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2巻
2-2
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「ほう、そいつが噂になってた魔物ですか」
そちらに顔を向ける。声の主は先程兄さんと手合わせしていた、警備団のガリアルだ。
「その使い魔はいつお披露目になるんですかい」
「使い魔?」
その言葉に聞き覚えがなく、聞き返した。
「おや、違うんですか? てっきり契約を交わしているものかと思ってたんですが」
彼は一つ間を置いて言葉を続ける。
「まあ、使い魔は滅多に見ませんからね。知らないのも無理はありませんか」
「その使い魔ってなんなの?」
自分の浮かべた疑問に隣のドラウが答えてくれた。
「使い魔とは人間に使役される魔物のことだ。人を信頼した魔物は血の契約魔法が使えるようになると言われている。その魔法に人間が同意すれば、契約が結ばれるのだ」
「魔物なだけあって、よく知っているな」
ドラウの言葉にガリアルは感心するように頷いた。
その契約を交わせば晴れて魔物は使い魔となるわけか。使い魔という名前だが、使役される魔物の方から契約を結ぶなんて意外だな。
ドラウを使い魔にすれば、屋敷の皆がドラウへの印象を変えるのではと考えていると、ガリアルが気になることを話した。
「まあ、その契約魔法は魔物じゃなくても使えるらしいですがね」
てっきり血の契約魔法とやらは魔物だけが使える魔法かと思っていたのだが、人にも使えると知り興味が湧いた。
魔物が人に信頼を置いた時に発動するのであれば、人の場合何がキーになるのか。
詳しいところが気になり、ガリアルに聞いてみる。
「人間にも使える魔法なんだ。その契約魔法を使える人を知ってたりしない?」
「俺は知りませんね。そもそも、現在では契約魔法に関して伝承しか残ってませんよ。消えた理由っていうのも、契約魔法と言えば聞こえは良いですが、実態は魔物を無理やり隷属させるものだったんで、禁止されたらしいです」
話によると、どうやら人間が契約魔法を使っていたのは数百年前のことのようだ。
そして契約魔法の真実に心を痛めた一部の人達が、その魔法の存在を闇に葬ったらしい。故に現在では伝承しか残っていない。当然のように魔法を悪用する者がいたことにぞっとする。
「ん、隷属の魔法……? ねぇ、ガリアルは魔物を隷属させる道具や魔法を知らない?」
「そんな物騒なことを聞いてきて、どうしたんです? まあ、今はそんな物があれば大問題ですね。今の時代は人間はもちろん魔物の奴隷なんかもいませんし、必要ありませんよ」
「そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて」
笑って誤魔化したが、疑問は消えない。つい最近までドラウは『隷属の首輪』の魔導具で身体の自由を奪われていた。
つまり誰かが禁じられた領域に足を踏み入れたことになる。
この世界で今、おかしなことが起きているのかもしれない。
訓練場を後にした自分は、ドラウと一緒に屋敷内をうろついていた。
そんな折、掃除中のメイド――メイベルとモニカの二人を見つけた。
「お掃除ご苦労さま」
「これはこれは、ユータさ、ま……」
声を掛けると二人は振り向きざまに固まった。
その視線は隣のドラウへ向かっている。
それに気がついた自分は、魔導具によって喋れるようになったことを説明し、ドラウに話すよう促した。
「この屋敷で世話になっているドラウクロウだ。これからよろしく頼む」
「あっ、は、はい。よろしく……おねがいします」
モニカは依然として固まっているが、メイベルはどうにか声を出した。
だが、それでも言葉の後半は消え入りそうになっていた。
「やっぱりまだドラウのことを、怖いって思ってしまうのかな」
「……申し訳ございません」
「ああ、いや。別に責めてるわけじゃないからね。でも、具体的にどこが怖いのか教えてもらえないかな?」
参考にしたいのだと付け足して、二人に聞いてみた。
だが、モニカは口を閉じたままメイベルの後ろからこちらを見ている。
そんな彼女の様子を目にしたドラウは、少し距離を取った。
「そう、ですね。やはりドラウさんのような魔物と、こうしてお会い? する機会がないので……。それと見た目が……」
メイベルの口からは遠慮がちながらも、ドラウに対しての正直な気持ちを聞くことができた。
「我の見た目はそこまで恐ろしいものなのか?」
後ろからドラウがぼそっと聞いてきた。
自分は最初からドラウクロウが神子だとわかっていたので、恐怖心はあまり抱いていなかった。
だが、当然、他の皆はそれを知らないのだ。なので、一般人からすると普通に怖いらしいとやんわりと告げる。
「そうか……」
明らかに落ち込んでいるのが声色から伝わってきた。
自分も神子だと知らずに会っていたら、怖がっていてもおかしくない。
桃色の髪の一本も微動だにしないくらい固まっているモニカが、良い例だ。
ひとまず今日のところはこれ以上食い下がらない方がいいと思い、二人に挨拶をしてから通路を引き返した。
「んー、正直ここまでとは思ってなかったかな」
あれから何人かと話したが、皆メイベル達とほぼ同じ反応を返してきた。
やはり、獣との接点が少ないメイド達は、ドラウの見た目に強く怯えている。
同じ言葉を喋れるからといって、簡単に仲良くなれるはずはないか。
