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少年A
しおりを挟む――平成十六年十二月――
十二月も中ばを過ぎ、街が絢爛となる頃。天久探偵事務所にとある有名人が訪れる。この時それが後の厄難をもたらす口火になろうとは鏡子さん、まして私には推知のよしもなかった。
店を早めに閉めて家に帰りついた私は食事の仕度をしようとキッチンに立っていた。鏡子さんはソファーで脚をパタパタさせて「まだ結婚指輪をもらっていないから是非ともサンタに頼まなくてはっ」等とらしくない要求をしている。
店を閉めてさっさと帰ってこいと言われた理由がお腹がすいたからというのも随分な話しだけど、待ちきれないからって指輪のおねだりですか、鏡子さんっ。いやしかし献立を何にしようかと聞いてもサンタを連発するあたりは本気なのだろうか、それはそれで困るぞ財務省的に。
でもまぁなんとかなるかな、不思議とお店も暇なわりには黒字だし、夏稀さんの残した貯金も手をつけないで過ごせている。一度本気で何故なのだろうと悩んだけど、答えは簡単だった。あまり買い物もしないしお金を使って遊ぶという事をしないもの私達って。暇な時はたいがい寝ているし。
鏡子さんが言うには細胞が再生される回数は限られているから無駄に動かない方がいいらしい。まぁサボる為の言い訳だ、しかし言われた時にあぁそうかと納得した自分を思い出すと悲しくなる。
「なあ、サンタの赤は血の色らしいぞ。自らの身体や命を投げ打ち、血が流れようとも信者たちの幸福のために尽くすのがサンタなんだってよぉ~」
か、買ってあげようかと思っていた時に何を突然ホラーな事言い出すんだぁこの人はぁっ。なにか草食動物のような気分になった私に鏡子さんは本当はコカコーラの宣伝で赤になったらしいぞ、と笑い転げている。ったく、どこまでが本気なのか分からないな。
私はやれやれという感じで食事の準備を進めた。今夜は一段と冷え込んでいるしキムチ鍋にする事にしよう。奴代ちゃんもカラムチップが好きな位だから多少の辛さは大丈夫だろうと出来上がったキムチ鍋をソファーのあるテーブルまで運ぶ。カセットコンロにかけておけば具材を足しても熱々で食べられるし。
日付が変わる頃、三人でテーブルを囲み箸を競いあっていると扉をノックする音が響く。深夜の来客を不審に思いながらゆっくりとドアを開けると、そこには私と年端も違わない程の男性が立っていた。
あからさまに思い詰めたような雰囲気を纏う来客者……おそるおそる応対する私に、その男性は突然助けを乞うじてきた。怯えるように震えながら、自分は殺されてしまうと訴えている。
聞こえていたようで、オロオロする私の背中から、寒いからとりあえず入ってもらいなと鏡子さんの声がした。それはいつも通りの口調だ。だけど鏡子さんの気配がピンッと張りつめるのを感じた。ただならぬ男性の雰囲気に気持ちを切り替えたみたいだ。
「はふっはふッんぐ。少年、ひみも食べるかぁ? ひむひなべ……はふっ」
まったく……気持ちを返して欲しくなってくる。真面目とか危機感とか、きっとこの人は子宮に忘れてきたのだと思う。それともキムチ鍋が熱すぎたのかな?
寒さのせいか、男性はひどく震えている。と、鏡子さんが景気ヅケだと熱燗を注ぎ、男性に差し出した。御猪口を口元に運びながらも『犯罪の荷担はしないし、チンピラのイザコザにも興味はないっ』と男性を見据え釘を刺している。しかしその時男性の口から出た言葉に、私は恐怖を覚えた。
「僕は昔、少年Aと呼ばれていました」
目の前に六年前少年法を改正させるほどに、世間を驚愕させた猟奇殺人の犯人が居る。篝さんの時とは違うリアルな温度が背筋を凍てつかせた。
その雰囲気を斬るよう唐突に「自分は犯人ではないっ」と男性が声を荒げるけど、彼は当時一ヶ月近くに渡って連日テレビで報道された紛れもない犯人だ。未成年が故実刑になっていないとしてもそれは揺るがないはず……しかし鏡子さんは至極当たり前のように彼の言葉をあっさり肯定した。
続いた話しだと確かに無理というか、この男性に犯行は不可能だ。複数の大人による犯行なら可能だけど、当時中学二年生だったこの男性が単独で犯行したというのは物理的にありえない。
鏡子さんはグラスに注いだウイスキーを軽く喉に流すと、今までとは違う表情で男性を見据え「で、冤罪を晴らしたいのか?」と問いかける……男性は喉を鳴らしながらコクリと頷いた。
そしてそこから始まった鏡子さんと男性の会話、それはまるで突飛な事ばかりだった。
