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降り出した雨
しおりを挟むさらさらとレースが窓に踊る。少し開いた隙間から冷たい風が頬を撫でた。雲が灰色を増しきった頃、春の風が降りだした雨の冷たさを部屋に運んだようだ。
乱れた髪を束ねてゆっくり上体をシーツから離す。残した指先の温もりに視線を向けると、微睡んでいる鏡子さんの寝顔があった。
情事の余韻で心地よい目覚めのはずだったのだけど、鏡子さんはまるで轢かれた蛙のような寝相で領地を侵略していた。照れを隠すように伸ばした私の指先が躊躇する。危なかった、眠っている鏡子さんの頬をつねるなんて自殺行為だ。悶えながら天井に向けて腕を伸ばすと身体が整えを戻そうと音を立てる……まったく、男性ホルモン出過ぎだよ鏡子さん。
――昨日の事。カウンターの中でグラスを拭き上げていると、店内のプライベート階段を降りて来た鏡子さんが今から依頼が入っていたペットの捜索に出掛けるのだがと手招きをする。車の鍵を人差し指でクルクル回す姿に、有無も無く拉致される事になった。
どうせ犬や猫を探すのが面倒くさいから私に探させるのだろうと、鏡子さんの隣でサイドウィンドウに流れる街並をぼうっと眺めていた時、何かが胸の中で暴れたような感覚に襲われた……吐き気がする、明日の昼から雨って言っていたからな。
ふてくされているとでも思ったのだろう、鏡子さんは一時の沈黙からえらく明るい声で「居場所は分かっているから捕まえるだけだ」と笑顔を向けた。仕事を口実にしたデートなのかな、鏡子さんって素直じゃないしね。
「なにせ暴れん坊なヤツだからなっ、ロープで括った罠の中に入ってくれたはいいが、首輪を付けるまでが大変なんだ。だから優ぅがヤツに追われている隙をついて私が首輪を付ける。な、いいアイディアだろ」
なんでもクリスマスのイベント用に飼育していたトナカイが逃げ出したから捕まえて欲しいという依頼だったらしい。それを捕まえる為にロープで囲われた敷地内を走り回ってオトリになれという事だ……なんというか一回死んでくれないかしらこの人。
家を出てから一時間程。それまで随分と山間の道路を走り続け、舗装された道を逸れた場所で鏡子さんはエンジンを切った。幾重にも張られたロープが見えている。あの沈黙は逃げられないように時間を計算してたのですか鏡子さんっ、
「大丈夫さ、これですぐ捕まえてやるから。ほら」
首輪の付いた鎖を得意気に振り回してロープをくぐると、直後に青暗い闇の奥から何か大きな気配が近づいてきた。どうやら私が中に入るより先にトナカイは自分のテリトリーに侵入した鏡子さんを見つけてしまったようだ。暮れ始めている山中の闇にそれは怪物のように映っていた。
鏡子さんは確かに計り知れない人だ、しかも鏡子さんの中には夏稀さんが存在している。だからと言って生身の鏡子さんはただの女性なのだからあんな怪物に素手で敵う訳がないと急いで車のトランクに手をかけ “ 朱い柄巻きの刃 ” を取り出そうとした時、青い闇にけたたましい唸りが響きわたった。
現実離れとはこの事だろう。鏡子さんは突進してきた怪物の鼻先を飛び越え、角を両脇に掴むと、怪物の頭上に何度も膝と踵を落としていた。繰り返されるそれによろけ出した怪物の頭上で、体操選手のように身体を半回させて加速をつけると、トドメと言わないばかりに右脚のヒールを怪物の頭上に突き刺した。
呆然とする私を急かすように、鏡子さんはヒールを履き直して手招きをしている。胸を撫でた私はため息と同時に安心はしたけど……人間がトナカイの上で暴れるシーンなんてハリウッド映画でも見た事ないよ、はぁ。
闇夜になる頃にようやく事が終わり鏡子さんの車にエンジンがかかる。トナカイに首輪を付けていた時「死んじゃったの?」と聞いた私に鏡子さんは気絶しているだけだから大丈夫だと言った。そりゃそうか、殺してしまっては下手すると報酬どころか賠償金だもの。
帰路の道中、鏡子さんは冷めきらない熱にやたらとテンションが高い。なにか不安な疑心は案の定ベッドの上で的中してしまった。
鏡子さん曰く、デートというのはベッドまでのポテンシャルを上げる行為らしい。「な、上がっただろ?」と言われた言葉に頬が熱くなる……もうっ。
――「鏡子さん、珈琲入りましたよ」
時刻が昼の二時を回る頃、今だベッドに居る蛙さんに珈琲を運ぶ。脇に座った私は今朝からの不快な吐き気に涙を潤ませていた。「なんだぁ優ぅ、妊娠でもしたのかぁ」……まったくこの人はぁ、やっぱりさっき頬をつねっておけばよかった。
呆れてベッドから腰を上げようとした時、一階の店舗から私達を呼ぶ男性の声が響いた……そう、後で知らされる “ それ ” が吐き気の原因だった。
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