前世に置き換えると、人の言葉を話すライオンが目の前にいるのと同義だろう。所詮は動物なので、いつ食われるかと内心穏やかじゃないはずだ。
だが、メイドの中でも、カミラからは貴重な別の意見を聞くことができた。
彼女は元冒険者だ。そのため、彼女だけ他のメイド達とは異なり、露骨に怯えた態度は見せなかった。仕事で魔物を目にしたことが何度もあるのだろう。
そんなカミラからも……見た目が怖いという意見をもらった。
「やはり、この姿が悪いのか……」
重要なのは、魔物を見た経験のあるカミラですら、ドラウの外見について言及したという点だ。
それほどまでに、ドラウクロウの外見は畏怖の念を抱かれている。
父さんやカイル兄さんは全く怖がらなかったが、あれは例外だったのだろう。
「自由が遠のくね」
落ち込むドラウの頭を撫でながら、なおも屋敷内をうろついていると、自分の世話をよくしてくれているメイド、ニーナの姿が見えた。
「ほら、落ち込んでる暇はないよ」
励ますように声を掛け、その後、まずは自分からニーナに挨拶をする。
そして今日、何度も行った挨拶をドラウは慣れた調子で口にした。
これに対する彼女の反応はというと――
「おや、ユータ様にドラウクロウ様。お出かけですか?」
――怯えも動揺も一切見えない、普段通りのものだった。
そのことに一番驚いたのはドラウである。
「わ、我のことが恐ろしくはないのか?」
「申し訳ございません。もっと怯えた方がよろしかったでしょうか?」
「いや、そうではない。ただ、我に怯えないことに嬉しく思っただけだ」
ニーナは人間と会話をするように、言葉を紡いだ。
「ユータ殿! 我に怯えない者がここに!」
「うん、わかってる。わかってるよ。少し落ち着いて」
先程まで落ち込んでいたのが嘘のように、ドラウははしゃぎだした。
その様は大型犬を彷彿させ、よほど嬉しかったのか、じゃれつこうとしてきたので、少し距離を取る。さすがにその巨体にのしかかられると、この小さな身体では押し倒されてしまう。
キャラの変わりように驚きだ。実は、これが本来のドラウなのかもしれないな。
興奮するドラウをひとまず落ち着かせ、自分はニーナに質問する。
「本当に怖くないの?」
「ユータ様のご様子から、ドラウクロウ様が悪いお方ではないとわかりましたので。それに、人の言葉を話すようになったと、モニカ達から聞いておりましたから」
ニーナの言葉を聞いて、ドラウクロウは口を開いた。
「ユータ殿は信頼されているのだな」
「ニーナみたいに、皆が信頼だけで恐怖心がなくなるなら問題はないんだけどね」
ドラウに苦笑いを返す。
だが、ニーナがドラウに怯えていないのは明らかだ。
心強い味方ができたので、早速あるお願いをする。
「ニーナ、良ければなんだけどさ、ドラウがみんなと仲良くなれる方法を一緒に考えてほしいんだ。何かいい案はないかな?」
奇抜な策で一気に現状を変えられれば良いのだが、そういったことは簡単には思いつかない。
ならば、一人で考えすぎるよりは誰かに頼った方が良い。
顎に手を添えて考える仕草をしたニーナは、少しの間をおいて口を開いた。
「では、こういうのはどうでしょう――親睦会などは」
ニーナが提案してくれたのは無難ではあるが、一番堅実な方法だった。
「親睦会か」
「ええ、ドラウクロウ様は魔物ではありますが、人間に劣らない知性をお持ちです。言葉も通じますので、ドラウクロウ様が私達と見た目以外、違いがないことを知ってもらえれば現状を変える一手になるかと。それに、少量でもお酒が入れば緊張や恐怖が和らぎ、ドラウクロウ様との距離も僅かながら縮まるでしょう」
「なるほど、やるにしても準備が必要だから、早くても一週間後かな。うん、ちょっと考えてみるよ。ありがとう、ニーナ」
「多少なりともお力になれたのであれば何よりです。それでは、私はこの辺りで失礼させていただきます。何かございましたらお呼びください」
うやうやしく礼をしたニーナと別れ、自分達は二階へと向かった。
取り敢えず当面の目標は決まった。親睦会を行うに当たり、ドラウクロウをより知ってもらうための案を考えないと。
「とはいっても難しいものだね」
「我のためにすまないな」
ドラウは申し訳なさそうな声色で言った。
「別に悪いことをしているわけじゃないんだから、謝る必要はないよ。でも、気になるなら一緒に考えてほしいかな」
「ふむ、それではカイルと戦って我の強さを――」
「それは却下」
「むぅ……」
それほどまでに身体を動かしたいのか、弾んだ声で提案してきたがそれは却下せざるを得ない。
慰めるように彼の背中を撫で、一緒に考えながら自分の部屋に向かっていると、廊下の後ろからパタパタと走る足音がした。
振り返ると、そこにいたのは妹のアイリスだ。少し遅れてセレア姉さんも二階へ上がってきた。
妹はふわりとしたブロンドの髪をなびかせて、一心不乱にこちらへ走ってくる。
「とうっ!」
短く声を出して、次の瞬間には強烈なタックルを、ドラウクロウへと仕掛けていた。
「もふもふだ~」
自身を受け止めたドラウの、真っ白な毛に顔を埋めながらアイリスは声を出した。
追いかけてきたセレア姉さんもアイリスと同じことをしたいのか、ウズウズしている様子だ。
だが、姉としてのプライドがその欲求を抑えているように見えた。
「やあ、姉さん。アイリスと追いかけっこでもしてたの?」
「二人を探していたのよ。アイリスがどうしてもその子に会いたいって言ってたから」
