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炎の女神
しおりを挟む雑居ビルの四階、黒地に白抜きで篝と書かれた看板、朱く統一された店内。平日の深夜という事もあって聴こえるのは天久と鏡子の声だけだ。音量を控え目にしたジャズと氷の音だけが響く店内で、何で人を殺したらダメなんだと思うとカウンターの中に立つ天久に哲学的とも取れる質問を投げていた。ウイスキーは既に五杯目だ、お酒が進んだ時の鏡子の話はいつもこんな感じになる。
きょとんとする天久に鏡子はクスリと微笑み、理由は種の保存の本能だと言った。 殺人者ってヤツは本能が欠落しているんだと。確かに人間同士が果てなく殺しあったら人類は絶滅するだろう。天久は少し首を傾げながらも、あぁそうかと鏡子の話しに納得した。
こんな時間をゆっくり過ごせるって事はきっと幸せってヤツなのだろう。天久はそう思いながら拭きあげたグラスを棚に並べ今夜は帰りましょうと鏡子に促した。
――平成十七年二月――
冬の深夜。午前一時も回ろうとする頃、隣県に住む依頼主からの仕事を片付け、家路へと車を走らせる鏡子を朱い照明と制服の男性が制止した。どうやら検問のようだ。
深夜、しかも県境の山中での検問。飲酒の検問ではないのは明らかだ、何か事件的な事でもあったのだろうか。この先も安全運転でお願いしますと、制服の男性は至極丁寧にお辞儀をした後、鏡子の車を誘導して走行を促す。業務的制限なのだろう、制服の男性は鏡子の質問事には触れなかった。
車内では普段天久や奴代にゲンナリされながらも落語全集とか厳選ホラーナイトとかばかりを聴いている鏡子だが、検問の情報がないかと、チューナーのチャンネルを合わせラジオをかける。すると、どうやら民家に侵入して住人に危害を加えた容疑者がこの近辺で逃亡しているようだ、先程の検問はこのせいなのだろう。
続いた情報によると被害者は意識不明の重体らしい。鏡子は舌打ちをして眉をしかめた。意識不明の重体との報道は死亡とほとんど同意なのだ、罪も恨みもない相手を己の金欲しさの為に殺害する。その報道に鏡子はこんな世界など価値があるのかと奥歯を鳴らした。
峠を照らすヘッドライトを頼りに鏡子は家路へ車を走らせる。同じ道でも冬の峠はまた独特の雰囲気だ。何というか夏の峠道が霊界への道ならば、冬の峠道はまるで異世界へ通じているように感じる様相だ。
すると、突然ルームミラーに入った照明が運転する鏡子に片目を閉じさせた。後続車がアップ目でスピードを上げ、抜きにかかって来ている。ここは峠の片側一車線、制限速度は四十キロだ。おそらく後続車は百キロ近くは出しているだろう。
山頂に近いここの峠道は、そんな速度では対向車やカーブをヘッドライトだけの予測で対処が間に合うような場所ではない。が、お構い無しと言わんばかりに、その車は鏡子の先頭に車線を変え、更にスピードを上げている。
鏡子がヤバいとアクセルを弛め距離を空けた瞬間、先行のテールライトが残像する右カーブの先で激しい激突音が冬の峠に響きわたった。
路肩に寄せた車を降りて、鏡子がそこに近寄るよりも先に数台のパトカーが脇を抜き去り駆け付ける。それにしてもタイミングが早すぎる。もしかすると、さっきの検問を突破でもしたヤツなのだろうか。しかし、あの様子じゃ即死だろうと鏡子は溜め息をついた。
事故現場は複数の警官がすでに手をかけている。鏡子は既に役目が無い事を知ると、自分の車に戻りキーを回してエンジンを掛けた。早々に脇に車を寄せてしまっていた鏡子の車は、前方に数台の車が先行する中を警官の誘導で徐行しながらやっとその現場を抜ける。
静粛な峠道をスピードメーターが動き始めた頃、鏡子の視界に異質が飛び込んできた。
ひとつ前の車のリアシートに座る人影の横顔がグシャリと潰れている。今事故を起こしたヤツなのだろう、その異質な男性は潰れた顔を捻らせニヤニヤと笑っていた。
