところで」
アウローラはふざけたことから話を転じた。
「そもそもなぜ、フィリベルト陛下はレンゼルを返還なさったのでしょう。ゲームに勝ったから、という単純な理由では釈然としません」
「それはおれも、考えないではなかった」
ヴァルフリードは笑って緩んだ手綱の握りを直した。
「おれごときが陛下の……いや、父上の御心をお察しするのは無礼あまりあるのだが」
「あなたの考えをお聞かせくださいませ」
「元々、レンゼルは帝国に抵抗せず、すぐに恭順する道を選んだ。だから、占領に戦力を割く必要がなかった……」
アウローラは落城前の父王コンラートの決断を思い出していた。帝国と正面きって戦えば、滅ぼされるのみ……と。苦渋の選択には間違いなかった。
「兵に犠牲も出ていないし、自治も滞りがなかった。陛下は領土と主権の返還を最初から決めていたのだと思う」
「最初から、ですか」
「ああ。ゲームはきみを試していただけだったのだろう。たとえ正解を当てられなくとも、最初から返還するつもりでいらっしゃった……」
アウローラは、フィリベルト帝の、穏やかな表情の中にも鷹のように瞳にたたえられた鋭い洞察の光を、いつか見たのだった。
「ヴァル」
「どうした」
「あなたは、フィリベルト陛下の最愛の息子なのですから」
アウローラはもう一度、彼の背中を強く抱きしめた。
「御心を察したって、よいのですよ」
♢
王家の猟場のある森の奥深く、複雑に分岐する獣道を分け入った先に、その小屋はあった。アウローラはむろん、この山に入り慣れているから、ここまでの道のりは夜だろうとしっかり辿ることができる。
「ここが、『小屋』か」
ヴァルフリードが馬を止めると、木立の間から小さな明かりが漏れているのが見えた。粗末な外見とは裏腹に、頑丈な造りをしていることを、アウローラは知っている。
「ここは、王族だけが知る避難場所です。城が有事の際にここへ逃げ込むよう、幼い頃から教えられていたのです」
アウローラが説明すると、やにわに扉が開いて、小さな影が転がるように飛び出してきた。
「アウローラ姉様!」
出迎えたのは、十歳の妹ステラ王女だった。
「無事だったのね、ステラ」
アウローラは馬から飛び降りるなり、ステラとひとしきり再会の抱擁を行った。
「お父様も、お母様も、ご無事ですよ。中にいらっしゃいます」
「よかった……本当に……」
すると、アウローラの両親であるコンラート王とフェリシテ王妃が建物の中から現れた。目には涙をためている。
ヴァルフリードは、小屋の傍らに佇んでいた一人の男に気づいた。
「よう、相変わらず不景気そうでなによりだ、殿下。命より大切な姫君は、無事に保護できたと見える」
「おまえの助けのおかげだ、『監視役』どの」
ヴァルフリードが素直すぎる返しをするとは思っていなかったのだろう、エディングは目を丸くした。
「はあ?」
「それはいい。どうやって、おまえはここを知った?」
「コンラート陛下の使いが教えてくれたのさ」
エディングはそう言ってヴァルフリードより一回り華奢な肩をすくめる。
「あの『憂国会』とやらの反乱が起きた直後、王家の方々はすぐさまここへ避難なさって、そして、おれたちが捕まったと聞き、使いを出してこの場所を密かに教えてくれた」
エディングはそのまま目を細める。
「愛しの姫君と楽しい相乗りに興じるのは結構だが……あまりに欲で目が曇りすぎて、ガルティヤ兵の追跡を振り切れていない、とかではないよな?」
「おれは、そんなヘマはしない」
「だがまあ、この場所が誰かの口伝いにばれるのも、時間の問題だろうな」
「……ああ、その通りだ」
「コンラート陛下と対策を練るぞ。駄々をこねるガルティヤ兵には、おとなしくおうちに帰ってもらわねば困る」
「本当だ」
「エリカの紅茶もあるぞ。おまえの淹れる『湯』ではなく、な」
「おれはさておき、アウローラが喜ぶな」
「何かあれば姫君の話ばかりだ」
と、もう一度、エディングは肩をすくめた。
「結局、おれは殺人に快を見出しているらしい……」
夜風にのって、彼の呟きが耳に届いてきた。蹄の音に紛れてしまうほど、静かな声だった。
「本当にどうしようもない人殺しだな」
アウローラは、彼の背中に頬を押し当てたまま慎重に言葉を選ぶようにして答えた。
「あなたが、私の命の危機を助けてくれたのは、どうあっても、事実です」
「…………」
彼は、沈黙を選んだ。
「私が人質にされていたら、必ず、あなたまで殺されていた。あのときのあなたの判断は、とても合理的で、正しかった……」
「問答無用で殺した。倫理的にはどうかな?」
彼はそのように返した後、またしばらく黙っていた。シュヴァルツの側対歩の規則正しい足音だけが聞こえてくる。
「だがまあ……きみからそう言ってもらえると、救われるな」
安堵の色が滲む声は、彼の背からアウローラの頬を通じて、低く、くぐもって響いた。
「そもそも、どうやって逃げ出したのですか。私と一緒に拘束されたではありませんか」
「エディングだ。またあいつに助けられてしまった」
「ああ……」
