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エピローグ 『春の境界で会いましょう』
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エピローグ 『春の境界で会いましょう』
離宮の庭に、春の終わりを告げる風が吹いていた。
大輪ではなく、小さな花が群れになって咲く。
薄いピンクの花弁が、敷石に落ち、陽の光を吸って透ける。
リリアンヌは膝を折り、白い花に触れた。
花弁は驚くほど冷たく、土の湿り気が指に沁みる。
庭の世話を久しぶりに自分でするのは悪くない。
以前の雑務と違って、「命じられた作業」ではなく、「自分が選ぶ行為」だからだ。
「殿下、陽に当たりすぎると疲れが出ますよ」
側仕えのエレーネが日傘を差し出した。
リリアンヌは笑う。
「花と話をしていたの。日傘をありがとう」
「話、ですか?」
「ええ。――花は境界を持つのよ。種は土を選び、芽は光を選ぶ。
奪われれば枯れてしまうけれど、守られれば静かに根を張る。人の心と同じ」
エレーネは感嘆の息をこぼす。
「殿下が元気になられた証ですね。昨年の冬は……」
「思い出したくないわ」
二人は目を合わせ、笑う。
けれど、その笑いの奥には、深い痛みと、その痛みを越えた安堵が沈んでいる。
離宮での生活は静かだが退屈ではない。
午前は研究、午後は陛下との会食や政務の補助、夕方は庭と散歩。
夜には星空の下で魔法陣を描く日もある。
魔力は完全に戻ったわけではない。
けれど、戻らないほうが少し都合がいい。
痛みを忘れない印として、胸にひとつ痣のように残っていた方が、境界を守りやすい。
◆
ある日の午後。
離宮の門に、珍しい馬車が停まった。
従者が駆け込む。
「殿下、お客様が。帝国魔法学会より、新任研究員が挨拶に来ております」
「研究員? 名は?」
「――セラフィーナ・ヴァルモンド、と申します」
リリアンヌは目を瞬いた。
大陸北方の名家の名だ。
「通してちょうだい」
扉が開くと、栗色の長い髪を結った女性が、深く一礼した。
眼差しは聡明で穏やか、肌には誇りのような透明感がある。
「リリアンヌ殿下、お目にかかれ光栄です。大陸北方より魔法学術協定の研究員として参りました」
「遠路ありがとう。学術協定とは、外交よね?」
「ええ。……殿下の結界理論が、北方諸国で大きな注目を浴びています」
リリアンヌは照れ笑いをした。
「私の理論はまだ未完成よ。外部に広めるには早すぎるでしょう?」
セラフィーナは柔らかく首を振る。
「未完成だからこそ価値があるのです。完成された理論は、ただ崇拝されます。ですが――未完成の理論は議論され、呼吸し、世界と一緒に育つ」
その言葉に、胸が少し震えた。
「……あなた、面白いわ」
「光栄です」
エレーネが茶を運んできた。
湯気が立ちのぼり、緑茶の香りが鼻腔に広がる。
セラフィーナは茶碗に触れ、細く息を吐いた。
「実は、殿下にお願いがございます」
「お願い?」
「殿下の結界術を、北方魔法学院で教えていただけないでしょうか。――殿下の“境界”という概念を、多くの若者に伝えたいのです」
リリアンヌは驚いた。
「私が? 教壇に立つの?」
「はい。殿下でなければ意味がありません。魔力ではなく、境界と尊厳を守る結界を――殿下ほど体現した人はいない」
リリアンヌは少し黙り、窓の外を見た。
庭の花々が揺れ、春の色が濃くなっていく。
セラフィーナが静かに言う。
「殿下。かつてあなたは誰かのために生きようとしました。
でも――今度は、誰かと共に生きる道を選べます。