「なるほど、ドラウが目当てね。それにしてもよく怖がらないね」
「どういうこと?」
疑問を投げかけてきた姉さんに、メイド達がしていた反応を伝えた。
「へぇ、彼女らはこの子を怖がってるのね。おかしいわね、私は可愛らしいと思うのだけれど」
ここまで見てきた反応からすると姉さん達の方がおかしいのだが、その言葉は呑み込んだ。
ドラウへ触れるのをためらっている姉さんと違い、アイリスは子犬のようにドラウにじゃれついている。
「みんなも姉さん達みたいだったら良かったんだけどね」
「そんなに怖がっているの?」
「そうなんだ。だから、親睦会でも開いたら良いんじゃないかってことになってね。どうかな?」
姉さんに意見を聞きつつ、ちらりとドラウの表情を窺う。
妹に身体を弄られているが、どうやら嫌がってはいないようだ。
だが、どういう反応をしたら良いのかわからないらしく、困り顔でこちらへ視線を向けてきた。
自分はそんな彼の頭を無言で撫でる。
「親睦会、良いんじゃないかしら。みんなが仲良くなるのが一番よ」
ニヤニヤするのを必死に堪えながら、姉さんは恐る恐るドラウの身体に触れる。
そんな中、ずっとされるがままだったドラウクロウが口を開いた。
「そろそろ、解放してくれないだろうか」
「あらっ、あなた喋ることができたのね」
撫でる手は止めず、姉さんは言葉を発したドラウに少し驚く。
そして、首元を一瞥して納得したように小さく頷いてから、自己紹介を始めた。
「はじめまして、私はセレア・ホレスレットよ。よろしくね」
「手は止めないのだな……まあいいが。我はドラウクロウだ。よろしく」
撫で続ける姉さんに、ドラウは苦笑いをこぼす。
だが、嫌がっている素振りはない。そのことに自分は安堵のため息をついた。
「ほらっ、アイリスも自己紹介をしなさい」
「もふもふ~」
姉さんの言葉が聞こえていないのか、妹はただドラウの身体に顔を埋め撫で回している。
「ハハハッ、しばらくは離れそうにないね」
アイリスはそうとうドラウクロウのことを気に入ってくれた様子だ。
当のドラウクロウはと言うと、なんとも言い難い表情を浮かべ、ただ身体を弄られていた。
第二話 ドラウクロウの過去
ここはネスティア王国にあるオルドレントの森。
その名は森の長である魔物の名前から付けられた。
長は巨大な木の魔物であり、エルダートレントという種族に属している。
千年以上の長い時を生きるトレントという種が力と知識を蓄え、より長い時を生きたものがエルダートレントになると言われている。
しかし、人間には知られていないが真実は別で、長い時を生き力をつけただけでは、トレント種から昇華できない。
本当にエルダートレントへ昇華できるのは、自身を守るための固有領域――森――を顕現させる力を得た時だ。
だが強大な力を得た代償か、その身体は森という固有領域から出ることができなくなった。
そんなエルダートレントが生み出した森に、一体の魔物が新たに入り込んだ。
(やはり人間は碌なのがいない)
新入りの魔物は内心でそう呟いた。
彼の名はドラウクロウ。
少し特殊な魔物である彼は、頭部に黒い二本の角を生やした、純白な体毛を持つ四足歩行の獣だ。
元々はここから離れた山の方で暮らしていたのだが、オルドレントの森へやって来た。
理由は至極単純で、彼を狩ろうとする人間から逃れるためである。
彼は珍しい魔物であるために、一つの場所に長居ができない。
新しい場所に引っ越しても、しばらくすれば目撃者から話が広まり、さらに少しの時が過ぎれば彼を探しに人間がやって来る。
数年前までは、ここまで彼を探し求める人間はいなかった。
ことの始まりは、人間にも契約魔法が扱えると判明したことである。
本来の契約魔法というのは、魔物と人間の間に絆が生まれた時、魔物側に目覚める魔法だ。
だが、人間にも使えるようになったことで、人間は魔物を奴隷のように認識し始めた。
もちろん、人間全員がそうというわけではないが、多くの者が魔物を下に見るようになってしまった。
(本当に人間は忌々しい存在だ)
ドラウクロウは歯を噛み締めながら、内心で呟いた。
人間は魔物と絆を結ばずとも、狙った魔物を使い魔にできる。
そのせいで、ドラウクロウはこのような状況に陥ったのだ。珍しい魔物であること、そして対峙してわかる強大な力。それを求めて多くの人々が彼を追いかけ回していた。
苛立ちながらも彼は木々の生い茂る森を進んでいく。そうして新たな場所での生活が始まった。
やはり避けられている。
ドラウクロウは周囲の気配からそう感じていた。
森で生活をするようになってから余り時が経っていないとはいえ、森の長――オルドレントへの挨拶は済ませている。
自身の境遇を説明し、この森で暮らす許可を得たのだが、以前暮らしていた所とあまり状況は変わらなかった。ひとつ前にいた場所でもドラウクロウを恐れる魔物が多く、肩身の狭い思いをしていた。
稀にこの森へ、冒険者という組織に加入している人間がやって来る。
その冒険者に襲われた魔物を助けたりはしているのだが、それでも状況はさほど変わりはしない。
(仕方のないことだ。気にしてもしょうがない)
ドラウクロウはそう考え、些細なことだからと諦めた。だが、その表情は少し悲しげだった。
そうして森での生活に慣れてきた頃、奇妙な人間と出会った。
歳のほどは二十代前半だろうか。性別は女性で、肩あたりで切り揃えられた綺麗な黒髪に、黒い瞳という珍しい容姿をしていた。
(また人間がやって来たのか! 忌々しい!)