フィリベルト帝に依頼された「ヴァルフリード監視係」であることを公言してもなお、レンゼルに向かうヴァルフリードに付き従うと宣言した、蜂蜜のように蕩ける金の髪の騎士。もちろん、エディングと「そういう仲」のエリカもレンゼル行に一緒だった。
「エディング卿だったのですね」
「おれが捕まる前にあいつだけは逃げおおせていたらしい。そして、おれを監禁していた部屋の見張りを、背後から音もなく片付けてくれたわけさ」
ヴァルフリードは苦笑するように息を吐く。
「まったく、腐れ縁とはよく言ったものだな」
「それで、なぜ、私のところに?」
「きみが逃げるなら、窓から一択であることなど、予想がつく」
「えっ」
「部屋の外にアンズの木があるのは、見ていた。きみなら必ず、あの木を使って脱出を試みるだろう、と。だから、ずっと、そのときを張っていたのさ」
アウローラもつられて苦笑した。
「私の行動、読まれていましたのね」
「木登りが趣味の姫君だものな」
ヴァルフリードの肩が小さく揺れた。笑っている。
「ところで」
アウローラはふざけたことから話を転じた。
「そもそもなぜ、フィリベルト陛下はレンゼルを返還なさったのでしょう。ゲームに勝ったから、という単純な理由では釈然としません」
「それはおれも、考えないではなかった」
ヴァルフリードは笑って緩んだ手綱の握りを直した。
「おれごときが陛下の……いや、父上の御心をお察しするのは無礼あまりあるのだが」
「あなたの考えをお聞かせくださいませ」
「元々、レンゼルは帝国に抵抗せず、すぐに恭順する道を選んだ。だから、占領に戦力を割く必要がなかった……」
アウローラは落城前の父王コンラートの決断を思い出していた。帝国と正面きって戦えば、滅ぼされるのみ……と。苦渋の選択には間違いなかった。
「兵に犠牲も出ていないし、自治も滞りがなかった。陛下は領土と主権の返還を最初から決めていたのだと思う」
「最初から、ですか」
「ああ。ゲームはきみを試していただけだったのだろう。たとえ正解を当てられなくとも、最初から返還するつもりでいらっしゃった……」
アウローラは、フィリベルト帝の、穏やかな表情の中にも鷹のように瞳にたたえられた鋭い洞察の光を、いつか見たのだった。
「ヴァル」
「どうした」
「あなたは、フィリベルト陛下の最愛の息子なのですから」
アウローラはもう一度、彼の背中を強く抱きしめた。
「御心を察したって、よいのですよ」
♢
王家の猟場のある森の奥深く、複雑に分岐する獣道を分け入った先に、その小屋はあった。アウローラはむろん、この山に入り慣れているから、ここまでの道のりは夜だろうとしっかり辿ることができる。
「ここが、『小屋』か」
ヴァルフリードが馬を止めると、木立の間から小さな明かりが漏れているのが見えた。粗末な外見とは裏腹に、頑丈な造りをしていることを、アウローラは知っている。
「ここは、王族だけが知る避難場所です。城が有事の際にここへ逃げ込むよう、幼い頃から教えられていたのです」
アウローラが説明すると、やにわに扉が開いて、小さな影が転がるように飛び出してきた。
「アウローラ姉様!」
出迎えたのは、十歳の妹ステラ王女だった。
「無事だったのね、ステラ」
アウローラは馬から飛び降りるなり、ステラとひとしきり再会の抱擁を行った。
「お父様も、お母様も、ご無事ですよ。中にいらっしゃいます」
「よかった……本当に……」
すると、アウローラの両親であるコンラート王とフェリシテ王妃が建物の中から現れた。目には涙をためている。
ヴァルフリードは、小屋の傍らに佇んでいた一人の男に気づいた。
「よう、相変わらず不景気そうでなによりだ、殿下。命より大切な姫君は、無事に保護できたと見える」
「おまえの助けのおかげだ、『監視役』どの」
ヴァルフリードが素直すぎる返しをするとは思っていなかったのだろう、エディングは目を丸くした。
「はあ?」
「それはいい。どうやって、おまえはここを知った?」
「コンラート陛下の使いが教えてくれたのさ」
エディングはそう言ってヴァルフリードより一回り華奢な肩をすくめる。
「あの『憂国会』とやらの反乱が起きた直後、王家の方々はすぐさまここへ避難なさって、そして、おれたちが捕まったと聞き、使いを出してこの場所を密かに教えてくれた」
エディングはそのまま目を細める。
「愛しの姫君と楽しい相乗りに興じるのは結構だが……あまりに欲で目が曇りすぎて、ガルティヤ兵の追跡を振り切れていない、とかではないよな?」
「おれは、そんなヘマはしない」
「だがまあ、この場所が誰かの口伝いにばれるのも、時間の問題だろうな」
「……ああ、その通りだ」
「コンラート陛下と対策を練るぞ。駄々をこねるガルティヤ兵には、おとなしくおうちに帰ってもらわねば困る」
「本当だ」
「エリカの紅茶もあるぞ。おまえの淹れる『湯』ではなく、な」
「おれはさておき、アウローラが喜ぶな」
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と、もう一度、エディングは肩をすくめた。
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