『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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プロローグ

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『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

――プロローグ――

冬の風が、帝国城の尖塔をなでるように吹き抜けた。夜明け前の空は墨色で、雲は鈍い銀色を帯びている。星は一つも見えず、城の高窓には、燭台のゆらぎだけが淡くひかっていた。

その部屋で、少女は静かに立っていた。

セラフィーナ・ヴァルモンド。帝国皇帝の第五王女であり、まだ十八歳の娘。

彼女は、窓に手を添えて、冬の空気を吸い込んだ。冷たい空気は胸の奥に沈み、微かに刺すような痛みが広がる。だが、嫌いではない。この痛みは、彼女の魔力の根幹と同じ、静かな緊張を与えてくれる。

「あなたは、結界を張るとき、表情が変わりますね」

背後から、低い声がした。

振り返ると、父――帝国皇帝アルキミオンが立っていた。王冠は外しており、いつもの威風ではなく、父親の面がにじんでいた。

「……そんな顔をしていましたか?」

セラフィーナは小さく笑った。

皇帝は娘のそばに歩み寄り、窓の外を見た。

「冬が来ると、私は不思議と落ち着く。お前もそうだろう」

「はい。冬は、魔力が澄んでいきます。息を吐くたび、透明になっていく気がします」

皇帝は一つ頷いたが、その目の奥に、どこか寂しげな影が浮かんでいた。

「……お前は、あの国へ行くことが、本当に怖くないのか」

娘は一瞬黙り、言葉を選んで答えた。

「怖くないと言えば嘘になります。でも、恐れは前に進む力になります。父上が教えてくださいました」

皇帝は目を細めた。

「私が教えたのは、恐れは――結界になる、だったはずだ」

「はい。境界を引くために感情が必要だと」

「そうだ」

父は短く言ったが、声の奥には複雑な響きがあった。

セラフィーナは手袋をはめ、深く息を吸い込んだ。外の空気が、心臓にまで沁みてくる。

「アルステッド公爵家は、帝国と旧来の友好関係にある。婚約は両国の信頼の証。父上が断れなかった事情は、理解しています」

皇帝は肩を落とし、娘の横顔を見つめた。

「理解している、か。……だが、私がお前に求めていたのは理解ではない。幸福だ」

娘は胸の奥がじんと熱くなった。父は厳しい皇帝であるが、彼女に対しては時折、深い愛情を覗かせる。

セラフィーナは微笑み、首を横に振った。

「幸福は、自分の手でつくるものです。国が違っても、魔力が違っても」

皇帝は苦い顔をした。

「お前は、私に似た。余白を削りすぎる」

「余白……?」

皇帝は娘の手を取り、掌を裏返した。

「境界とは、線を引くことだ。守るためには線が必要だ。だが――お前は、自分の境界より、相手の境界を優先する」

娘の指が小さく震えた。

皇帝の声は静かだが、深く胸に落ちた。

「境界線を譲り続ける者は、無言で愛を示しているつもりだろう。だが、それは献身ではなく、自己の喪失に近い」

セラフィーナは言葉を失った。

父の言葉は、思ってもみなかった場所を刺した。胸の奥で、氷が砕ける音がした気がした。

皇帝はさらに言った。

「結界術は、お前の本質だ。結界とは、守ることだ。相手を守る前に、自分を守らねばならない」

娘は俯いた。

「私は……守れると思っていました。相手を、家族を、婚約者を」

「相手が尊厳を尊重する者なら、守る価値はある。だが、境界線を踏みにじる者は違う」

セラフィーナの瞳が揺れた。

「父上は、未来を見通すのですか?」

「違う。私は、悲しみを知っているだけだ。献身は、美しいが無制限ではいられぬ」

皇帝は窓を指差した。

雲の切れ目から、薄い朝日が城の屋根を照らした。

「アルステッド公爵家の話は、私はよく知っている。国境は堅牢だが、家の人間関係は脆い。お前の魔力を“便利な道具”と勘違いする危険もある」

セラフィーナの胸に、ひやりと影が落ちた。けれど、すぐに顔をあげた。

「私は努力します。婚約者レオンの隣にいても、私は私でいたい。魔力は、雑務だけに使うものではないと、わかってもらえるように」

皇帝は目を閉じた。

「……それができれば、苦労はしない」

沈黙が落ちた。

窓の外から、雪鳩の鳴き声がかすかに響いた。空気は透明で、音が深く染みこんでいく。

皇帝は娘に向き直った。

「セラ。覚えておけ。婚約は制度だ。愛ではない。もしお前がその家で尊厳を失うなら、結界を張って帰ってきなさい」

娘は驚いた。

「帰ってきても、よいのですか?」

皇帝は笑った。それは、戦場にも社交界にも見せない微笑だった。

「帰還は敗北ではない。境界を守るという勝利だ」

セラフィーナは喉の奥が熱くなった。父の言葉は胸の底に沈み、涙の形になりそうだった。

皇帝は娘の肩に手を置いた。

「結界術を忘れるな。お前の沈黙は強さだが、沈黙が境界線ではない。境界線は、言葉にしてもよい」

娘は、静かに目を閉じた。

「わたしは努力します。だけど……できなければ?」

皇帝は即答した。

「婚約破棄だろうと、離縁だろうと、恥ではない。
――帝国第五王女の結界は、婚約破棄で解けぬ。」

その言葉は、冬の塔を震わせるほど深かった。

「結界は記録であり、尊厳であり、国の証。侮辱された娘を、取り戻すのは父の務めだ」

セラフィーナは聞いた瞬間、胸の奥で何かが溶けた。

「父上……」

皇帝は穏やかに笑った。

「いつでも帰ってこい。兵を万単位で連れて迎えに行ってやる。結界が薄れたと聞いたら、私は国境を越える。躊躇はしない」

セラフィーナの唇が震えた。

「そんな……大げさすぎます」

「大げさでよい。お前が涙した一粒のほうが重大だ」

娘は喉の奥で息を詰まらせた。

皇帝は窓越しに遠くを見つめた。

「結界とは、魔術ではない。お前がそこに存在するという宣言だ。誰かに境界を踏みにじられたら、その瞬間に結界は国法となる」

娘は、静かに頷いた。

「……守ります。私の境界線を」

皇帝の目がやわらいだ。

「それでよい。誰かに境界線を頼みこんではいけない。境界線とは、自分が自分でいるための場所だ」

冬の空気がふたりの間をゆっくりと通り抜けていく。

セラフィーナは、もう一度遠くを見た。
これから自分が向かう国、婚約者の屋敷、知らない街、知らない季節。

胸の奥で微かに疼いた。けれど、それは不安ではなく――

覚悟

だった。

父は娘を静かに抱きしめた。

「境界を失ったら帰ってきなさい。私は、国ごと迎えに行く」

セラフィーナは小さく笑った。

「そんな父上を、私は誇りに思います」

皇帝は、娘の耳元で囁いた。

「誇りを持て。沈黙はお前の強さだ。しかし――沈黙が尊厳を奪われたなら、吠えてもいい」

娘は頷いた。

そして、その冬の日、セラフィーナは帝国城を後にした。

これから起こることを、まだ何も知らなかった。

だが一つだけ確実だった。

帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けない。

それは、まだ始まっていない物語の、静かな宣言だった。

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