マッチ売りの少女

春秋花壇

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第2話:最初の炎と幻の食卓

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第2話:最初の炎と幻の食卓

『お腹の鳴る音』

 どこからか、油の焼ける匂いがした。
 空腹が幻を作っているのか、風のいたずらなのか分からないけれど、その匂いが鼻の奥をゆっくり撫でていく。

「……お腹、すいたね」

 リナはポケットに手を伸ばし、祖母の形見の人形ミリエルの頭をそっと撫でる。指先はもう石のように冷たくて、布の感触さえ曖昧だ。

 胃がぎゅるる、と鳴った。
 大晦日の喧騒の中、その音だけがなぜか妙にはっきり耳に届いた。

「ねぇ……ミリエル。一本だけ……火、つけてもいいよね?」

 答えはない。
 けれど人形の柔らかい沈黙は、“いいよ”と言っているように聞こえた。

 木箱を開くと、マッチの軸が綺麗に並んでいた。
 細くて、折れやすそうで、それでもリナには宝物だった。

「よし……いくよ」

 指が震え、うまく掴めない。
 何度か落とし、拾い、ようやく一本をつまみ上げる。

「……お願い。ついて」

 石のような指を必死に動かして、擦った。

 ――シュッ。

 薄暗い歩道に、小さくてあたたかい火がぱっと咲いた。

「あ……あったかい……」

 光が広がっていく。
 氷の膜が張ったようだったリナの目の前が、一瞬で金色に染まった。

 そして――現れた。

 大きな丸いテーブル。
 テーブルクロスは真っ白で、ふわりと湯気が上がっている。

「え……?」

 思わず立ち上がりそうになった。

 テーブルの中央には、大きなローストダック。
 皮が油をまとってパリパリに焼けていて、ナイフを入れたら“パリッ”と音がしそうだった。

 いや――音がした。
 本当に聞こえた。

「うそ……夢……?」

 湯気がゆらゆらと立ち昇り、甘く、かすかにスパイスの香りが混じった匂いが空気を包む。

 リナは喉を鳴らした。
 自分の口の中に唾液がじわっと広がるのが分かった。

「……食べたい……」

 指先が勝手に伸びる。
 ローストダックの表面に、光が反射してきらりと揺れる。
 その艶やかな皮をちぎって口に運んだら、どんな味がするんだろう。

「これ……おばあちゃんの家の……匂いだ……」

 祖母の家で食べたことなんてないのに。
 でも、暖炉の前で嗅いだ、あの“あったかい匂い”と同じだった。

「……おばあちゃん……」

 胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 そのとき――炎がふっと揺れた。

「えっ……まって……!」

 炎が小さくなり、消えかけている。
 リナは慌てて手を伸ばしたが、

 ――じゅ。

 音を立てて、火は消えた。

「あっ……ああ……!」

 明るかった世界が、いきなり夜に戻る。
 温かい空気がすうっと逃げていく。
 匂いも、湯気も、音も、全部、幻だったみたいに消えた。

「……やだ……やだよ……」

 手の中のマッチは、黒い燃えかすになっていた。
 消えた火の代わりに、胃の奥で鋭い痛みが走った。

「痛っ……」

 思わずお腹を押さえる。
 中が空っぽすぎて、風が吹くだけで痛い。
 体がふらりと揺れた。

「ダメだよ……リナ……泣かないで……泣いたら……」

 言葉が震えた。
 泣いたら、心まで壊れてしまう気がした。

 そのとき、風が吹いて、街の匂いが流れてきた。
 焼き鳥の匂い。
 ラーメン屋のスープの匂い。
 誰かが買ったおせちの香り。

 全部、リナの胃袋をぎゅっと締めつける。

「なんで……なんで私、こんなにお腹すいてるのに……誰も、見てくれないの……?」

 歩道を歩く人の声が、遠くでくぐもって響く。

「ねぇ、帰ったらすき焼きしよっか」

「紅白始まっちゃうよ、早く!」

 その幸せな声の波が、リナにはまるで別世界の音に聞こえた。

「……おばあちゃん……たべたいよ……」

 また一筋、涙が頬を伝った。
 涙はすぐ冷たくなり、風にさらされて消えた。

「ねぇ……ミリエル……今の……ほんとだったよね? 夢じゃないよね?」

 人形を胸に抱きしめると、布の固い感触が胸に痛く食い込む。

「もし……もう一回だけ、火をつけたら……あの匂い、もう一度来るかな……?」

 リナの手はまた木箱に向かいかけた。
 しかし、冷たい風が吹きつけ、我に返る。

「……ダメ。まだ、だめ。もう少し我慢する……」

 自分に言い聞かせるように、首を横に振った。

 ローストダックの幻の残り香が、まだ鼻に残っていた。
 喉が乾き、唇が割れそうだ。
 喉の奥がきゅうっと締まって、息を吸うたびに痛む。

 リナは自分の膝を抱き寄せるように縮こまった。

「……ほんとに、おいしそうだった……」

 それが、いちばん苦しかった。
 本当にそこにあるように見えたから。
 触れられると思ったから。

「……なんで消えちゃうの……?」

 問いは、雪と風の中に溶けていく。

 お腹は相変わらず痛くて、でも、リナは泣き続けることもできなかった。
 涙を流すほどの体力も、もう残っていなかった。

「ミリエル……あたし、もうちょっとだけ……がんばるからね……」

 人形の頭を撫でると、布の冷たさが指先に沁みた。

 あたたかさが欲しい。
 ただ、それだけなのに。

 マッチの燃えかすだけが、リナの膝の上でかすかに黒く光っていた。

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