人間を嫌っていたドラウクロウは出会い頭に彼女へと攻撃を仕掛けたが、これを呆気なく防がれてしまう。
その後も、木の幹すらも容易く切り裂く爪や、自慢の脚力からの突進、地の利を使っての攻撃を仕掛けるも、すべて半透明の障壁に阻まれた。
彼女はその間、ドラウクロウへ説得を試みていたが、彼は聞く耳を持たず、結局は力ずくで動きを封じられることとなった。
そんな出会いから始まった一人と一匹だったが、少し時が経った頃には気軽に会話できるまでになっていた。
彼女は自身のことを〝ナナシ〟と名乗った。
馴染みのない発音であり、人間が使うアドルリヒト語ではないとわかった。
彼女は自身のことをあまり語りたがらない。必ず決まった時間にオルドレントの森を訪れては、決まった時間に帰っていく。契約しようとすることもない。確かなのは、彼女がモンストルム語を理解し、そして話すということだった。
ドラウクロウもまたそんなナナシを気遣い、無用な詮索はしなかった。
彼女が語ることは、ドラウクロウにとって初めて聞く話ばかりで、新鮮な気持ちにさせてくれた。
そして彼女もまた、普段は口にしないような話をしてしまうくらいに、ドラウクロウに心を許すようになっていった。
仲が深まると、ナナシに懐いたドラウクロウが彼女に相談を持ちかけることもあった。
内容はナナシに太刀打ちできるくらい力を付けたいというもの。戦ったのは最初の一回のみだったが、ドラウクロウはその時の敗北をずっと気にしていたらしい。
その相談に乗ったナナシは、ドラウクロウと一緒に特訓に付き合うと口にした。
まずは普通に模擬戦から始まり、次にナナシが作った魔法の球をドラウクロウが咥えて取ってくるという脚力の強化。森に隠れたナナシをドラウクロウが探す索敵の練習。ナナシが魔法で操るロープを引っ張って、顎の力を鍛える特訓。
その他にも様々な特訓を行う日々が続いた。
こんな時間がいつまでも続けば……。月並みな言葉だが、ドラウクロウはそう願うようになっていた。
しかし、時の流れは残酷だ。平穏な時間は長く続くことはなかった。
ナナシが森に滞在する時間が縮まり、森へ来るのが何日か置きになり、そしてやがてオルドレントの森へ来ることはなくなった。
それならば、今度はこちらからナナシの住んでいる場所へ行ってみよう。
ドラウクロウはそう考えると森を出て、以前彼女から聞いた情報を頼りに人里を探した。
やがて、ナナシが住んでいるだろう街へと辿り着いたのだが……。
そこで目にしたのは、城壁や建物が崩れ落ちた街の様子だった。
※ ※ ※
ホレスレット家の一室で目を覚ましたドラウクロウは、ボソリと呟いた。
「懐かしい夢だ……」
ちなみに結局、ナナシは無事だった。
辿り着いた街で、彼女は街の復興に携わっていたのだ。ドラウクロウとも無事に街で再会している。
街が荒れていたのは、後々まで語り継がれる災害によるものであった。
その後もナナシはオルドレントの森へ通ったが、寄る年波には勝てず七十歳を過ぎた辺りで息を引き取った。
昔を懐かしむような表情を浮かべた後、ドラウクロウはのそりと立ち上がる。
彼の首には魔物が扱う言語――モンストルム語をアドルリヒト語へ翻訳する首輪型の魔導具がはめられていた。今はただ石を首輪にしたものではなく、見栄えの良いものに取り替えられている。その魔導具によって、彼は人と言葉を交わすことができている。
かつてはナナシのように、モンストルム語を理解できる人間もいた。
しかし今では姿を消し、彼が人間と話したのは久方ぶりのことであった。
(今日は親睦会とやらを行うのだったな)
彼がアドルリヒト語を話せるようになってから、約一週間が経過している。
未だホレスレット家で働いている使用人達との仲は、あまり進展していない。
この親睦会で怖がられることがなくなれば良いのだが……。そう考えているとドアがノックされ一人の少年が入ってきた。
「おはよう、ドラウ。調子はどうかな」
声を掛けてきたのはこの家の次男、ユータ・ホレスレット。優しい印象の目がナナシに似ていて、どことなく懐かしさを感じさせる。
そんな彼にドラウクロウは「問題ない」と返した。
「それじゃあ、今日の衣装から決めていこうか」
「ああ、よろしく頼む」
二人は部屋を出ると、準備のため二階へと足を進めた。
(ここには自分を襲って来る者はいない。当時の彼女より仲良くなるのは簡単だ)
彼はかつて自分を力任せに説得して親交を深めてきたナナシの姿を思い浮かべ、意気込むように内心でそう呟いた。
そちらに顔を向ける。声の主は先程兄さんと手合わせしていた、警備団のガリアルだ。
「その使い魔はいつお披露目になるんですかい」
「使い魔?」
その言葉に聞き覚えがなく、聞き返した。
「おや、違うんですか? てっきり契約を交わしているものかと思ってたんですが」
彼は一つ間を置いて言葉を続ける。
「まあ、使い魔は滅多に見ませんからね。知らないのも無理はありませんか」
「その使い魔ってなんなの?」
自分の浮かべた疑問に隣のドラウが答えてくれた。
「使い魔とは人間に使役される魔物のことだ。人を信頼した魔物は血の契約魔法が使えるようになると言われている。その魔法に人間が同意すれば、契約が結ばれるのだ」
