『Trick or Blood ―渋谷吸血夜譚―』

春秋花壇

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第2話 仮装の街、渋谷

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第2話 仮装の街、渋谷

 夜の渋谷が、まるで別の惑星みたいに光っていた。
 ネオンの滲む空気、甘い香水とアルコール、笑い声の波。
 スクランブル交差点の中央では、ピエロ、魔女、ゾンビ、囚人、神様――無数の“仮面”たちが入り乱れていた。
 ビルのガラスに反射した光が、まるで血管みたいに街を脈打たせている。

「すげぇ、やっぱ渋谷やばいな!」
 隣でカズが叫ぶ。
 「写真撮ろうぜ、ルイ!」
 「おいおい、人多すぎて写んないって!」
 笑いながら、類(るい)はスマホを構えた。
 シャッター音が鳴るたび、誰かの笑い声と音楽が混ざり合う。
 でも――何かが違って聞こえた。

 ざわざわと人の声が渦を巻く中、類の耳にだけ、妙に冷たい音が紛れ込んでいた。
 風がひとすじ抜けて、首筋を撫でる。
 柑橘の香りがした。
 その匂いは人混みのどこからともなく流れ、まるで“自分を探している誰か”の存在を知らせるようだった。

「ルイ! お前、顔色悪くね?」
 「え……そう?」
 「なんかぼーっとしてる」
 「うん……なんか、視線感じる」
 「視線?」
 カズがキョロキョロとあたりを見回す。
 人の波の中に、怪しい影なんて無数にある。
 でも――違う。
 その視線は、群衆のど真ん中から、まっすぐ貫いてくる感じだった。

 「見られてる気がするんだ。ずっと」
 「気のせいじゃね? ハロウィンだし、みんな浮かれてるし」
 「……かもな」
 類は笑ってみせた。
 けれど笑いが引きつる。心臓が、いつもより速い。
 ざわめきの中に、鼓動の音がやけに響いている。

 信号が青に変わる。
 人の波が一斉に動き出した。
 光と影の粒が、まるで液体のように混ざって流れる。
 その中で――彼はいた。

 黒いマント。
 白いシャツ。
 月光を反射する銀のチェーン。
 そして、異様に背が高い。
 “仮装”の域を超えていた。
 周囲の雑踏の中で、彼だけが時間を止めているように見えた。

「……あれ、見ろよ」
 カズが小声でつぶやく。
 「すげー完成度だな。あのドラキュラ」
 「……うん」
 類は目を逸らせなかった。
 その男――ヴァンの瞳が、赤く光った気がした。
 ほんの一瞬。
 でも確かに、彼の目が自分を見た。

 鼓動が跳ねた。
 どくん、と。
 体の中の血が一瞬で熱を帯び、喉が乾く。

 「おい、ルイ? 聞いてる?」
 「……ごめん。なんか……」
 「顔、真っ赤じゃん。酒の匂いだけで酔った?」
 「違う……」
 目の前の世界が少し滲んで見えた。
 ネオンが揺れる。人々の声が遠のく。
 ただ、彼――ヴァンだけが、鮮明に見えた。

 ドラキュラがゆっくりと歩き出す。
 人混みが彼のまわりだけ、まるで拒むように避けていく。
 類の足も、知らないうちに動いていた。
 「ルイ? おい、どこ行く!」
 カズの声が遠い。
 「ごめん、ちょっと……」
 「は!? ちょ、待てよ!」
 類は振り返らなかった。
 視線の先の男だけを追っていた。

 渋谷センター街の奥。
 ネオンの明滅が遠ざかり、音が薄くなる。
 路上ライブのギターが遠くで鳴っている。
 ドラキュラの背中は、曲のリズムに合わせるように滑らかに動いた。

 「……待って!」
 類は思わず声を出した。
 その瞬間、ヴァンが振り返る。
 赤い瞳が月明かりを反射して、まるで夜そのものが光っているみたいだった。

 「……君、さっきの交差点にいたね」
 「えっ……見てたんですか?」
 「見てた。君が僕を見たから、僕も見た」
 「は?」
 「視線って、魔法だよ。心が触れる」
 「……仮装の台詞ですか、それ」
 「仮装……?」
 男は微笑んだ。
 その笑みが、街の光を曇らせた。

 風が吹く。
 柑橘の香りがふっと鼻をかすめた。
 ――この匂い、さっきも。
 類の心臓がまた跳ねた。
 ヴァンのマントが風で揺れる。
 その動きが、なぜか人間らしくなかった。

「名前は?」
 「え?」
 「君の名前だ。知らないと、呼べない」
 「……類です」
 「ルイ。いい響きだ。月の言葉みたいだ」
 「月の言葉?」
 「この夜にぴったりだよ」
 ヴァンはそう言って、少しだけ近づいた。
 人の波の音が遠のいていく。
 代わりに、鼓動が耳を支配する。
 どくん、どくん、と。
 そのリズムに、街のベース音が重なった。

 「近い……ですよ」
 「距離は、幻さ」
 「は?」
 「僕たち、最初からずっと近かった」
 「そんなの、初対面なのに」
 「いや、魂は覚えている。前の夜も、前の命も」

 その言葉に、類は思わず息を呑んだ。
 ――前の命?
 冗談だと思いたかった。けれど、その瞳が笑っていなかった。

「君は……人間?」
 「え? なに言って……」
 「だって、こんなに鼓動がきれいだ。
  まるで音楽みたいに鳴ってる。
  ねえ、ルイ。僕の手を当ててもいい?」
 「は? ちょ、ちょっと待って――」
 ヴァンの手が胸に触れた。
 冷たい。
 でも、その冷たさが甘い。
 金属の指輪がシャツの上から肌に触れ、
 その瞬間、類の体がびくりと震えた。

「やっぱり……いい音だ」
 「や、やめてくださいっ」
 類は思わず声を上げ、手を払った。
 「何なんですか、あなた!」
 「僕? ただの迷子さ」
 「迷子?」
 「君という月明かりに導かれた、迷子の夜の生き物」

 ヴァンが微笑む。
 その声が、空気を震わせた。
 街の雑踏が再び押し寄せる。
 だが、音のすべてが鈍く感じられた。
 視界の色も変わっていく。
 紅い光。
 血のようなネオン。
 風の中に鉄の匂い。

 「もう行かなくちゃ。友達が待ってるんで」
 類は逃げるように言った。
 「行けばいい。でも――」
 「……?」
 「君の目は、もう僕を見た。
  だから、今夜が終わっても、また見つけるよ」
 「……」
 「逃げても、渋谷の街には出口なんてない」

 ヴァンの声が耳の奥に残る。
 類は人の波に紛れ込み、早足で歩いた。
 だが、どこへ行っても、視線の感触が消えない。
 背後で何かが見ている。
 振り返っても、そこには誰もいない。
 柑橘の香りだけが、風に残っていた。

 遠くでDJの声が響く。
 「ハッピーハロウィン、トーキョー!」
 群衆の歓声が上がる。
 光が弾け、空に紙吹雪が舞う。
 その瞬間、ネオンの光が赤に変わった。
 まるで、街全体が“血の色”に染まるように。

 類の鼓動が、またひとつ跳ねた。

 ――始まりの予感。
 それが恋なのか、呪いなのか、まだわからなかった。

(つづく)

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