6 / 29
第2話:最初の炎と幻の食卓
しおりを挟む
第2話:最初の炎と幻の食卓
『お腹の鳴る音』
どこからか、油の焼ける匂いがした。
空腹が幻を作っているのか、風のいたずらなのか分からないけれど、その匂いが鼻の奥をゆっくり撫でていく。
「……お腹、すいたね」
リナはポケットに手を伸ばし、祖母の形見の人形ミリエルの頭をそっと撫でる。指先はもう石のように冷たくて、布の感触さえ曖昧だ。
胃がぎゅるる、と鳴った。
大晦日の喧騒の中、その音だけがなぜか妙にはっきり耳に届いた。
「ねぇ……ミリエル。一本だけ……火、つけてもいいよね?」
答えはない。
けれど人形の柔らかい沈黙は、“いいよ”と言っているように聞こえた。
木箱を開くと、マッチの軸が綺麗に並んでいた。
細くて、折れやすそうで、それでもリナには宝物だった。
「よし……いくよ」
指が震え、うまく掴めない。
何度か落とし、拾い、ようやく一本をつまみ上げる。
「……お願い。ついて」
石のような指を必死に動かして、擦った。
――シュッ。
薄暗い歩道に、小さくてあたたかい火がぱっと咲いた。
「あ……あったかい……」
光が広がっていく。
氷の膜が張ったようだったリナの目の前が、一瞬で金色に染まった。
そして――現れた。
大きな丸いテーブル。
テーブルクロスは真っ白で、ふわりと湯気が上がっている。
「え……?」
思わず立ち上がりそうになった。
テーブルの中央には、大きなローストダック。
皮が油をまとってパリパリに焼けていて、ナイフを入れたら“パリッ”と音がしそうだった。
いや――音がした。
本当に聞こえた。
「うそ……夢……?」
湯気がゆらゆらと立ち昇り、甘く、かすかにスパイスの香りが混じった匂いが空気を包む。
リナは喉を鳴らした。
自分の口の中に唾液がじわっと広がるのが分かった。
「……食べたい……」
指先が勝手に伸びる。
ローストダックの表面に、光が反射してきらりと揺れる。
その艶やかな皮をちぎって口に運んだら、どんな味がするんだろう。
「これ……おばあちゃんの家の……匂いだ……」
祖母の家で食べたことなんてないのに。
でも、暖炉の前で嗅いだ、あの“あったかい匂い”と同じだった。
「……おばあちゃん……」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
そのとき――炎がふっと揺れた。
「えっ……まって……!」
炎が小さくなり、消えかけている。
リナは慌てて手を伸ばしたが、
――じゅ。
音を立てて、火は消えた。
「あっ……ああ……!」
明るかった世界が、いきなり夜に戻る。
温かい空気がすうっと逃げていく。
匂いも、湯気も、音も、全部、幻だったみたいに消えた。
「……やだ……やだよ……」
手の中のマッチは、黒い燃えかすになっていた。
消えた火の代わりに、胃の奥で鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
思わずお腹を押さえる。
中が空っぽすぎて、風が吹くだけで痛い。
体がふらりと揺れた。
「ダメだよ……リナ……泣かないで……泣いたら……」
言葉が震えた。
泣いたら、心まで壊れてしまう気がした。
そのとき、風が吹いて、街の匂いが流れてきた。
焼き鳥の匂い。
ラーメン屋のスープの匂い。
誰かが買ったおせちの香り。
全部、リナの胃袋をぎゅっと締めつける。
「なんで……なんで私、こんなにお腹すいてるのに……誰も、見てくれないの……?」
歩道を歩く人の声が、遠くでくぐもって響く。
「ねぇ、帰ったらすき焼きしよっか」
「紅白始まっちゃうよ、早く!」
その幸せな声の波が、リナにはまるで別世界の音に聞こえた。
「……おばあちゃん……たべたいよ……」
また一筋、涙が頬を伝った。
涙はすぐ冷たくなり、風にさらされて消えた。
「ねぇ……ミリエル……今の……ほんとだったよね? 夢じゃないよね?」
人形を胸に抱きしめると、布の固い感触が胸に痛く食い込む。
「もし……もう一回だけ、火をつけたら……あの匂い、もう一度来るかな……?」
リナの手はまた木箱に向かいかけた。
しかし、冷たい風が吹きつけ、我に返る。
「……ダメ。まだ、だめ。もう少し我慢する……」
自分に言い聞かせるように、首を横に振った。
ローストダックの幻の残り香が、まだ鼻に残っていた。
喉が乾き、唇が割れそうだ。
喉の奥がきゅうっと締まって、息を吸うたびに痛む。
リナは自分の膝を抱き寄せるように縮こまった。
「……ほんとに、おいしそうだった……」
それが、いちばん苦しかった。
本当にそこにあるように見えたから。
触れられると思ったから。
「……なんで消えちゃうの……?」
問いは、雪と風の中に溶けていく。
お腹は相変わらず痛くて、でも、リナは泣き続けることもできなかった。
涙を流すほどの体力も、もう残っていなかった。
「ミリエル……あたし、もうちょっとだけ……がんばるからね……」
人形の頭を撫でると、布の冷たさが指先に沁みた。
あたたかさが欲しい。
ただ、それだけなのに。
マッチの燃えかすだけが、リナの膝の上でかすかに黒く光っていた。
『お腹の鳴る音』
どこからか、油の焼ける匂いがした。
空腹が幻を作っているのか、風のいたずらなのか分からないけれど、その匂いが鼻の奥をゆっくり撫でていく。
「……お腹、すいたね」