「魔物なだけあって、よく知っているな」
ドラウの言葉にガリアルは感心するように頷いた。
その契約を交わせば晴れて魔物は使い魔となるわけか。使い魔という名前だが、使役される魔物の方から契約を結ぶなんて意外だな。
ドラウを使い魔にすれば、屋敷の皆がドラウへの印象を変えるのではと考えていると、ガリアルが気になることを話した。
「まあ、その契約魔法は魔物じゃなくても使えるらしいですがね」
てっきり血の契約魔法とやらは魔物だけが使える魔法かと思っていたのだが、人にも使えると知り興味が湧いた。
魔物が人に信頼を置いた時に発動するのであれば、人の場合何がキーになるのか。
詳しいところが気になり、ガリアルに聞いてみる。
「人間にも使える魔法なんだ。その契約魔法を使える人を知ってたりしない?」
「俺は知りませんね。そもそも、現在では契約魔法に関して伝承しか残ってませんよ。消えた理由っていうのも、契約魔法と言えば聞こえは良いですが、実態は魔物を無理やり隷属させるものだったんで、禁止されたらしいです」
話によると、どうやら人間が契約魔法を使っていたのは数百年前のことのようだ。
そして契約魔法の真実に心を痛めた一部の人達が、その魔法の存在を闇に葬ったらしい。故に現在では伝承しか残っていない。当然のように魔法を悪用する者がいたことにぞっとする。
「ん、隷属の魔法……? ねぇ、ガリアルは魔物を隷属させる道具や魔法を知らない?」
「そんな物騒なことを聞いてきて、どうしたんです? まあ、今はそんな物があれば大問題ですね。今の時代は人間はもちろん魔物の奴隷なんかもいませんし、必要ありませんよ」
「そうだよね。ごめんね、変なこと聞いて」
笑って誤魔化したが、疑問は消えない。つい最近までドラウは『隷属の首輪』の魔導具で身体の自由を奪われていた。
つまり誰かが禁じられた領域に足を踏み入れたことになる。
この世界で今、おかしなことが起きているのかもしれない。
訓練場を後にした自分は、ドラウと一緒に屋敷内をうろついていた。
そんな折、掃除中のメイド――メイベルとモニカの二人を見つけた。
「お掃除ご苦労さま」
「これはこれは、ユータさ、ま……」
声を掛けると二人は振り向きざまに固まった。
その視線は隣のドラウへ向かっている。
それに気がついた自分は、魔導具によって喋れるようになったことを説明し、ドラウに話すよう促した。
「この屋敷で世話になっているドラウクロウだ。これからよろしく頼む」
「あっ、は、はい。よろしく……おねがいします」
モニカは依然として固まっているが、メイベルはどうにか声を出した。
だが、それでも言葉の後半は消え入りそうになっていた。
「やっぱりまだドラウのことを、怖いって思ってしまうのかな」
「……申し訳ございません」
「ああ、いや。別に責めてるわけじゃないからね。でも、具体的にどこが怖いのか教えてもらえないかな?」
参考にしたいのだと付け足して、二人に聞いてみた。
だが、モニカは口を閉じたままメイベルの後ろからこちらを見ている。
そんな彼女の様子を目にしたドラウは、少し距離を取った。
「そう、ですね。やはりドラウさんのような魔物と、こうしてお会い? する機会がないので……。それと見た目が……」
メイベルの口からは遠慮がちながらも、ドラウに対しての正直な気持ちを聞くことができた。
「我の見た目はそこまで恐ろしいものなのか?」
後ろからドラウがぼそっと聞いてきた。
自分は最初からドラウクロウが神子だとわかっていたので、恐怖心はあまり抱いていなかった。
だが、当然、他の皆はそれを知らないのだ。なので、一般人からすると普通に怖いらしいとやんわりと告げる。
「そうか……」
明らかに落ち込んでいるのが声色から伝わってきた。
自分も神子だと知らずに会っていたら、怖がっていてもおかしくない。
桃色の髪の一本も微動だにしないくらい固まっているモニカが、良い例だ。
ひとまず今日のところはこれ以上食い下がらない方がいいと思い、二人に挨拶をしてから通路を引き返した。
「んー、正直ここまでとは思ってなかったかな」
あれから何人かと話したが、皆メイベル達とほぼ同じ反応を返してきた。
やはり、獣との接点が少ないメイド達は、ドラウの見た目に強く怯えている。
同じ言葉を喋れるからといって、簡単に仲良くなれるはずはないか。
前世に置き換えると、人の言葉を話すライオンが目の前にいるのと同義だろう。所詮は動物なので、いつ食われるかと内心穏やかじゃないはずだ。
だが、メイドの中でも、カミラからは貴重な別の意見を聞くことができた。
彼女は元冒険者だ。そのため、彼女だけ他のメイド達とは異なり、露骨に怯えた態度は見せなかった。仕事で魔物を目にしたことが何度もあるのだろう。
そんなカミラからも……見た目が怖いという意見をもらった。
「やはり、この姿が悪いのか……」
重要なのは、魔物を見た経験のあるカミラですら、ドラウの外見について言及したという点だ。
それほどまでに、ドラウクロウの外見は畏怖の念を抱かれている。
