『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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第10話 『離宮の春』

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第10話 『離宮の春』

 春は、帝国の離宮から始まるらしい。

 凍った湖面がゆっくりと透き通り、眠っていた草の根に、褐色の息が染みこんでいく。
 白い離宮の回廊には、冬に閉ざされていた香りが一気に解き放たれ、噴水の水音が、鳥の囀りを受けとめて跳ね返していた。

 帰還の馬車は、石畳を静かに進んだ。

 リリアンヌは窓を開け、春の風を胸いっぱいに吸い込む。
 冬にはなかった湿った土の匂い。咲き始めの花の気配。
 肌の上をすべる陽光が、まるで自分の体温が戻ってくることを祝福してくれているようだった。

 馬車が停まると、帝国皇帝が階段を降りてきた。
 その姿は鋼のような威厳を纏っているが、リリアンヌを見た瞬間、その表情がほどけた。

「帰ってきたか、リリアンヌ」

 その声の低さは、不思議と涙腺を刺激した。
 父としての温かさが、冷え切っていた胸に染み込む。

 リリアンヌは深く頭を下げた。

「ただいま戻りました、陛下」

 皇帝は軽く首を振り、

「陛下などと言うな。お前は私の娘だ。戻ってきなさい。お前の居場所は、最初からここにある」

 その一言で、膝が少しだけ震えた。
 肩に触れる父の手が、何より強くて優しい。

 離宮の客間に案内されると、侍女と側仕えが一斉に頭を下げた。

「殿下、お顔の色が戻られましたね。本当に良かった……」

 鏡に映る自分の頬は、以前よりも柔らかい薔薇色だ。
 唇にもほんのり赤みが差している。
 そして、魔力。
 指先の奥に、微弱な光が宿っているのを自分でも感じる。

 リリアンヌは微笑んだ。

「魔力は、呼吸するものなのね。奪われない場所で、静かに眠りから覚めるように」

 側仕えが感動したように手を握る。

「殿下……宮廷はずっと心配していました。あの公爵家から、二度と戻れないのではないかと」

「私は私の足で歩いて戻りましたわ。結界があったから」

 リリアンヌは寝台に腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸する。
 薄い白布が揺れ、窓から入り込む花の匂いが、まるで祝福のように漂っている。

 その夜、離宮の一室で、魔力測定が行われた。
 水晶板が淡い金色の光で満たされていくにつれ、魔法庁の測定官は息を呑んだ。

「殿下……数値が回復を始めています! こんな速度は前例がありません!」

 リリアンヌはしずかに微笑んだ。

「魔力は、“働き”ではなく、“あり方”で育つのですわ。誰かに尽くすだけではなく、境界を守り、自分の心を立て直したときに……結界は蘇るの」

 測定官は瞳を潤ませ、

「帝国の宝が、戻ってこられた……!」

 その言葉に、胸が熱くなった。



 翌月から、リリアンヌは離宮の研究室に入り、結界研究を再開した。
 水晶、草紙、魔法陣、古文書。
 魔力を“奪われる”経験は痛かったが、その痛みが、結界魔法に新しい理解を与えた。

 リリアンヌは呟く。

「結界とは、閉じるものではなく、守るもの。
 献身ではなく、境界。
 奪うのではなく、共に生きる人の呼吸と尊厳を保つための空間――」

 研究室には、毎日春の光が差し込む。
 筆先を走らせると、魔力は柔らかく灯り、紙を透かすように震えた。

 側仕えが部屋に入ってきた。

「殿下、肌が以前より輝いておりますわ……」

 リリアンヌは肩をすくめた。

「魔力が戻ったからかしら。最近はよく眠れるの」

 側仕えは微笑む。

「殿下、以前より……美しいです」

「わたしの価値は、雑務の出来ではないのだと、やっとわかってきたの」

 側仕えは胸に手を当てて言う。

「共に生きたいと思えるお方と、いつか出会われますよ」

 リリアンヌは筆を止める。

「……そうね。誰かのために尽くすのではなく、共に生きる人に会いたいわ。対等に呼吸できる人」

 春風が、窓辺の花弁を揺らした。



 翌年。
 帝国魔法学会が開催される。

 巨大な会場に魔法学者や貴族、各国の大使が集い、結界研究の最高賞が発表される日。
 壇上に並ぶ候補者たちの衣擦れの音に、緊張が満ちる。

 司会者が声を張った。

「今年の結界学最高賞――史上最年少、帝国第五王女リリアンヌ殿下!!」

 一瞬、会場が爆発したかと思うほど、歓声が響き渡る。
 花弁が舞い、拍手が壁に反射して跳ね返ってくる。

 リリアンヌは深く礼をし、証明書と金色の紋章を受け取った。
 魔力を宿した金のプレートが手の中で柔らかく光る。

 観客のざわめき――

「まさか婚約破棄された王女が……!」

「帝国の宝だ……!」

「奪われた魔力でさえ、理論に変えたのか……!」

 リリアンヌは静かに答える。

「魔力は心に宿ります。奪われれば結界は泣きます。ですが――境界を取り戻したとき、結界は再び歌います」

 会場は息を呑んだ。

 父である皇帝は、客席から大きく頷いていた。
 あの威厳に満ちた瞳が、今日は父の誇らしい温度で満ちている。

 中央席で、誰かが小さくつぶやいた。

「王女殿下こそ、帝国の守護そのものだ……」

 遠く、公爵家にも噂が届く。

 《王女殿下は、帝国の宝となった》

 アレクシスは打ちひしがれ、ミレイユは涙を流しながら噂を聞いたという。
 だが、リリアンヌは知らない。

 必要もなかった。



 離宮の夜。
 研究室のランプが灯り、窓の外では春の星が弾む。

 リリアンヌは机に指を置き、そっと囁く。

「私の結界は、婚約破棄では解けません。境界が守られれば、心は再生する。魔力もまた、私自身と共に生きる……」

 静かな夜風が、花の匂いとともに、ページをめくった。

 彼女は微笑む。

「雑務ではなく、対等。献身ではなく、境界。その境界の中で、いつか誰かと――共に呼吸できたらいい」

 春は、離宮の白い壁に優しく触れる。

 それは、勝利や復讐ではなく、再生の音色。

 ざまぁは完了していた。

 だが物語は終わらない。

 結界はもう泣かない。
 魔力は戻り、春は彼女の手の中にある。

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