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第5話 古びた館
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第5話 古びた館
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
渋谷の街のざわめきも、遠くの笑い声も、一瞬で途絶えた。
そこはまるで、時間の流れが止まっているような静けさだった。
ヴァンに導かれて、類は古びた石畳を歩く。
足音がやけに響く。
冷たい夜気が頬を撫で、白い息がふわりと漂った。
目の前に現れたのは、渋谷の片隅に隠れるように建つ古い洋館だった。
蔦の絡まる外壁、錆びた鉄の門、砕けたステンドグラス。
月明かりに照らされ、まるで亡霊のようにその姿を浮かび上がらせていた。
「……ここ、廃墟ですよね?」
類の声が震える。
「そう見えるだけだよ」
ヴァンは静かに笑った。
「でも……」
「中へどうぞ。夜が君を待っている」
扉を開けると、かすかに鉄の匂いが鼻を刺した。
古い絨毯が足の裏に柔らかく沈み、天井から吊るされた燭台がゆらゆらと灯っている。
蝋燭の火が壁の影を伸ばし、ステンドグラスに映る色を赤く染めていた。
「……すごい。まるで映画みたい」
「映画よりもずっと古いよ」
「ここ、何年くらい……?」
「百年。いや、もっとかもしれない」
「そんな昔から?」
「この街がまだ村だったころからね」
ヴァンの声が静かに響く。
どこか懐かしい旋律を含んでいて、聞いていると胸の奥がざわめいた。
「……誰もいないんですか?」
「今はね。
昔は、たくさんいたよ。
音楽も、笑い声も、ワインの香りも、絶えなかった」
「……仮装パーティみたいな?」
類が笑おうとしたその瞬間、ヴァンが振り返った。
闇の中、彼の瞳が紅く光っていた。
まるで炎の奥に隠された宝石のように。
笑いは、喉の奥で凍りついた。
「……パーティ、か」
ヴァンはゆっくり近づき、ワインボトルを手に取った。
「それも、悪くない呼び方だね」
「え?」
グラスに注がれた液体は、光を受けて深紅に輝いた。
「ワイン?」
「たぶんね。飲んでみる?」
「……たぶん?」
「君が味で確かめればいい」
類はグラスを受け取った。
香りをかいだ瞬間、かすかに鉄の匂いがした。
甘く、そして生々しい。
「これ……ワインじゃないですよね」
「気づくのが早い」
「血……ですか?」
「血は、記憶だよ」
「記憶?」
「流れた時間の証。
誰のものかは、飲めばわかる」
「やめてください……冗談ですよね?」
「冗談を言うほど、人間に近くない」
蝋燭の光が、彼の頬の線を照らした。
影が美しくて、息を飲むほどだった。
類はグラスを置こうとしたが、手が震えて動かない。
「ルイ」
名前を呼ばれた。
その瞬間、心臓が跳ねる。
「君の血の色を、見せてくれないか」
「……や、やめてください」
「怖がらないで」
「だって……」
「君の中に流れているものを、ほんの少し知りたいだけ」
「“少し”って……」
「痛くしない」
ヴァンが一歩、近づく。
蝋燭の炎が揺れ、二人の影が重なった。
類の背中が壁に触れる。
冷たい石の感触。
息が詰まる。
「やめて……僕、人間なんですよ」
「だから美しい」
「あなたは……」
「怪物だと?」
「違う……」
「言ってごらん」
「……悲しい人」
ヴァンが少しだけ目を見開いた。
沈黙。
長い時間が、二人の間を通り抜けた。
「悲しい、か。……そうかもしれない」
ヴァンは小さく笑った。
その笑みが、泣き出しそうに優しかった。
「でもね、ルイ。悲しみを癒せるのは血だけなんだ」
「血で……?」
「命の熱。
冷たい夜を、ほんの一瞬だけ溶かす」
「そんな……」
ヴァンの手が、類の頬に触れた。
指先が冷たく、でもその下に確かに温度があった。
「君の心臓、まだ速いね」
「……怖いんです」
「それでいい。恐怖と欲望は、境界が同じなんだ」
「……やめてください」
「ほんの少し、触れるだけ」
唇が首筋に近づく。
息がかかる。
熱と冷たさが同時に襲う。
「やだ……」
「……怖がらないで。
君の血を奪うんじゃない。
分けてもらうだけだ」
牙が肌をかすめた。