父さんやカイル兄さんは全く怖がらなかったが、あれは例外だったのだろう。
「自由が遠のくね」
落ち込むドラウの頭を撫でながら、なおも屋敷内をうろついていると、自分の世話をよくしてくれているメイド、ニーナの姿が見えた。
「ほら、落ち込んでる暇はないよ」
励ますように声を掛け、その後、まずは自分からニーナに挨拶をする。
そして今日、何度も行った挨拶をドラウは慣れた調子で口にした。
これに対する彼女の反応はというと――
「おや、ユータ様にドラウクロウ様。お出かけですか?」
――怯えも動揺も一切見えない、普段通りのものだった。
そのことに一番驚いたのはドラウである。
「わ、我のことが恐ろしくはないのか?」
「申し訳ございません。もっと怯えた方がよろしかったでしょうか?」
「いや、そうではない。ただ、我に怯えないことに嬉しく思っただけだ」
ニーナは人間と会話をするように、言葉を紡いだ。
「ユータ殿! 我に怯えない者がここに!」
「うん、わかってる。わかってるよ。少し落ち着いて」
先程まで落ち込んでいたのが嘘のように、ドラウははしゃぎだした。
その様は大型犬を彷彿させ、よほど嬉しかったのか、じゃれつこうとしてきたので、少し距離を取る。さすがにその巨体にのしかかられると、この小さな身体では押し倒されてしまう。
キャラの変わりように驚きだ。実は、これが本来のドラウなのかもしれないな。
興奮するドラウをひとまず落ち着かせ、自分はニーナに質問する。
「本当に怖くないの?」
「ユータ様のご様子から、ドラウクロウ様が悪いお方ではないとわかりましたので。それに、人の言葉を話すようになったと、モニカ達から聞いておりましたから」
ニーナの言葉を聞いて、ドラウクロウは口を開いた。
「ユータ殿は信頼されているのだな」
「ニーナみたいに、皆が信頼だけで恐怖心がなくなるなら問題はないんだけどね」
ドラウに苦笑いを返す。
だが、ニーナがドラウに怯えていないのは明らかだ。
心強い味方ができたので、早速あるお願いをする。
「ニーナ、良ければなんだけどさ、ドラウがみんなと仲良くなれる方法を一緒に考えてほしいんだ。何かいい案はないかな?」
奇抜な策で一気に現状を変えられれば良いのだが、そういったことは簡単には思いつかない。
ならば、一人で考えすぎるよりは誰かに頼った方が良い。
顎に手を添えて考える仕草をしたニーナは、少しの間をおいて口を開いた。
「では、こういうのはどうでしょう――親睦会などは」
ニーナが提案してくれたのは無難ではあるが、一番堅実な方法だった。
「親睦会か」
「ええ、ドラウクロウ様は魔物ではありますが、人間に劣らない知性をお持ちです。言葉も通じますので、ドラウクロウ様が私達と見た目以外、違いがないことを知ってもらえれば現状を変える一手になるかと。それに、少量でもお酒が入れば緊張や恐怖が和らぎ、ドラウクロウ様との距離も僅かながら縮まるでしょう」
「なるほど、やるにしても準備が必要だから、早くても一週間後かな。うん、ちょっと考えてみるよ。ありがとう、ニーナ」
「多少なりともお力になれたのであれば何よりです。それでは、私はこの辺りで失礼させていただきます。何かございましたらお呼びください」
うやうやしく礼をしたニーナと別れ、自分達は二階へと向かった。
取り敢えず当面の目標は決まった。親睦会を行うに当たり、ドラウクロウをより知ってもらうための案を考えないと。
「とはいっても難しいものだね」
「我のためにすまないな」
ドラウは申し訳なさそうな声色で言った。
「別に悪いことをしているわけじゃないんだから、謝る必要はないよ。でも、気になるなら一緒に考えてほしいかな」
「ふむ、それではカイルと戦って我の強さを――」
「それは却下」
「むぅ……」
それほどまでに身体を動かしたいのか、弾んだ声で提案してきたがそれは却下せざるを得ない。
慰めるように彼の背中を撫で、一緒に考えながら自分の部屋に向かっていると、廊下の後ろからパタパタと走る足音がした。
振り返ると、そこにいたのは妹のアイリスだ。少し遅れてセレア姉さんも二階へ上がってきた。
妹はふわりとしたブロンドの髪をなびかせて、一心不乱にこちらへ走ってくる。
「とうっ!」
短く声を出して、次の瞬間には強烈なタックルを、ドラウクロウへと仕掛けていた。
「もふもふだ~」
自身を受け止めたドラウの、真っ白な毛に顔を埋めながらアイリスは声を出した。
追いかけてきたセレア姉さんもアイリスと同じことをしたいのか、ウズウズしている様子だ。
だが、姉としてのプライドがその欲求を抑えているように見えた。
「やあ、姉さん。アイリスと追いかけっこでもしてたの?」
「二人を探していたのよ。アイリスがどうしてもその子に会いたいって言ってたから」
「なるほど、ドラウが目当てね。それにしてもよく怖がらないね」
「どういうこと?」
疑問を投げかけてきた姉さんに、メイド達がしていた反応を伝えた。
「へぇ、彼女らはこの子を怖がってるのね。おかしいわね、私は可愛らしいと思うのだけれど」
ここまで見てきた反応からすると姉さん達の方がおかしいのだが、その言葉は呑み込んだ。