学術とは“支配”ではなく“共有”です。境界の中に、人が寄り添える空間を創る学びです」
リリアンヌの胸に、あの日の痛みが波打った。
雑務、嘲笑、侮辱、搾取。
あれらはすでに過去になった。
けれど、過去を消し去りたいわけではなかった。
彼女は答える。
「……教えるということは、私自身が誰かの境界を奪わないことでもあるのね」
「まさに」
「面白いわ。それは、結界より難しい」
「だからこそ価値がある」
二人の笑い声が重なり、エレーネもほっと肩を落とす。
◆
夕暮れ。
セラフィーナは馬車に乗り込み、別れの挨拶をした。
「殿下、北方にお越しの際は、必ずお迎えに参ります」
「ええ。必ず行くわ。私の理論が、境界を守る人を増やせるなら」
セラフィーナは微笑んだ。
「殿下は、復讐の物語に留まらなかった。それが一番尊い。
ざまぁが終わったあと、心を閉じず、未来を開いた人は――強い。とても強い」
馬車が走り出す。
蹄の音が、石畳を弾む。
リリアンヌは、春の夜気を吸い込んだ。
ほのかな花の匂い、雨の予感、風の柔らかさ。
五感は穏やかに満ちていく。
「結界は……戦いの道具ではなくて、誰かと呼吸をそろえる空間なのね。境界が守られて初めて、共存が芽吹く」
夜空に星が瞬く。
離宮の窓から、淡い光が漏れる。
「婚約破棄では、結界は解けなかった。
境界を取り戻し、自分を尊重したとき――結界は春を迎えた」
空気が、まるで頷くように揺れた。
リリアンヌは手を胸に当てる。
「もし誰かと共に歩く日が来るなら――力ではなく、境界の上で。対等な呼吸の上で」
その願いは、恋ではない。
けれど恋よりも深い。
「孤独ではない呼吸」を、静かに受けとめる未来。
◆
夜、研究机の灯りがぽうっと揺れる。
柔らかな文字が紙に刻まれていく。
結界とは、奪われぬ心である。
愛とは、境界を尊ぶ呼吸である。
そして、人は――守られた境界の中で、初めて共鳴できる。
風がページをめくった。
春は、まだ終わらない。
離宮の庭に、春の終わりを告げる風が吹いていた。
大輪ではなく、小さな花が群れになって咲く。
薄いピンクの花弁が、敷石に落ち、陽の光を吸って透ける。
リリアンヌは膝を折り、白い花に触れた。
花弁は驚くほど冷たく、土の湿り気が指に沁みる。
庭の世話を久しぶりに自分でするのは悪くない。
以前の雑務と違って、「命じられた作業」ではなく、「自分が選ぶ行為」だからだ。
「殿下、陽に当たりすぎると疲れが出ますよ」
側仕えのエレーネが日傘を差し出した。
リリアンヌは笑う。
「花と話をしていたの。日傘をありがとう」
「話、ですか?」
「ええ。――花は境界を持つのよ。種は土を選び、芽は光を選ぶ。
奪われれば枯れてしまうけれど、守られれば静かに根を張る。人の心と同じ」
エレーネは感嘆の息をこぼす。
「殿下が元気になられた証ですね。昨年の冬は……」
「思い出したくないわ」
二人は目を合わせ、笑う。
けれど、その笑いの奥には、深い痛みと、その痛みを越えた安堵が沈んでいる。
離宮での生活は静かだが退屈ではない。
午前は研究、午後は陛下との会食や政務の補助、夕方は庭と散歩。
夜には星空の下で魔法陣を描く日もある。
魔力は完全に戻ったわけではない。
けれど、戻らないほうが少し都合がいい。
痛みを忘れない印として、胸にひとつ痣のように残っていた方が、境界を守りやすい。
◆
ある日の午後。
離宮の門に、珍しい馬車が停まった。
従者が駆け込む。
「殿下、お客様が。帝国魔法学会より、新任研究員が挨拶に来ております」
「研究員? 名は?」
「――セラフィーナ・ヴァルモンド、と申します」
リリアンヌは目を瞬いた。
大陸北方の名家の名だ。
「通してちょうだい」
扉が開くと、栗色の長い髪を結った女性が、深く一礼した。
眼差しは聡明で穏やか、肌には誇りのような透明感がある。
「リリアンヌ殿下、お目にかかれ光栄です。大陸北方より魔法学術協定の研究員として参りました」
「遠路ありがとう。学術協定とは、外交よね?」
「ええ。……殿下の結界理論が、北方諸国で大きな注目を浴びています」
リリアンヌは照れ笑いをした。
「私の理論はまだ未完成よ。外部に広めるには早すぎるでしょう?」
セラフィーナは柔らかく首を振る。
「未完成だからこそ価値があるのです。完成された理論は、ただ崇拝されます。ですが――未完成の理論は議論され、呼吸し、世界と一緒に育つ」
その言葉に、胸が少し震えた。
「……あなた、面白いわ」
「光栄です」
エレーネが茶を運んできた。
湯気が立ちのぼり、緑茶の香りが鼻腔に広がる。
セラフィーナは茶碗に触れ、細く息を吐いた。
「実は、殿下にお願いがございます」
「お願い?」
「殿下の結界術を、北方魔法学院で教えていただけないでしょうか。――殿下の“境界”という概念を、多くの若者に伝えたいのです」
リリアンヌは驚いた。
「私が? 教壇に立つの?」
「はい。殿下でなければ意味がありません。魔力ではなく、境界と尊厳を守る結界を――殿下ほど体現した人はいない」
リリアンヌは少し黙り、窓の外を見た。
庭の花々が揺れ、春の色が濃くなっていく。
セラフィーナが静かに言う。
「殿下。かつてあなたは誰かのために生きようとしました。
でも――今度は、誰かと共に生きる道を選べます。
学術とは“支配”ではなく“共有”です。境界の中に、人が寄り添える空間を創る学びです」
リリアンヌの胸に、あの日の痛みが波打った。
雑務、嘲笑、侮辱、搾取。
あれらはすでに過去になった。
けれど、過去を消し去りたいわけではなかった。
彼女は答える。
「……教えるということは、私自身が誰かの境界を奪わないことでもあるのね」
「まさに」
「面白いわ。それは、結界より難しい」
「だからこそ価値がある」
二人の笑い声が重なり、エレーネもほっと肩を落とす。
◆
夕暮れ。
セラフィーナは馬車に乗り込み、別れの挨拶をした。
「殿下、北方にお越しの際は、必ずお迎えに参ります」
「ええ。必ず行くわ。私の理論が、境界を守る人を増やせるなら」
セラフィーナは微笑んだ。
「殿下は、復讐の物語に留まらなかった。それが一番尊い。
ざまぁが終わったあと、心を閉じず、未来を開いた人は――強い。とても強い」
馬車が走り出す。
蹄の音が、石畳を弾む。
リリアンヌは、春の夜気を吸い込んだ。
ほのかな花の匂い、雨の予感、風の柔らかさ。
五感は穏やかに満ちていく。
「結界は……戦いの道具ではなくて、誰かと呼吸をそろえる空間なのね。境界が守られて初めて、共存が芽吹く」
夜空に星が瞬く。
離宮の窓から、淡い光が漏れる。
「婚約破棄では、結界は解けなかった。
境界を取り戻し、自分を尊重したとき――結界は春を迎えた」
空気が、まるで頷くように揺れた。
リリアンヌは手を胸に当てる。
「もし誰かと共に歩く日が来るなら――力ではなく、境界の上で。対等な呼吸の上で」
その願いは、恋ではない。
けれど恋よりも深い。
「孤独ではない呼吸」を、静かに受けとめる未来。
◆
夜、研究机の灯りがぽうっと揺れる。
柔らかな文字が紙に刻まれていく。
結界とは、奪われぬ心である。
愛とは、境界を尊ぶ呼吸である。
そして、人は――守られた境界の中で、初めて共鳴できる。
風がページをめくった。
春は、まだ終わらない。
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