瞬間、鋭い痛みと共に、甘い痺れが走る。
熱が背中から突き上げ、視界が滲む。
音が遠くなる。
「っ……!」
「大丈夫。すぐ終わる」
痛みが消え、代わりに、奇妙な快楽が広がった。
体の奥が火照り、心臓の鼓動が音楽のように響く。
目の前が紅く染まる。
ステンドグラスを通る光が血の色になって、世界を包んでいた。
「……きれい」
「そう、君の中の色だ」
ヴァンが囁く。
「この色を見ると、僕は生きてる気がする」
「……あなたは、死んでるんですか」
「死んだことも、生きたことも、もうわからない」
「そんなこと……」
「でも君に触れると、時間を思い出す」
ヴァンが唇を離す。
小さな赤い跡が、類の首筋に残っていた。
そこからわずかに血が滲み、冷たい空気に触れて痛んだ。
「ごめんね。少し強く噛んだ」
「……大丈夫」
「嘘だ。震えてる」
「寒いだけです」
「なら、もう少し温めようか」
「や、やめてください……」
「君の“やめて”は、いつも遅い」
「……っ」
ヴァンの指が唇に触れた。
その仕草は優しいのに、抗えない。
息が浅くなる。
「ルイ、覚えておいて」
「……何を」
「今夜、君は夜に招かれた。
一度扉を開けば、もう昼の光には戻れない」
「そんなの……いやです」
「でも君は、すでに選んだ。
あの視線を交わした瞬間から」
類は首を振る。
けれど、身体の奥では、確かに何かが変わっていた。
鼓動のリズムが違う。
空気の色が違う。
夜が、まるで自分の皮膚の中に入り込んでくる。
「……僕、どうなっちゃうんですか」
「まだ、何も。
これから“僕たち”になる」
「“僕たち”?」
「君と僕。
夜の呼吸を、ひとつにするんだ」
ヴァンが微笑む。
それは恐ろしくも、美しい笑みだった。
蝋燭の炎がゆらめき、二人の影が壁に重なる。
その重なりは、まるで誰かが抱き合って溶けていくように見えた。
外では、風が唸っていた。
ステンドグラスの向こう、夜空に赤い月。
まるでその光が、ふたりの罪を祝福しているようだった。
「ようこそ、ルイ。夜の館へ」
その言葉を最後に、
類の視界はふっと暗くなった。
ワインの香り。
鉄の匂い。
古い絨毯のぬくもり。
そのすべてが、夢と現実の境を溶かしていく。
(つづく)
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
渋谷の街のざわめきも、遠くの笑い声も、一瞬で途絶えた。
そこはまるで、時間の流れが止まっているような静けさだった。
ヴァンに導かれて、類は古びた石畳を歩く。
足音がやけに響く。
冷たい夜気が頬を撫で、白い息がふわりと漂った。
目の前に現れたのは、渋谷の片隅に隠れるように建つ古い洋館だった。
蔦の絡まる外壁、錆びた鉄の門、砕けたステンドグラス。
月明かりに照らされ、まるで亡霊のようにその姿を浮かび上がらせていた。
「……ここ、廃墟ですよね?」
類の声が震える。
「そう見えるだけだよ」
ヴァンは静かに笑った。
「でも……」
「中へどうぞ。夜が君を待っている」
扉を開けると、かすかに鉄の匂いが鼻を刺した。
古い絨毯が足の裏に柔らかく沈み、天井から吊るされた燭台がゆらゆらと灯っている。
蝋燭の火が壁の影を伸ばし、ステンドグラスに映る色を赤く染めていた。
「……すごい。まるで映画みたい」
「映画よりもずっと古いよ」
「ここ、何年くらい……?」
「百年。いや、もっとかもしれない」
「そんな昔から?」
「この街がまだ村だったころからね」
ヴァンの声が静かに響く。
どこか懐かしい旋律を含んでいて、聞いていると胸の奥がざわめいた。
「……誰もいないんですか?」
「今はね。
昔は、たくさんいたよ。
音楽も、笑い声も、ワインの香りも、絶えなかった」
「……仮装パーティみたいな?」
類が笑おうとしたその瞬間、ヴァンが振り返った。
闇の中、彼の瞳が紅く光っていた。
まるで炎の奥に隠された宝石のように。
笑いは、喉の奥で凍りついた。
「……パーティ、か」
ヴァンはゆっくり近づき、ワインボトルを手に取った。
「それも、悪くない呼び方だね」
「え?」
グラスに注がれた液体は、光を受けて深紅に輝いた。
「ワイン?」
「たぶんね。飲んでみる?」
「……たぶん?」
「君が味で確かめればいい」