ドラウへ触れるのをためらっている姉さんと違い、アイリスは子犬のようにドラウにじゃれついている。
「みんなも姉さん達みたいだったら良かったんだけどね」
「そんなに怖がっているの?」
「そうなんだ。だから、親睦会でも開いたら良いんじゃないかってことになってね。どうかな?」
姉さんに意見を聞きつつ、ちらりとドラウの表情を窺う。
妹に身体を弄られているが、どうやら嫌がってはいないようだ。
だが、どういう反応をしたら良いのかわからないらしく、困り顔でこちらへ視線を向けてきた。
自分はそんな彼の頭を無言で撫でる。
「親睦会、良いんじゃないかしら。みんなが仲良くなるのが一番よ」
ニヤニヤするのを必死に堪えながら、姉さんは恐る恐るドラウの身体に触れる。
そんな中、ずっとされるがままだったドラウクロウが口を開いた。
「そろそろ、解放してくれないだろうか」
「あらっ、あなた喋ることができたのね」
撫でる手は止めず、姉さんは言葉を発したドラウに少し驚く。
そして、首元を一瞥して納得したように小さく頷いてから、自己紹介を始めた。
「はじめまして、私はセレア・ホレスレットよ。よろしくね」
「手は止めないのだな……まあいいが。我はドラウクロウだ。よろしく」
撫で続ける姉さんに、ドラウは苦笑いをこぼす。
だが、嫌がっている素振りはない。そのことに自分は安堵のため息をついた。
「ほらっ、アイリスも自己紹介をしなさい」
「もふもふ~」
姉さんの言葉が聞こえていないのか、妹はただドラウの身体に顔を埋め撫で回している。
「ハハハッ、しばらくは離れそうにないね」
アイリスはそうとうドラウクロウのことを気に入ってくれた様子だ。
当のドラウクロウはと言うと、なんとも言い難い表情を浮かべ、ただ身体を弄られていた。
第二話 ドラウクロウの過去
ここはネスティア王国にあるオルドレントの森。
その名は森の長である魔物の名前から付けられた。
長は巨大な木の魔物であり、エルダートレントという種族に属している。
千年以上の長い時を生きるトレントという種が力と知識を蓄え、より長い時を生きたものがエルダートレントになると言われている。
しかし、人間には知られていないが真実は別で、長い時を生き力をつけただけでは、トレント種から昇華できない。
本当にエルダートレントへ昇華できるのは、自身を守るための固有領域――森――を顕現させる力を得た時だ。
だが強大な力を得た代償か、その身体は森という固有領域から出ることができなくなった。
そんなエルダートレントが生み出した森に、一体の魔物が新たに入り込んだ。
(やはり人間は碌なのがいない)
新入りの魔物は内心でそう呟いた。
彼の名はドラウクロウ。
少し特殊な魔物である彼は、頭部に黒い二本の角を生やした、純白な体毛を持つ四足歩行の獣だ。
元々はここから離れた山の方で暮らしていたのだが、オルドレントの森へやって来た。
理由は至極単純で、彼を狩ろうとする人間から逃れるためである。
彼は珍しい魔物であるために、一つの場所に長居ができない。
新しい場所に引っ越しても、しばらくすれば目撃者から話が広まり、さらに少しの時が過ぎれば彼を探しに人間がやって来る。
数年前までは、ここまで彼を探し求める人間はいなかった。
ことの始まりは、人間にも契約魔法が扱えると判明したことである。
本来の契約魔法というのは、魔物と人間の間に絆が生まれた時、魔物側に目覚める魔法だ。
だが、人間にも使えるようになったことで、人間は魔物を奴隷のように認識し始めた。
もちろん、人間全員がそうというわけではないが、多くの者が魔物を下に見るようになってしまった。
(本当に人間は忌々しい存在だ)
ドラウクロウは歯を噛み締めながら、内心で呟いた。
人間は魔物と絆を結ばずとも、狙った魔物を使い魔にできる。
そのせいで、ドラウクロウはこのような状況に陥ったのだ。珍しい魔物であること、そして対峙してわかる強大な力。それを求めて多くの人々が彼を追いかけ回していた。
苛立ちながらも彼は木々の生い茂る森を進んでいく。そうして新たな場所での生活が始まった。
やはり避けられている。
ドラウクロウは周囲の気配からそう感じていた。
森で生活をするようになってから余り時が経っていないとはいえ、森の長――オルドレントへの挨拶は済ませている。
自身の境遇を説明し、この森で暮らす許可を得たのだが、以前暮らしていた所とあまり状況は変わらなかった。ひとつ前にいた場所でもドラウクロウを恐れる魔物が多く、肩身の狭い思いをしていた。
稀にこの森へ、冒険者という組織に加入している人間がやって来る。
その冒険者に襲われた魔物を助けたりはしているのだが、それでも状況はさほど変わりはしない。
(仕方のないことだ。気にしてもしょうがない)
ドラウクロウはそう考え、些細なことだからと諦めた。だが、その表情は少し悲しげだった。
そうして森での生活に慣れてきた頃、奇妙な人間と出会った。
歳のほどは二十代前半だろうか。性別は女性で、肩あたりで切り揃えられた綺麗な黒髪に、黒い瞳という珍しい容姿をしていた。
(また人間がやって来たのか! 忌々しい!)