リナはポケットに手を伸ばし、祖母の形見の人形ミリエルの頭をそっと撫でる。指先はもう石のように冷たくて、布の感触さえ曖昧だ。
胃がぎゅるる、と鳴った。
大晦日の喧騒の中、その音だけがなぜか妙にはっきり耳に届いた。
「ねぇ……ミリエル。一本だけ……火、つけてもいいよね?」
答えはない。
けれど人形の柔らかい沈黙は、“いいよ”と言っているように聞こえた。
木箱を開くと、マッチの軸が綺麗に並んでいた。
細くて、折れやすそうで、それでもリナには宝物だった。
「よし……いくよ」
指が震え、うまく掴めない。
何度か落とし、拾い、ようやく一本をつまみ上げる。
「……お願い。ついて」
石のような指を必死に動かして、擦った。
――シュッ。
薄暗い歩道に、小さくてあたたかい火がぱっと咲いた。
「あ……あったかい……」
光が広がっていく。
氷の膜が張ったようだったリナの目の前が、一瞬で金色に染まった。
そして――現れた。
大きな丸いテーブル。
テーブルクロスは真っ白で、ふわりと湯気が上がっている。
「え……?」
思わず立ち上がりそうになった。
テーブルの中央には、大きなローストダック。
皮が油をまとってパリパリに焼けていて、ナイフを入れたら“パリッ”と音がしそうだった。
いや――音がした。
本当に聞こえた。
「うそ……夢……?」
湯気がゆらゆらと立ち昇り、甘く、かすかにスパイスの香りが混じった匂いが空気を包む。
リナは喉を鳴らした。
自分の口の中に唾液がじわっと広がるのが分かった。
「……食べたい……」
指先が勝手に伸びる。
ローストダックの表面に、光が反射してきらりと揺れる。
その艶やかな皮をちぎって口に運んだら、どんな味がするんだろう。
「これ……おばあちゃんの家の……匂いだ……」
祖母の家で食べたことなんてないのに。
でも、暖炉の前で嗅いだ、あの“あったかい匂い”と同じだった。
「……おばあちゃん……」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
そのとき――炎がふっと揺れた。
「えっ……まって……!」
炎が小さくなり、消えかけている。
リナは慌てて手を伸ばしたが、
――じゅ。
音を立てて、火は消えた。
「あっ……ああ……!」
明るかった世界が、いきなり夜に戻る。
温かい空気がすうっと逃げていく。
匂いも、湯気も、音も、全部、幻だったみたいに消えた。
「……やだ……やだよ……」
手の中のマッチは、黒い燃えかすになっていた。
消えた火の代わりに、胃の奥で鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
思わずお腹を押さえる。
中が空っぽすぎて、風が吹くだけで痛い。
体がふらりと揺れた。
「ダメだよ……リナ……泣かないで……泣いたら……」
言葉が震えた。
泣いたら、心まで壊れてしまう気がした。
そのとき、風が吹いて、街の匂いが流れてきた。
焼き鳥の匂い。
ラーメン屋のスープの匂い。
誰かが買ったおせちの香り。
全部、リナの胃袋をぎゅっと締めつける。
「なんで……なんで私、こんなにお腹すいてるのに……誰も、見てくれないの……?」
歩道を歩く人の声が、遠くでくぐもって響く。
「ねぇ、帰ったらすき焼きしよっか」
「紅白始まっちゃうよ、早く!」
その幸せな声の波が、リナにはまるで別世界の音に聞こえた。
「……おばあちゃん……たべたいよ……」
また一筋、涙が頬を伝った。
涙はすぐ冷たくなり、風にさらされて消えた。
「ねぇ……ミリエル……今の……ほんとだったよね? 夢じゃないよね?」
人形を胸に抱きしめると、布の固い感触が胸に痛く食い込む。
「もし……もう一回だけ、火をつけたら……あの匂い、もう一度来るかな……?」
リナの手はまた木箱に向かいかけた。
しかし、冷たい風が吹きつけ、我に返る。
「……ダメ。まだ、だめ。もう少し我慢する……」
自分に言い聞かせるように、首を横に振った。
ローストダックの幻の残り香が、まだ鼻に残っていた。
喉が乾き、唇が割れそうだ。
喉の奥がきゅうっと締まって、息を吸うたびに痛む。
リナは自分の膝を抱き寄せるように縮こまった。
「……ほんとに、おいしそうだった……」
それが、いちばん苦しかった。
本当にそこにあるように見えたから。
触れられると思ったから。
「……なんで消えちゃうの……?」
問いは、雪と風の中に溶けていく。
お腹は相変わらず痛くて、でも、リナは泣き続けることもできなかった。
涙を流すほどの体力も、もう残っていなかった。
「ミリエル……あたし、もうちょっとだけ……がんばるからね……」
人形の頭を撫でると、布の冷たさが指先に沁みた。
あたたかさが欲しい。
ただ、それだけなのに。
マッチの燃えかすだけが、リナの膝の上でかすかに黒く光っていた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡
弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。
保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。
「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる