『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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第1話 婚約のはじまり

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第1話 婚約のはじまり

冬の国境を越えるとき、馬車の窓に張りついた霜が、朝日を受けて淡く輝いた。雪ではない。凍りついた水滴が、陽光を受け、無数の細い刃物のように光を跳ね返している。

帝国第五王女、リリアンヌ=ヴァルモンドは、馬車の揺れに身を預けながら、深く息を吸った。

空気が鋭く肺の奥に刺さり、胸がすっきりする。恐れも緊張も、氷の粒と一緒に胸の底に沈んでいく気がした。

「……大丈夫」

声に出してみると、不思議と勇気が生まれた。

向かうのは、隣国ファルディア最大の名家、アルステッド公爵家。彼女は“婚約者”としてそこに住み、同時に王立魔法学園に通うことになっていた。

政治的緩和。国境の友好。魔力研究の共有。

目的は大きい。夢もあった。

「学園では、わたし、もっと結界術を研究してみたいな」

胸の奥で思い描く未来図には、魔力のきらめきが溢れていた。新しい季節、新しい仲間、新しい知識。知らない国で暮らすという不安より、胸に宿る期待の方が少し大きかった。

やがて、馬車が重い音を立てて止まった。

窓を覆っていた霜が少し震え、朝の光が差し込む。

扉が開き、冷たい冬の風が一気に流れ込んだ。

そこには――壮麗な石造りの屋敷が立っていた。

壁は白く、屋根は深い青、巨大な庭園が敷地いっぱいに広がっている。庭にはまだ雪がなく、霜を吸った冬の土と、裸木の枝が空気を震わせていた。土の匂いがする。乾いて、静かな匂い。冬の庭の匂いは、故郷の城とはずいぶん違う。

玄関の扉がゆっくり開く。

背の高い青年が現れた。

婚約者、アレクシス=アルステッド公爵子息。背は高く、凛とした顔立ち、少し疲れた目。けれど、初対面とは思えないほど柔らかく笑う。

「リリアンヌ殿下。ようこそファルディアへ」

その声は、冬の澄んだ空気に馴染むように落ち着いていた。

「こちらこそ、お招きいただき感謝します。国境越えの道、静かでとても美しかったわ」

「この国の冬は厳しいですが、景色は悪くありません」

「はい。空気が綺麗で、魔力が落ち着きます」

アレクシスの目がわずかに驚いたように光る。

「魔力を、空気の匂いで感じるんですか?」

「ええ。冬は、魔力の粒が沈んでいく気がします」

アレクシスは小さく頷いた。

「それは面白い。こちらの学園でも、結界研究は期待されていると聞いています」

胸が温かくなる。

「楽しみです。帝国ではなかなか進められなかった研究なので」

二人は、玄関ホールへと歩いていった。

白い石の床に、冬の靴音が響く。空気はほんのり木の香りがして、奥には暖炉の火の匂いが広がっていた。美しいはずなのに、ほんの少しだけ、冷たい気配が混じる。城よりも静か。壁が多いせいか、音が吸い込まれる。

そして――

「アレクシス様、お帰りなさいませ」

澄んだ声が響いた。

階段の踊り場から、一人の娘が軽やかに降りてきた。

薄いクリーム色のワンピース、栗色の髪、控えめな笑顔。優雅で、周囲に柔らかく馴染む雰囲気を纏っている。

「リリアンヌ殿下。ミレイユ=ド・ラングフォードと申します」

「はじめまして。……男爵家のご令嬢?」

ミレイユは、深く丁寧に頭を下げた。

「はい。公爵家の家務と屋敷管理、生活面を整える役割を任されております。幼い頃からアレクシス様のおそばに」

アレクシスは気さくに言う。

「ミレイユは幼馴染でね。気が利いて助かるんだ。家の細かなところは、彼女が一番把握している」

ミレイユは微笑んだ。その笑顔は柔らかいけれど、どこか確信がある。

「殿下がお越しになる前に、客間、浴室、衣類の整理を済ませております。足りないものがございましたら遠慮なく」

リリアンヌは戸惑いながら返した。

「ありがとう。丁寧に準備してくださって」

ミレイユは一歩近づき、声をやや小さくして言った。

「王女殿下、庭の花壇は放置すると冬に根が痛みます。もしお時間があれば、霜避けの布を敷いていただけると助かります」

リリアンヌは瞬きした。

「わたしが……?」

ミレイユは優しく笑って言った。

「はい。庭仕事も屋敷生活の一部でございます。殿下にはファルディアの生活に慣れていただきたいので。花は言葉が通じますし、魔力を察知します。殿下の結界気質には、きっとよい学びになります」

アレクシスは何気なく言う。

「ミレイユは庭の管理も得意なんだ。殿下が学べることも多いと思う」

……違和感は、まだ小さい。

けれど、胸の奥にひそかに沈んだ。

(庭の霜避け……それは、公爵令息の婚約者が担う仕事なのかしら)

しかし、声に出すことはしなかった。帝国の礼節も、外交も、ここで衝突させるものではない。

「わかりました。冬の庭は好きです。お手伝いさせてください」

ミレイユは満足げに笑い、メイドに指示を出した。

「では、殿下が終えやすいように道具をまとめておきますね」

アレクシスが言う。

「庭の感覚は学園でも役立つ。あまり難しく考える必要はないよ」

リリアンヌは微笑んだ。

「学園生活が楽しみです」

その瞬間、アレクシスは優しい表情を見せた。

「きっと悪くない場所になる。殿下なら大丈夫だ」

その言葉に、胸が少し温かくなった。

玄関ホールを抜け、客間へ案内された。

部屋には、柔らかな冬日が差し込んでいた。暖炉の火がぱちぱちと弾け、木の甘い香りが漂う。カーテンは重厚で、窓の外には庭の裸木の枝が揺れている。

リリアンヌは、室内を一巡り見渡した。

「とても落ち着きます。帝国の城より静かで……音が深いですね」

ミレイユが言った。

「石造りなので、冬は少し寒いかもしれません。ただ、魔力が濃い土地ですので、殿下のお身体には馴染みが良いかと」

「嬉しいわ」

ミレイユは一拍置き、声をやわらかくした。

「王女殿下、もしよろしければ――足元に敷く魔除け布の洗濯もお願いできますか?魔力が宿っているので、殿下の結界の気質が生地を守ります」

「洗濯……?」

ミレイユは、あくまでも微笑んだまま。

「はい。干すだけで結構です。殿下の魔力なら、少し触れるだけで生地が活性化しますので」

アレクシスも穏やかに口を挟む。

「手間というより、魔力の呼吸法みたいなものらしい。無理はしなくていいから」

リリアンヌは、胸の奥で小さく息を吐いた。

(これは……公爵家の“婚約者教育”なのかしら。異国の作法。庭、布、屋敷の空気。全部が魔力と結界につながっているのなら……学び、と思えばいい)

そう自分に言い聞かせた。

父の言葉が胸を過った。

――境界を失ったら帰ってこい。

だが、この違和感はまだ境界ではない。ただの、慣れない生活だ。

リリアンヌは微笑み、静かに言った。

「わかりました。屋敷の魔力も、結界も、学んでみたいわ」

ミレイユは深く頭を下げ、満足げに去っていった。

客間に残った静寂の中、リリアンヌは窓辺に座り、庭を見つめた。

冬の庭は、沈黙している。霜の粒が薄い光を跳ね返し、裸木の影が土の上に落ちている。

指先で窓をなぞると、外気が伝わって冷たい。

「大丈夫。これくらい、きっと問題ではないわ」

誰にも聞かれない声で、そっとつぶやいた。

けれど、胸の奥に小さな石が落ちたような気がした。

まだ痛みではない。ただ、音のない衝突。

それが、冬の屋敷の静けさの中で、微かに震えていた。

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