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第1話 六畳の冬
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第1話 六畳の冬
冬の朝は、息をするだけで胸の内側がきゅっと縮む。
六畳の和室。
六畳の台所。
それが、この家のすべてだ。
天井は低く、窓は細く、
外から入ってくる光はいつも薄い。
畳の匂いは、最初に住んだころの青さなんて欠片もなく、
年月の重みと湿気が混ざり合った、
“古い家の匂い”がする。
「……寒いね」
わたしは自分に言った。
誰に聞かせるわけでもなく、
胸の中に溜まった言葉が勝手に漏れただけだった。
床に足を降ろすと、
ひんやりした冷たさが身体を貫く。
まるで氷の板の上に立っているみたいに、
足の裏からじわじわと冷えが侵入してくる。
キッチンへ向かい、蛇口をひねった。
――キュッ。
金属がこすれる乾いた音。
そして勢いよく飛び出した水は、
冬の刃物のように指先を叩いた。
「っつ……冷たい……」
思わず声が漏れた。
湯沸かし器はもうとっくに壊れている。
修理の依頼をしても、
「確認します」で止まったまま、
二年以上動きがない。
冷たい水で皿を洗う。
手はすぐ赤くなって、感覚が薄れていく。
その痛みすら、この冬の“日常”の一部になっていた。
◆ ◆ ◆
朝ごはんの支度を終えて、
部屋に戻ると、畳の冷えた匂いがまた鼻に刺さった。
築年数は……聞きたくなかった。
もしかしたら、わたしより年上かもしれない。
「十三年か……」
ぽつりと呟く。
この家に来てから、もう十三年が過ぎた。
“たまたまの一時しのぎ”で入ったはずだった。
でも、気がつくと、この狭い生活が日常になっていた。
良いことも悪いことも、
全部この六畳の中に積み重なっていった。
ふと、ポストに届いた封筒が目に映った。
「……またこの季節か」
白い長方形の封筒。
開ける前から分かる。
更新料だ。
わたしは台所の机の上に封筒を置き、
深呼吸して紙を開いた。
――更新料 103,000円。
「ひー……」
静かな声が漏れた。
大声なんか出ない。
この家では、どんな現実も“静か”に落ちてくる。
六万五千円の家賃。
二年に一度の十万三千円。
そして、十三年。
計算してはいけない、と思った。
数字にしてしまったら、
自分が何にどれだけの時間と力を払ってきたか、
突きつけられる気がした。
でも、その日はなぜか手が動き、
電卓を叩いてしまった。
六万五千円×十二ヶ月×十三年=1,014万円。
そこに更新料。
細かい修繕費や、ずっと直らない部分を我慢し続けた“代償”。
「一千万円……」
数字を見た瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。
「なんで……なんで、こんな家に……」
呟きながらも、
その問いは誰にも向けられていなかった。
だって、わたしは知っている。
誰のせいでもない。
誰も助けてくれない家で生きてきたのは、
わたし自身なのだ。
◆ ◆ ◆
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
仕事帰りの娘、美咲だ。
もう28歳。
でも、家に帰ってきたときの声は、
不思議とあの日のまま。
「おかえり」
わたしは更新料の紙を慌てて隠した。
美咲に余計な心配をさせたくなかった。
「今日、すっごい寒くない?」
「寒いよ。床が特にね。氷みたい」
美咲は靴を脱ぎながら、
六畳の和室に入った瞬間、顔をしかめた。
「……うわ、この匂い……畳、また湿ってる?」
「朝、ちょっと冷えてたからね」
クーラー水漏れ事件以来、
畳はどれだけ換気しても“完全には乾かない”。
そのせいで冬になると、
湿気と古さが混ざった匂いが部屋いっぱいに広がる。
「ママ、さすがにこれ……変えるよう言おうよ」
「言ってるよ。でもね……」
「また“大家さんに確認します”?」
「そう」
二人で同時にため息をついた。
◆ ◆ ◆
夜、夕飯を食べ終わり、
美咲がテレビを見ている横で、
わたしは再び更新料の封筒を開いた。
「ママ、それ……?」
「うん。更新料がね……」
「いくら?」
聞かれた瞬間、胸が少し痛んだ。
それでも、嘘はつきたくなかった。
「十万三千円」
「……まじか」
美咲の声は、小さな吐息のようだった。
「六畳と六畳で? ベランダもないのに?