人間を嫌っていたドラウクロウは出会い頭に彼女へと攻撃を仕掛けたが、これを呆気なく防がれてしまう。
その後も、木の幹すらも容易く切り裂く爪や、自慢の脚力からの突進、地の利を使っての攻撃を仕掛けるも、すべて半透明の障壁に阻まれた。
彼女はその間、ドラウクロウへ説得を試みていたが、彼は聞く耳を持たず、結局は力ずくで動きを封じられることとなった。
そんな出会いから始まった一人と一匹だったが、少し時が経った頃には気軽に会話できるまでになっていた。
彼女は自身のことを〝ナナシ〟と名乗った。
馴染みのない発音であり、人間が使うアドルリヒト語ではないとわかった。
彼女は自身のことをあまり語りたがらない。必ず決まった時間にオルドレントの森を訪れては、決まった時間に帰っていく。契約しようとすることもない。確かなのは、彼女がモンストルム語を理解し、そして話すということだった。
ドラウクロウもまたそんなナナシを気遣い、無用な詮索はしなかった。
彼女が語ることは、ドラウクロウにとって初めて聞く話ばかりで、新鮮な気持ちにさせてくれた。
そして彼女もまた、普段は口にしないような話をしてしまうくらいに、ドラウクロウに心を許すようになっていった。
仲が深まると、ナナシに懐いたドラウクロウが彼女に相談を持ちかけることもあった。
内容はナナシに太刀打ちできるくらい力を付けたいというもの。戦ったのは最初の一回のみだったが、ドラウクロウはその時の敗北をずっと気にしていたらしい。
その相談に乗ったナナシは、ドラウクロウと一緒に特訓に付き合うと口にした。
まずは普通に模擬戦から始まり、次にナナシが作った魔法の球をドラウクロウが咥えて取ってくるという脚力の強化。森に隠れたナナシをドラウクロウが探す索敵の練習。ナナシが魔法で操るロープを引っ張って、顎の力を鍛える特訓。
その他にも様々な特訓を行う日々が続いた。
こんな時間がいつまでも続けば……。月並みな言葉だが、ドラウクロウはそう願うようになっていた。
しかし、時の流れは残酷だ。平穏な時間は長く続くことはなかった。
ナナシが森に滞在する時間が縮まり、森へ来るのが何日か置きになり、そしてやがてオルドレントの森へ来ることはなくなった。
それならば、今度はこちらからナナシの住んでいる場所へ行ってみよう。
ドラウクロウはそう考えると森を出て、以前彼女から聞いた情報を頼りに人里を探した。
やがて、ナナシが住んでいるだろう街へと辿り着いたのだが……。
そこで目にしたのは、城壁や建物が崩れ落ちた街の様子だった。
※ ※ ※
ホレスレット家の一室で目を覚ましたドラウクロウは、ボソリと呟いた。
「懐かしい夢だ……」
ちなみに結局、ナナシは無事だった。
辿り着いた街で、彼女は街の復興に携わっていたのだ。ドラウクロウとも無事に街で再会している。
街が荒れていたのは、後々まで語り継がれる災害によるものであった。
その後もナナシはオルドレントの森へ通ったが、寄る年波には勝てず七十歳を過ぎた辺りで息を引き取った。
昔を懐かしむような表情を浮かべた後、ドラウクロウはのそりと立ち上がる。
彼の首には魔物が扱う言語――モンストルム語をアドルリヒト語へ翻訳する首輪型の魔導具がはめられていた。今はただ石を首輪にしたものではなく、見栄えの良いものに取り替えられている。その魔導具によって、彼は人と言葉を交わすことができている。
かつてはナナシのように、モンストルム語を理解できる人間もいた。
しかし今では姿を消し、彼が人間と話したのは久方ぶりのことであった。
(今日は親睦会とやらを行うのだったな)
彼がアドルリヒト語を話せるようになってから、約一週間が経過している。
未だホレスレット家で働いている使用人達との仲は、あまり進展していない。
この親睦会で怖がられることがなくなれば良いのだが……。そう考えているとドアがノックされ一人の少年が入ってきた。
「おはよう、ドラウ。調子はどうかな」
声を掛けてきたのはこの家の次男、ユータ・ホレスレット。優しい印象の目がナナシに似ていて、どことなく懐かしさを感じさせる。
そんな彼にドラウクロウは「問題ない」と返した。
「それじゃあ、今日の衣装から決めていこうか」
「ああ、よろしく頼む」
二人は部屋を出ると、準備のため二階へと足を進めた。
(ここには自分を襲って来る者はいない。当時の彼女より仲良くなるのは簡単だ)
彼はかつて自分を力任せに説得して親交を深めてきたナナシの姿を思い浮かべ、意気込むように内心でそう呟いた。
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