『Trick or Blood ―渋谷吸血夜譚―』

春秋花壇

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第3話 見つめる者

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第3話 見つめる者

 夜はまだ終わらない。
 むしろ、ここからが本番だった。

 渋谷の街はさらに熱を帯び、ネオンが呼吸するように脈打っている。
 アルコールと汗の匂いが空気に混ざり、スピーカーから流れる低音が胸を震わせた。
 仮装した若者たちは、もはや何者かもわからない。
 ピエロが笑い、ゾンビが踊り、魔女がスマホを構えて自撮りをしている。

「なあルイ、次、クラブ行こうぜ!」
 カズが肩に腕を回してくる。
 「うん……でも、もう結構歩いたし」
 「まだ早いって! ほら、行こう!」
 「……ちょっと待って」
 類は足を止めた。
 人の波の中で、また“視線”を感じたのだ。

 背中を撫でるような、冷たい感覚。
 それは風でも汗でもない。
 まるで、誰かが後ろで息をひそめて見つめているようだった。

 「ルイ?」
 「……ごめん、ちょっと、誰かに見られてる気がする」
 「見られてる? ハロウィンだぞ? お前の制服姿、結構ウケてんじゃね?」
 「そういうんじゃない」
 類は首を振った。
 ざわめきが耳を刺す。
 人混みの圧力が、呼吸を奪っていく。

 見えないのに、確かに“誰か”がいる。
 遠くで、風鈴のような音がした。
 気づけば、空気が少し冷たくなっていた。

 ふと、スマホを取り出す。
 「何してんだ?」
 「カメラ、ちょっと見てみる」
 「カメラ? またインスタ?」
 「違う、なんか――」

 画面を通して周囲を映す。
 ネオン、群衆、紙吹雪。
 そのすべてが光の粒になって揺れている。
 だけど、その奥――。

 ひときわ静かな影が立っていた。
 黒いマント、白いシャツ、血のような紅。
 光の中で、唯一動かない“もの”。

 「……いた」
 「え? なに?」
 類はカズにスマホを向ける。
 「ほら、あそこ。ドラキュラみたいなやつ」
 「どこだよ?」
 「……え?」
 画面の中には、もう何も映っていなかった。
 ぼやけた霧のような残光だけが残っている。

 「ルイ、やばいって。疲れてんだよ」
 「いや、確かにいたんだ」
 「怖っ。ホラー映画の見すぎじゃね?」
 「違う……」

 類はスマホを握りしめる。
 指先が冷たくなっている。
 ポケットの中の手が、微かに震えた。

 「帰る?」
 「……うん、ちょっと休みたい」
 「じゃあマック寄る?」
 「うん」

 人の流れに押されながら、交差点を抜ける。
 誰かが笑い、誰かが叫び、紙吹雪が足元を滑る。
 吐く息が白い。
 ――夜の気温が、急に下がっている。

 「寒っ……さっきまでこんなじゃなかったのに」
 「お前、ほんとに大丈夫か?」
 「平気……」
 類は言いながらも、首筋にぞわりとした寒気を感じた。
 まるで、誰かの視線がそこに刺さっているようだった。

 振り返る。
 交差点の向こう、人混みの隙間に――赤い瞳。
 ほんの一瞬。
 でも、確かに見た。

 「……っ!」
 息が止まる。
 その瞬間、周囲の音がすべて遠のいた。
 群衆がスローモーションのように揺れ、ネオンの光が滲む。
 彼だけが、はっきりと見える。
 血のように紅い瞳。
 薄く微笑む唇。

 「また、会ったね」
 声が、耳の奥で響いた。
 周囲には誰もいないのに。
 類は、ただ立ち尽くした。

 「……カズ、今、聞こえた?」
 「え? なにが?」
 「声……」
 「え? 音楽しか聞こえねぇけど」
 「……そっか」

 類は再びスマホを構えた。
 レンズ越しに見ると、
 霧のような影の中で、ヴァンが微笑んでいる。
 赤いネオンに照らされ、輪郭がゆらゆらと揺れていた。
 だが、ピントが合わない。
 カメラを動かしても、どんな角度からも焦点が外れる。
 まるで、存在そのものが拒まれているみたいに。

 「……なんで、映らないの」
 「何が?」
 「いるんだよ、そこに!」
 「ルイ、落ち着け!」
 カズが肩を掴む。
 その手の温度がやけに熱かった。
 「お前、熱あるんじゃね?」
 「違う……本当に、見えてるんだって」
 「何が見えるんだよ!」
 「……あの人。ドラキュラみたいな……」

 その瞬間、スクランブル交差点の照明が一斉に落ちた。
 どこかで誰かが叫ぶ。
 街が、ほんの一瞬、暗闇に沈む。
 ざわめきが消え、音楽が止まる。

 そして、照明が戻ったとき――。
 赤い瞳が目の前にあった。

 「っ……!」
 息が詰まる。
 ヴァンの唇が動く。
 「君は、まだ僕から逃げないんだね」
 「え……な、なんでここに……!」
 「呼んだろう?」
 「呼んでない!」
 「嘘だ。目で呼んだ。レンズを通して、僕を見つけた」

 ヴァンの指先が、類の頬に触れた。
 氷のように冷たいのに、なぜか心臓が焼けるほど熱い。
 「離して……」
 「怖い?」
 「あたりまえだろ……!」
 「でも、逃げない」
 「……」
 「君の瞳が、もう僕を受け入れてる」

 類の視界がぼやける。
 ネオンが血のように滲んでいく。
 風が吹き抜け、息が白く散った。
 ヴァンの声が、耳元で囁く。

 「ルイ……君の世界は、僕のレンズ越しに見えるようになってる」
 「……どういう意味」
 「もう、普通の光では見えないってことだ」
 「なにを――」
 「いずれわかる。君が僕を見るたび、僕も君の中で息をする」

 そう言うと、ヴァンは笑った。
 街の音が戻る。
 ざわめき、歓声、カメラのシャッター。
 振り向いたときには、もう彼の姿はなかった。

 ただ、スマホの画面の中に、赤い点が残っていた。
 まるで、血のような紅。
 そこに滲むように浮かぶ言葉――
 《見つけた》

 類の手が震えた。
 スマホを落としそうになりながら、息を荒くする。
 「……なんだよ、これ……」
 冷たい風が頬を撫でた。
 人の波の中で、誰かの笑い声が遠ざかっていく。

 そのとき、類の背後で囁く声。
 「次は、君の瞳で見せて――僕の夜を」

 振り返っても、そこには誰もいなかった。

 夜は、まだ深くなる。
 そして、渋谷の街は――
 ますます血のように赤く、熱を帯びていった。

(つづく)

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