「どんな理由なのかは知らないが、ゼロ。四係にマークされているであろう君が公表しても、揉み消されるだけだろう」
「僕がマークされているのは、日本側にじゃないんですっ」
「何ぃでも、それなら日本の公安とかには頼れないのか」
「ダメです外交問題になるでしょう」
「わっ、きゃ! 熱っつっ」
映画のワンシーンの様な異次元な二人の会話に茫然としていた私は、カセットコンロを切るのをすっかり忘れてしまっていて、慌てて鍋蓋を取ろうとした時に手に熱湯がかかってしまった。手を押さえてぴょんぴょんと跳ねていると、奴代ちゃんが手を取り霊気を注いで冷やしてくれた。
いやぁ~芯まで冷えきるわぁ……ん、ふと視線を感じると、男性が驚いた表情で私達を見据えている。あぁ、驚くよねそりゃ。
まったくと呆れた表情をした鏡子さんがクスッと微笑むと、ソファーから立ち上がりそのような依頼はお門違いだと男性に言い放ち退室を促した。だよね、刑事事件みたいな問題なんて私達が関わっていい事じゃないもの。
しかし鏡子さんが煙草に火を灯そうとするのを遮るように、男性は尚更お願いしたいと嘆願を投げる。そしてその時、男性の口から出た “ カオダボ ” という名前に突如鏡子さんの表情が変わった。
鏡子さんが持っていたグラスを砕け散らした。一体カオダボって何の事なんだろう……煙草を揺らしてソファーに深く座り直した鏡子さんが一緒に死んでみるかと私を見て微笑む。
カオダボというのは余程の相手なのだろうか、しかしこの後の男性の話しでその問題の大きさは容易に想像ができるほど危険な事だった。
男性の話しによると、男性の父は当時海軍最強のミサイルを作ってしまったらしい。男性はその技術を欲するロスチャイルズの組織に誘拐され、国や技術者への脅しのひとつとしてキシボシン事件をでっち上げられた。その組織の拠点になっているのが、カオダボ教だという事だ。
「私も気に入らないさ、カオダボは……だがなっ」
鏡子さんが突如ソファーの隙間から黒く光るモノを取り出しその先端を男性に向ける。鋭利に澄み尖らせた鏡子さんを捉えた男性は退け反った眼を一層に開き、言葉を詰まらせてたじろいだ。
け、拳銃なんて鏡子さん……いつのまにそんな所……え、えっ、夏稀さ?
「で、君はこの話をしに偶然夜中に通りかかった場末の探偵事務所に電気が灯っていただけで訪問し、今の話を私達女性三人に聞かせたのか? あまりにも甘すぎるぞ少年っ」
鏡子さんの親指が撃鉄を引き、男性の額にその先端を近づける。あぁ……でも確かに鏡子さんの言う通りだ。この一連はあまりにも不自然だ。私が迂闊なのだろうけど、どんな情況でも冷静に判断が出来る鏡子さんの才にはいつも感服させられる。
その硬直した空気に怯えながらも男性は、自分は何かを企んでいるわけではなく、トゥハンドレッドアルファというクラブのメンバーから鏡子さんを紹介されたのだと額の銃口を見つめながら語った。と、クスリと微笑んだ鏡子さんの人指し指が動き、次の瞬間部屋に銃声が響き渡ったっ……思わず瞑ってしまった眼をおそるおそる開けると、銃声と共に飛び散ったのはどうやら男性の鮮血ではなく七色のリボンだったようだ。溜め息と同時に肩の力が抜ける。まったく寿命が縮むとはこの事だ。しかし鏡子さんの澄み尖らせたあの気配は、誰一人としてその拳銃が偽物とは思ってもいなかっただろう。
疑心が解けたのか鏡子さんは男性の依頼を受ける事にしたようだ。男性の名前は川崎トモキ、明日の朝一番で川崎を連れて出掛けるからと鏡子さんはオモチャの拳銃をくるくる回しながら話す。
なんだろう……拳銃を構えていた時の鏡子さんが夏稀さんと重なって見えた。似ているから見間違えたとかじゃなくて、並んだ二人が重なってぼやけたような。と、何を思ったのか鏡子さんは突然私の肩を抱くと手を胸元に滑らしながら耳元で「久々に……な」と囁いた。この人はこんな時によくもまぁ……まったくっ、
リビングに使っている事務所の灯りを消し私達三人は川崎を残し寝室に入る。川崎には物の位置は全て記憶しているからと鏡子さんが一応の釘を刺したようだ。寝室は私と鏡子さんでひとつ。奴代ちゃんの使う個室がひとつだ。就寝の前に話しがあるからと、鏡子さんが奴代ちゃんを私達の寝室に呼んだ。
鏡子さんの話しによると、どうやら私達が明日向かう先は奴代ちゃんに関わりが深い場所らしい。それにあたって鏡子さんは奴代ちゃんの心境が気掛かりだったようだ。頷く奴代ちゃんに鏡子さんはすまないと奴代ちゃんを抱き締める。この二人には私とは違う絆があるのだろう。
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