類はグラスを受け取った。
香りをかいだ瞬間、かすかに鉄の匂いがした。
甘く、そして生々しい。
「これ……ワインじゃないですよね」
「気づくのが早い」
「血……ですか?」
「血は、記憶だよ」
「記憶?」
「流れた時間の証。
誰のものかは、飲めばわかる」
「やめてください……冗談ですよね?」
「冗談を言うほど、人間に近くない」
蝋燭の光が、彼の頬の線を照らした。
影が美しくて、息を飲むほどだった。
類はグラスを置こうとしたが、手が震えて動かない。
「ルイ」
名前を呼ばれた。
その瞬間、心臓が跳ねる。
「君の血の色を、見せてくれないか」
「……や、やめてください」
「怖がらないで」
「だって……」
「君の中に流れているものを、ほんの少し知りたいだけ」
「“少し”って……」
「痛くしない」
ヴァンが一歩、近づく。
蝋燭の炎が揺れ、二人の影が重なった。
類の背中が壁に触れる。
冷たい石の感触。
息が詰まる。
「やめて……僕、人間なんですよ」
「だから美しい」
「あなたは……」
「怪物だと?」
「違う……」
「言ってごらん」
「……悲しい人」
ヴァンが少しだけ目を見開いた。
沈黙。
長い時間が、二人の間を通り抜けた。
「悲しい、か。……そうかもしれない」
ヴァンは小さく笑った。
その笑みが、泣き出しそうに優しかった。
「でもね、ルイ。悲しみを癒せるのは血だけなんだ」
「血で……?」
「命の熱。
冷たい夜を、ほんの一瞬だけ溶かす」
「そんな……」
ヴァンの手が、類の頬に触れた。
指先が冷たく、でもその下に確かに温度があった。
「君の心臓、まだ速いね」
「……怖いんです」
「それでいい。恐怖と欲望は、境界が同じなんだ」
「……やめてください」
「ほんの少し、触れるだけ」
唇が首筋に近づく。
息がかかる。
熱と冷たさが同時に襲う。
「やだ……」
「……怖がらないで。
君の血を奪うんじゃない。
分けてもらうだけだ」
牙が肌をかすめた。
瞬間、鋭い痛みと共に、甘い痺れが走る。
熱が背中から突き上げ、視界が滲む。
音が遠くなる。
「っ……!」
「大丈夫。すぐ終わる」
痛みが消え、代わりに、奇妙な快楽が広がった。
体の奥が火照り、心臓の鼓動が音楽のように響く。
目の前が紅く染まる。
ステンドグラスを通る光が血の色になって、世界を包んでいた。
「……きれい」
「そう、君の中の色だ」
ヴァンが囁く。
「この色を見ると、僕は生きてる気がする」
「……あなたは、死んでるんですか」
「死んだことも、生きたことも、もうわからない」
「そんなこと……」
「でも君に触れると、時間を思い出す」
ヴァンが唇を離す。
小さな赤い跡が、類の首筋に残っていた。
そこからわずかに血が滲み、冷たい空気に触れて痛んだ。
「ごめんね。少し強く噛んだ」
「……大丈夫」
「嘘だ。震えてる」
「寒いだけです」
「なら、もう少し温めようか」
「や、やめてください……」
「君の“やめて”は、いつも遅い」
「……っ」
ヴァンの指が唇に触れた。
その仕草は優しいのに、抗えない。
息が浅くなる。
「ルイ、覚えておいて」
「……何を」
「今夜、君は夜に招かれた。
一度扉を開けば、もう昼の光には戻れない」
「そんなの……いやです」
「でも君は、すでに選んだ。
あの視線を交わした瞬間から」
類は首を振る。
けれど、身体の奥では、確かに何かが変わっていた。
鼓動のリズムが違う。
空気の色が違う。
夜が、まるで自分の皮膚の中に入り込んでくる。
「……僕、どうなっちゃうんですか」
「まだ、何も。
これから“僕たち”になる」
「“僕たち”?」
「君と僕。
夜の呼吸を、ひとつにするんだ」
ヴァンが微笑む。
それは恐ろしくも、美しい笑みだった。
蝋燭の炎がゆらめき、二人の影が壁に重なる。
その重なりは、まるで誰かが抱き合って溶けていくように見えた。
外では、風が唸っていた。
ステンドグラスの向こう、夜空に赤い月。
まるでその光が、ふたりの罪を祝福しているようだった。
「ようこそ、ルイ。夜の館へ」
その言葉を最後に、
類の視界はふっと暗くなった。
ワインの香り。
鉄の匂い。
古い絨毯のぬくもり。
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