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空への面会
しおりを挟む千代田区にある二階建ての建造物。外観は随分と古めかしいが、そこは皇居の敷地内にある病院だ。いわゆる皇室専門の病院。一般人がおいそれとくぐる事など許されない場所に一般人を代表するような男性が一人、妻を願い院内の廊下でソファーに座っていた。とうに産声は聞いたのだが、今もまだ腰を上げていない男性。出産の無事と産まれた子の性別を看護士から聞かされたのは三日も前になる。
数日間のほとんどをソファーで過ごしてしまった男性は眼を随分と赤くしながらパソコンから眼を逸らす事なくその場に囚われていたようだ。大きな喜悦の後、どうやら姓名判断サイトのウンチクに悩んでいたらしい。普通ならば出産を終えた彼女と寄り添い二人で我が子を愛でながら考えればいいのだが、皇室の病院のせいか母体に体力が戻るまでは医療者以外は夫といえど面会を許してはもらえなかったのだ。
面会の許可が降りるまで帰宅しても問題は無いし無理はするなと彼女の父親に肩を撫でられたが、喜悦の矛先をパソコンに向けた事ですっかり男性は時間を忘れてしまったようだ。忘却の時間のまま暗夜を迎え、すっかり院内に人の気配も疎らになった頃、パソコンの画面が一番目立つほど最低限に落とされた照明の中でふと廊下の奥から向かってくる聞き覚えのある声に男性は意識を動かした。
「神弥宮様、それはあまりにも」
「何だ波岡、貴様は人身御供でしかないのだぞ。意見など聞いておらぬわ。まぁ心配するな、柏木は直宮家ではないのだから」
ソファーに座る男性はパソコンから顔を上げぬまま耳を向けていた。二人の男性が通りすぎた後、何かを疑心したのか首をもたげ頬に軽く爪を掻く。
「……まぁ、いいか」
そう呟いた男性は元々のズボラさと極限の眠気にパソコンの画面を閉じて腕を組むと、そのまま一時の深い眠りについた。
「亀山さん……亀山さんっ」
亀山が産声を聞いてから四日目の朝、白衣を羽織った女性がソファーで放置されたぬいぐるみのように項垂れ微睡む肩を揺すり起こした。亀山は四日も蓄えてしまった髭に付いた唾液を袖でなぞり拭くと、何か申し訳なさそうに女性に何度も頭を下げる。微睡む思考のままとりあえず謝ってみたという亀山の雰囲気に白衣の女性は微笑を指先に隠した。
「今朝面会の許可が出ましたよ、もうスミレさんも起床なさって朝食も済ませていますから顔を見せてあげてください。お父さんっ」
その言葉を残し、もう一度亀山の肩を撫でると白衣の女性はつま先を廊下へと向けた。眼鏡を外し眉間をなぞる亀山。すぐにでも病室のドアに向かうはずなのだが、何故かソファーに座ったままで躊躇している。きっと再会時の一語一句を考えているのだろう。思考の最中の照れなのか、しばらくの時間を亀山は頭を抱えながらその場で地団駄を踏んでいた。
まったく想像力でいっぱいなのだ。狂人と詩人と、恋をしている者は――シェイクスピア――
「あぁっ、もうっ」
何かやけくそ気味にソファーから膝を上げる亀山。廊下を歩き一つの角を曲がるとすぐにスミレの待つ病室がある。ドアハンドルに手を掛け、折り曲げた中指で扉を二度響かせると聞き慣れた声で言承が返ってきた。優しい声調に亀山は俯きながらも安堵に口元を弛ませる。そして一拍の呼吸を整えるとようやくその扉を横に滑らせた。
「よ……ようっ、おはよう」
それまで散々思考した言葉は開けた扉と一緒に滑って落ちてしまったようだ。緊張から関節が半分位に減ったような亀山の様子にスミレはすぐさま頬を弛ませられていた。
初めて亀山が脚を踏み入れた病室は、それを思わせないような暖かい雰囲気の造りだった。まるでホテルのスイートルーム、スミレと結婚する前に住んでいた亀山のアパートよりも広いだろう。ソファーで四日を過ごした亀山は御気の毒様という感じだ。
キョロキョロと部屋を見渡すと同時に、亀山はスミレと距離を近付けながら身体を捩らせて違和感を探す。そう、見当たらないのだ、まだ見ぬ自分達の子供が。
「あ、あれぇ……」
スミレのベッドの脇にたどり着いても今だ戸惑う亀山の手をそっと引き寄せてスミレが至極優しい笑顔を見せた。引き寄せた手を重ねて心配しないでと言ったスミレの説明だと、子供には何の心配もないのだが、様々な検査がある為に腕に抱けるのは明日になるらしい。さすが皇室という事なのだろう、万全過ぎる程にスミレも体力を回復しているのだが、母子揃って退院させてもらえるまでは後数日かかるようだ。