湯沸かし器も壊れたままなのに?
あの腐った畳と、まっちゃ色の天井のままなのに?」
一気に言う美咲に、
わたしは笑ってしまった。
「全部言ったら、ほんとに“ひー”ってなるでしょ?」
「いや……笑えない……」
美咲は顔を覆い、
少し黙った後、ぽつりと言った。
「ママ。……こんな家に一千万払ってきたんだね」
「あはは……考えないようにしてたのよ?」
「……ママ、すごいよ」
その声は、
優しさと、悔しさと、
誇りと、涙の気配が入り混じっていた。
わたしは美咲の頭をそっと撫でた。
「ありがとう。でもね、美咲」
「なに?」
「家賃を払ってきたのは……
生きる場所を諦めなかった証だよ」
美咲は目を丸くした。
「ママ……」
「だって、ここがどんな家でも。
わたしたちは、ここで“生きてきた”でしょ?」
美咲は、ゆっくりとうなずいた。
あの日あの時、
どんなに狭くても、寒くても、匂いがしても、
この六畳と六畳は、
確かにわたしたちの“家”だったのだ。
◆ ◆ ◆
そして、わたしはそっと更新料の封筒を閉じた。
「……美咲。次の十三年は、ここじゃなくてもいいよね」
美咲は少し驚いた顔をしたあと、
優しく笑った。
「うん。次は、“陽の当たる家”にしよ」
その言葉に胸が温かくなった。
六畳の冬は、確かに寒い。
でも、
こうして二人で言葉を交わした瞬間だけ、
少しだけ春が近づいてきた気がした。
冬の朝は、息をするだけで胸の内側がきゅっと縮む。
六畳の和室。
六畳の台所。
それが、この家のすべてだ。
天井は低く、窓は細く、
外から入ってくる光はいつも薄い。
畳の匂いは、最初に住んだころの青さなんて欠片もなく、
年月の重みと湿気が混ざり合った、
“古い家の匂い”がする。
「……寒いね」
わたしは自分に言った。
誰に聞かせるわけでもなく、
胸の中に溜まった言葉が勝手に漏れただけだった。
床に足を降ろすと、
ひんやりした冷たさが身体を貫く。
まるで氷の板の上に立っているみたいに、
足の裏からじわじわと冷えが侵入してくる。
キッチンへ向かい、蛇口をひねった。
――キュッ。
金属がこすれる乾いた音。
そして勢いよく飛び出した水は、
冬の刃物のように指先を叩いた。
「っつ……冷たい……」
思わず声が漏れた。
湯沸かし器はもうとっくに壊れている。
修理の依頼をしても、
「確認します」で止まったまま、
二年以上動きがない。
冷たい水で皿を洗う。
手はすぐ赤くなって、感覚が薄れていく。
その痛みすら、この冬の“日常”の一部になっていた。
◆ ◆ ◆
朝ごはんの支度を終えて、
部屋に戻ると、畳の冷えた匂いがまた鼻に刺さった。
築年数は……聞きたくなかった。
もしかしたら、わたしより年上かもしれない。
「十三年か……」
ぽつりと呟く。
この家に来てから、もう十三年が過ぎた。
“たまたまの一時しのぎ”で入ったはずだった。
でも、気がつくと、この狭い生活が日常になっていた。
良いことも悪いことも、
全部この六畳の中に積み重なっていった。
ふと、ポストに届いた封筒が目に映った。
「……またこの季節か」
白い長方形の封筒。
開ける前から分かる。
更新料だ。
わたしは台所の机の上に封筒を置き、
深呼吸して紙を開いた。
――更新料 103,000円。
「ひー……」
静かな声が漏れた。
大声なんか出ない。
この家では、どんな現実も“静か”に落ちてくる。
六万五千円の家賃。
二年に一度の十万三千円。
そして、十三年。
計算してはいけない、と思った。
数字にしてしまったら、
自分が何にどれだけの時間と力を払ってきたか、
