マッチ売りの少女

春秋花壇

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第1話:大晦日の冷たい空気

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第1話:大晦日の冷たい空気

『見えない子ども』

 風が、今日だけは特別に冷たい気がした。

「……また、さむくなってきた」

 リナは両手を息で温めるようにふっと吹きかけ、すぐに後悔した。指先が痛すぎて、息を吹きかけるだけでじんと痺れるのだ。

 東京の大晦日。大きな通りには灯りがあふれ、人々は急ぎ足で年越しの準備に向かっている。行き交う人の足音が、なぜか氷の上を歩いているように乾いて聞こえた。

 リナは、歩道の端に小さく腰を下ろしていた。赤いセーターは伸びきって、毛玉がところどころにできている。祖母が編んでくれた大切なものなのに、ほつれが広がるのを止められなかった。

 足の感覚は、もうほとんどなかった。

「ミリエル……今日も、寒いね」

 リナはポケットをごそごそ探り、古びた布の人形を取り出した。顔の模様は薄れて、ボタンの目も一つは取れかかっている。

 でも、リナにとってはこの世で一番あたたかいものだった。

「おばあちゃんがくれたときはね、もっとふわふわしてたんだよ。……覚えてる?」

 もちろん人形は答えない。けれど、リナはそう話していると胸の痛みが少しだけ薄れる気がした。

 風が横から吹きつけてきて、金色の髪がばさりと揺れる。雪が混じった風だった。髪についた雪がふわっと溶けて、首筋に冷たさだけが残る。

「……マッチ、いりませんか……」

 声を出すと喉がひりっとした。
 すれ違う家族連れは、笑いながら新年のごちそうの話をしている。

「ねぇお父さん、年越しそば食べたい! 海老のやつ!」

「はいはい、あとで買うよ。風邪ひかないように!」

 その家族を見て、リナは急いで視線を落とした。自分の姿が、あの家族に映ってはいけない気がした。

「……邪魔になってないといいけど」

 すれ違った後、そっと呟く。
 誰も返事はしてくれない。
 誰も振り向かない。

 リナがそこに「いる」という事実さえ、風に紛れてしまうようだった。

 街の光はとても綺麗で、遠くのビルには巨大なイルミネーション。雪が降っているのに、夜空は明るい。ひらひら落ちる雪の粒一つ一つが光を反射して、リナの視界を白く染めていた。

「ねぇ、ミリエル。どうして、こんなに賑やかなのに……こんなに、さみしいんだろ」

 リナは人形をそっと抱きしめる。

 その時、少し離れた場所から女性の声が聞こえた。

「きゃっ、寒い! ねえ早くしてよ、手凍えちゃう!」

「大丈夫だって。すぐ電車来るから」

 男の人の笑い声。
 その響きが、リナの胸に刺さった。

 リナは、電車のホームに立ったのはいつが最後だったか思い出せなかった。祖母と二人で買い物に行ったとき……そんな気がする。でも、それももう霧の向こう側の出来事みたいに遠い。

「おばあちゃん……」

 名前を呼ぶと、胸がじんわり熱くなった。

 祖母の家は、小さな石油ストーブの匂いがした。薪の燃えるパチパチという音がリナは大好きだった。冬になると祖母は毛糸の膝掛けを肩までかけてくれ、あたたかいミルクを作ってくれた。

『リナ、寒くなったら言うんだよ。ひとりで我慢すると、心まで凍っちゃうんだからね』

 あの声を、何度も聞いた。

「……言ったら、来てくれるの?」

 リナは空を見上げる。
 雪は静かに降り続けている。

「もし……もしさ。おばあちゃんが生きてたら、今日も“帰っておいで”って言ってくれたかな」

 自分でも驚くほど弱い声で呟いた。

 そこへ、後ろから男性の低い声がした。

「おい、危ないぞ。こんなところに座ってたら転ぶからな」

 リナはびくっとして振り返る。
 作業服を着た清掃員らしき男性が、道の雪をはねながら歩いていた。

「……あ、すみません」

 リナは小さく頭を下げる。

 男性はリナに視線を向けたが、すぐに目をそらし、何も言わずに去っていった。

 その“そらした目”が、リナの心をまた冷やした。

「……わたし、見えないのかな」

 リナは自分の手を見つめる。
 小さくて、かじかんで、痛みに慣れすぎてしまった手。

「ねぇ、ミリエル。私がここにいるって……誰も知らないんだよ」

 人形を抱きしめると、布の固さが胸に当たって苦しかった。

 雪がまた強くなってきた。
 遠くで、除夜の鐘がほんの少しだけ聞こえる。

「……おばあちゃん、寒いよ」

 その瞬間、リナの頬を一筋の涙が伝った。
 涙はすぐに冷たくなり、風にさらされて乾いていく。

「ミリエル。わたし、ちゃんと生きてるよね?」

 自問のように呟く。
 返事はやっぱりないけれど、人形のボタンの目は、いつもと少しだけ違う光り方に見えた。

 リナは深呼吸して、小箱を胸に抱きしめた。
 指先が震えて、木箱の角が骨に当たって痛い。

「……マッチ、いりませんか」

 もう一度言った。
 さっきより声は出たけれど、やっぱり誰も止まらない。

 でも、その一言を口にしたことで、ほんの少しだけ心が強くなった気がした。

「マッチ……あったかいですよ……」

 風がまた吹いた。
 リナの声はすぐに雪に溶けて、夜の街に消えていった。

 それでも、リナは諦めずに座り続ける。

 誰かひとりでいい。
 ひとりだけでいい。
 私を、見つけてほしい。

 そう願いながら、リナは小さな火の気配を胸の奥で必死に守っていた。

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