「ですから今夜は一度帰ってくださいね主様。といいますか少し匂いますわよ」
スミレの言葉に重ねていた手を慌てて離すと、亀山は手の汚れを落とそうとでも思ったのか自分のズボンで手の平を擦り出した。その様子に微笑みを残しながらもスミレは何か呆れ顔だ。と、何かを思い出したように擦っていた手を離しズボンのポケットから何やらくしゃくしゃのメモ紙を取り出すと、自慢気な表情を晒しながら亀山はそれをスミレに手渡した。不思議そうな顔でスミレが拡げたくしゃくしゃの紙には “ 命名 亜樹 ” とかかれてある。きっと亀山が四日の間廊下のソファーで必死に考えた物なのだろう。しかしそれを見たスミレはまたも呆れたようにため息をつく。
「あのぉ……主様、私達が子供に命名など出来るとお思いなのですか、」
「……ほへっ」
亀山は何とも大切な事を忘れていたようだ。しかしそれを認めたくないのだろう、スミレから目を逸らし窓から見える外の風景を遠い目をしながら眺めている。
亀山の耳に届いているかは不明だが、スミレの話しだと亀山の籍に入る事も皆の反対で至難を極めたようだ。例が見当たらない程の譲歩を既にもらっている立場としては勝手に命名するなどの交渉はもはや不可能らしい。
「ですから七日目に行う命名の儀には主様も正装で参列しなくてはなりません……主様、聞こえていますか?」
「えっと、か……帰って、一度帰って風呂入ってくるわ、俺」
亀山はそう言うと綿の抜けたぬいぐるみのように首をもたげスミレのベッドを背中にドアに向かって歩き始めた。病室を出ようとする背中にスミレはすぐさまベッドを飛び出すと、素足のままその背中を掴まえて腕を廻し頬を埋める。次第にスミレの頬からの雫が亀山の上着を濡らしていった。
「ありがとう……わかっていました、四日もの間ずっと近くに居てくださったこと。すごく心強くて暖かくて……私は幸せ者です」
その言葉に二人の緊張がとれたのだろう。病室の中は射し込む日差しにまして暖かくなっていった。
――翌日。
スミレの言葉に自宅へ戻った亀山は、部屋に入るなり帰宅途中で購入した缶ビールを喉に流し込むと、約束したシャワーを浴びる余力も引き出せないままベッドにドサリと身体を沈めた。上着をそのままにした寝苦しさにうなされながら亀山が意識を戻した時はもう十一時を回る頃だ。さすがに四日間の疲労が吹き出したのだろう。起こした身体をベッドに腰を掛けると眼を細めながら煙草に火を灯す。と、まるで潜水でもしていたかのように亀山はことさら大きな紫煙を床に向けて吐き出した。やがて細めていた眼に視界が戻った頃、揉み消しながら折れてしまう程の長さを残して亀山は紫煙を消した。スミレと約束していたのだ、子供が出来たら部屋で煙草を吸わない事を。
「まぁ、……仕方ないか」
レースを残したカーテンを大きく開け、亀山は我が子抱く喜びをほんの少しだけその言葉に残し、四日間の疲れをシャワーに流した。
皇居敷地でハザードをたき至極ゆっくりと停車する一台のタクシー。その後部座席の扉が開き、磨かれた革靴がそこに下りた。髭をすっかり無くしネクタイを締めた亀山だ。見違えるとはこの事だろう。緊張が既に覚悟に変わっていた亀山は、早々に病院の正面ドアへと向かった。
するとドアに向かう亀山の視界の先に黒いスーツの男性が十人程が見えた。まるでマフィアのような風貌の彼らは何やら慌ただしく動き、怒号を投げている。彼らの周辺で重なるように停車している五台の黒塗りの車。その先頭の一台に数人の男性が乗り込むと、タイヤを激しく鳴らし亀山の背中を通りすぎていった。
『伊丹……さん?』
そのかすかな横顔にしばし亀山は立ち尽くしたが、その思いは先までの感情にあっさり掻き消されたようだ。亀山は頬をほんのりと温めながらスミレの待つ部屋へ向かって廊下を進んだ。
ずいぶんと世話になった淡い水色のソファーを通りすぎて一つ角を曲がるとスミレの病室だ。しかしその角を曲がった時、亀山は視界に入った光景に頬の熱を奪われ、抱えていたノートパソコンを廊下の床に砕かせた。
『えっ……なっ……んっ』
亀山の目の前に現れたのは昨日自分が手をかけた横開きの扉ではなかった。外から破壊されたように病室に折れ倒れている扉、スミレが背をもたれ微笑んでいたベッドは病室中央ほどに斜めに鎮座し、引きちぎられたレースカーテンが空を大きく映している。その床ではスミレの父親が膝を落とし首をもたげていた。まるで青く高い空に吸い込まれてしまったようにスミレはその姿を消していた。
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