突きつけられる気がした。
でも、その日はなぜか手が動き、
電卓を叩いてしまった。
六万五千円×十二ヶ月×十三年=1,014万円。
そこに更新料。
細かい修繕費や、ずっと直らない部分を我慢し続けた“代償”。
「一千万円……」
数字を見た瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。
「なんで……なんで、こんな家に……」
呟きながらも、
その問いは誰にも向けられていなかった。
だって、わたしは知っている。
誰のせいでもない。
誰も助けてくれない家で生きてきたのは、
わたし自身なのだ。
◆ ◆ ◆
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
仕事帰りの娘、美咲だ。
もう28歳。
でも、家に帰ってきたときの声は、
不思議とあの日のまま。
「おかえり」
わたしは更新料の紙を慌てて隠した。
美咲に余計な心配をさせたくなかった。
「今日、すっごい寒くない?」
「寒いよ。床が特にね。氷みたい」
美咲は靴を脱ぎながら、
六畳の和室に入った瞬間、顔をしかめた。
「……うわ、この匂い……畳、また湿ってる?」
「朝、ちょっと冷えてたからね」
クーラー水漏れ事件以来、
畳はどれだけ換気しても“完全には乾かない”。
そのせいで冬になると、
湿気と古さが混ざった匂いが部屋いっぱいに広がる。
「ママ、さすがにこれ……変えるよう言おうよ」
「言ってるよ。でもね……」
「また“大家さんに確認します”?」
「そう」
二人で同時にため息をついた。
◆ ◆ ◆
夜、夕飯を食べ終わり、
美咲がテレビを見ている横で、
わたしは再び更新料の封筒を開いた。
「ママ、それ……?」
「うん。更新料がね……」
「いくら?」
聞かれた瞬間、胸が少し痛んだ。
それでも、嘘はつきたくなかった。
「十万三千円」
「……まじか」
美咲の声は、小さな吐息のようだった。
「六畳と六畳で? ベランダもないのに?
湯沸かし器も壊れたままなのに?
あの腐った畳と、まっちゃ色の天井のままなのに?」
一気に言う美咲に、
わたしは笑ってしまった。
「全部言ったら、ほんとに“ひー”ってなるでしょ?」
「いや……笑えない……」
美咲は顔を覆い、
少し黙った後、ぽつりと言った。
「ママ。……こんな家に一千万払ってきたんだね」
「あはは……考えないようにしてたのよ?」
「……ママ、すごいよ」
その声は、
優しさと、悔しさと、
誇りと、涙の気配が入り混じっていた。
わたしは美咲の頭をそっと撫でた。
「ありがとう。でもね、美咲」
「なに?」
「家賃を払ってきたのは……
生きる場所を諦めなかった証だよ」
美咲は目を丸くした。
「ママ……」
「だって、ここがどんな家でも。
わたしたちは、ここで“生きてきた”でしょ?」
美咲は、ゆっくりとうなずいた。
あの日あの時、
どんなに狭くても、寒くても、匂いがしても、
この六畳と六畳は、
確かにわたしたちの“家”だったのだ。
◆ ◆ ◆
そして、わたしはそっと更新料の封筒を閉じた。
「……美咲。次の十三年は、ここじゃなくてもいいよね」
美咲は少し驚いた顔をしたあと、
優しく笑った。
「うん。次は、“陽の当たる家”にしよ」
その言葉に胸が温かくなった。
六畳の冬は、確かに寒い。
でも、
こうして二人で言葉を交わした瞬間だけ、
少しだけ春が近づいてきた気がした。
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