『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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エピローグ 『春の境界で会いましょう』

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エピローグ 『春の境界で会いましょう』

 離宮の庭に、春の終わりを告げる風が吹いていた。
 大輪ではなく、小さな花が群れになって咲く。
 薄いピンクの花弁が、敷石に落ち、陽の光を吸って透ける。

 リリアンヌは膝を折り、白い花に触れた。
 花弁は驚くほど冷たく、土の湿り気が指に沁みる。
 庭の世話を久しぶりに自分でするのは悪くない。
 以前の雑務と違って、「命じられた作業」ではなく、「自分が選ぶ行為」だからだ。

「殿下、陽に当たりすぎると疲れが出ますよ」

 側仕えのエレーネが日傘を差し出した。
 リリアンヌは笑う。

「花と話をしていたの。日傘をありがとう」

「話、ですか?」

「ええ。――花は境界を持つのよ。種は土を選び、芽は光を選ぶ。
 奪われれば枯れてしまうけれど、守られれば静かに根を張る。人の心と同じ」

 エレーネは感嘆の息をこぼす。

「殿下が元気になられた証ですね。昨年の冬は……」

「思い出したくないわ」

 二人は目を合わせ、笑う。
 けれど、その笑いの奥には、深い痛みと、その痛みを越えた安堵が沈んでいる。

 離宮での生活は静かだが退屈ではない。
 午前は研究、午後は陛下との会食や政務の補助、夕方は庭と散歩。
 夜には星空の下で魔法陣を描く日もある。

 魔力は完全に戻ったわけではない。
 けれど、戻らないほうが少し都合がいい。
 痛みを忘れない印として、胸にひとつ痣のように残っていた方が、境界を守りやすい。



 ある日の午後。
 離宮の門に、珍しい馬車が停まった。

 従者が駆け込む。

「殿下、お客様が。帝国魔法学会より、新任研究員が挨拶に来ております」

「研究員? 名は?」

「――セラフィーナ・ヴァルモンド、と申します」

 リリアンヌは目を瞬いた。
 大陸北方の名家の名だ。

「通してちょうだい」

 扉が開くと、栗色の長い髪を結った女性が、深く一礼した。
 眼差しは聡明で穏やか、肌には誇りのような透明感がある。

「リリアンヌ殿下、お目にかかれ光栄です。大陸北方より魔法学術協定の研究員として参りました」

「遠路ありがとう。学術協定とは、外交よね?」

「ええ。……殿下の結界理論が、北方諸国で大きな注目を浴びています」

 リリアンヌは照れ笑いをした。

「私の理論はまだ未完成よ。外部に広めるには早すぎるでしょう?」

 セラフィーナは柔らかく首を振る。

「未完成だからこそ価値があるのです。完成された理論は、ただ崇拝されます。ですが――未完成の理論は議論され、呼吸し、世界と一緒に育つ」

 その言葉に、胸が少し震えた。

「……あなた、面白いわ」

「光栄です」

 エレーネが茶を運んできた。
 湯気が立ちのぼり、緑茶の香りが鼻腔に広がる。
 セラフィーナは茶碗に触れ、細く息を吐いた。

「実は、殿下にお願いがございます」

「お願い?」

「殿下の結界術を、北方魔法学院で教えていただけないでしょうか。――殿下の“境界”という概念を、多くの若者に伝えたいのです」

 リリアンヌは驚いた。

「私が? 教壇に立つの?」

「はい。殿下でなければ意味がありません。魔力ではなく、境界と尊厳を守る結界を――殿下ほど体現した人はいない」

 リリアンヌは少し黙り、窓の外を見た。
 庭の花々が揺れ、春の色が濃くなっていく。

 セラフィーナが静かに言う。

「殿下。かつてあなたは誰かのために生きようとしました。
 でも――今度は、誰かと共に生きる道を選べます。
 学術とは“支配”ではなく“共有”です。境界の中に、人が寄り添える空間を創る学びです」

 リリアンヌの胸に、あの日の痛みが波打った。
 雑務、嘲笑、侮辱、搾取。
 あれらはすでに過去になった。
 けれど、過去を消し去りたいわけではなかった。

 彼女は答える。

「……教えるということは、私自身が誰かの境界を奪わないことでもあるのね」

「まさに」

「面白いわ。それは、結界より難しい」

「だからこそ価値がある」

 二人の笑い声が重なり、エレーネもほっと肩を落とす。



 夕暮れ。

 セラフィーナは馬車に乗り込み、別れの挨拶をした。

「殿下、北方にお越しの際は、必ずお迎えに参ります」

「ええ。必ず行くわ。私の理論が、境界を守る人を増やせるなら」

 セラフィーナは微笑んだ。

「殿下は、復讐の物語に留まらなかった。それが一番尊い。
 ざまぁが終わったあと、心を閉じず、未来を開いた人は――強い。とても強い」

 馬車が走り出す。
 蹄の音が、石畳を弾む。

 リリアンヌは、春の夜気を吸い込んだ。
 ほのかな花の匂い、雨の予感、風の柔らかさ。
 五感は穏やかに満ちていく。

「結界は……戦いの道具ではなくて、誰かと呼吸をそろえる空間なのね。境界が守られて初めて、共存が芽吹く」

 夜空に星が瞬く。
 離宮の窓から、淡い光が漏れる。

「婚約破棄では、結界は解けなかった。
 境界を取り戻し、自分を尊重したとき――結界は春を迎えた」

 空気が、まるで頷くように揺れた。

 リリアンヌは手を胸に当てる。

「もし誰かと共に歩く日が来るなら――力ではなく、境界の上で。対等な呼吸の上で」

 その願いは、恋ではない。
 けれど恋よりも深い。
 「孤独ではない呼吸」を、静かに受けとめる未来。



 夜、研究机の灯りがぽうっと揺れる。

 柔らかな文字が紙に刻まれていく。

結界とは、奪われぬ心である。
愛とは、境界を尊ぶ呼吸である。
そして、人は――守られた境界の中で、初めて共鳴できる。

 風がページをめくった。

 春は、まだ終わらない。

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