鏡子は直感的に眉間を尖らす、その男性は強盗殺人の犯人、人殺しだと。鏡子は帰宅も他所に前の車を追いかけた。マズい気がしたのだ、幽霊への成り方が。
三十分ほど車を走らせて繁華街から程近い所の信号で鏡子の車は止まった。三台前に例の異質な男性を乗せた車がいる。
男性が信号で停車していた車から外に降りフラフラと繁華街に向かって歩き始めた。人々の喧騒と華美な灯りに惹かれたのだろう、まるで蟲の様だ。
追うよう鏡子も車から降り路地に走り出たが、男性の姿は既に見えなくなっていた。だが鏡子にはメボシがついていたのだ。男性がどこに向かって歩くかを。
この繁華街は北から南に向け二つの街道に派手なポールライトが何本も並び立っている。まるで灯籠流しの様に霊道になってしまっているのだ。外から来た霊は脇に反れることが出来ず、ここを真っ直ぐ通る事しか出来ない。鬼門や裏鬼門の方向に逃げたくても霊道に遮られて逃げられないのだ。鏡子の読み通り、男性は左に寄りながら南へと進んでいた。
甘いな、とは思ったものの鏡子は隠し世が見えるが故、解決する事が出来るだけで、霊を祓ったりするような力はないのだ。霊というのは磁石みたいなものだ。悪い思考、マイナス思考には悪い霊が憑く。良い思考を持つ者や、ポテンシャルの高い人間に悪い霊がリンクするという事はありえないのだ。人殺し。いわゆる人間としての本能が欠落している。リンクする人間なんてそうはいないが、どうやって魂を抹消してやろうかと、鏡子は思量を巡らせていた。
その時思いもよらない人物が鏡子を愕然と駆け出させた。約五メートル前方から歩いて来た若い女性、常軌を逸する程に痩せ痩けている。深夜である事と外出している事を考えれば病に侵されている訳ではないだろう。
まさに本能の欠落、拒食症だ。
鏡子が駆け寄りながら手を伸ばし、女性の腕を引くまで少しという所で、男性はニヤリと笑い女性の身体に溶けていった。遅かった……即座に女性の身体が細かく痙攣しだす。鏡子は慌てて女性を抱き抑えるが、とても拒食症とは思えない腕力で今にも振り払われそうだ。ここから近くには天久の店がある。鏡子は振り払わされそうになりながらも、女性を引きずるように歩き始めた。篝に引き連れても解決する訳ではないが、奴代に連絡が取れれば、動きだけは止めていられる。その間に抹消する方法を見つければいい。そう考えながら鏡子は何度も振り払われかけながらも、その女性を連れ込んだ。
平日の深夜三時、鏡子は女性を引きずりながら篝の扉を引き天久に奴代に連絡をと叫んだが、そこで鏡子は一時の安堵に油断したのだろう。暴れ続ける女性が鏡子の腕を振り払い、突き飛ばしたのだ。鏡子から解放された女性は、カウンターに置いてあった日本酒の瓶を手に取り床に倒れた鏡子の頭上に振りかざした。
駄目だ、タイミングが悪すぎるっ
鏡子が目を瞑った瞬間、突如絶叫が響き渡った。そこには烈火に包まれる女性の姿があった。しかしかといって髪や衣服が燃えているような気配はない、まるで女性の中の異質だけを焼き尽くしているようだ。
凄まじい熱風が店内を駆けると、女性は獄死の雄叫びを上げて倒れこんだ。唖然とその光景を魅る鏡子の耳に微笑する声が聞こえた。しかし違うのだ、まるで気配が天久とは。
朱い薄明かりの下、カウンターの中の天久はまるで別人のような顔を鏡子に見せた。銀色に髪が靡き、眼の周りが朱く縁取られている。それはまるで狐の面のようだ。そして高みからの傍観者のように鏡子を見てニヤリと微笑んだ。
「千年の眠りについていたとはいえ、下等な霊ごときにその醜態は何だぁ。まだ寝惚けているのか? 東の鬼神が聞いて呆れるなぁ。えぇ……立烏帽子神女っ」
凄まじい熱風に意識が薄れたのだろう。一度はカウンターに掴まり立ち上がった鏡子だったが、全てを喪失したようにその場で気を失い、がくりと床に膝をついた。
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