『Trick or Blood ―渋谷吸血夜譚―』

春秋花壇

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第6話 噛み痕

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第6話 噛み痕

 朝。
 目を覚ました瞬間、首筋が熱かった。
 寝違えたような痛み。
 でも、それはもっと内側から燃えるような熱だった。

 枕元には、見覚えのない赤いワインの染み。
 手で触れると、かすかに鉄の匂いがする。

 「……血?」
 喉が乾いて声が出ない。
 昨夜の記憶が断片的に浮かんでは消える。
 古びた館、ステンドグラス、蝋燭の炎。
 そして――彼の瞳。

 「……あれは、夢?」

 洗面所へ行き、鏡を覗き込む。
 首筋には、うっすらと二つの赤い点が並んでいた。
 指で触れると、微かな痛み。
 それなのに、心臓が跳ねるように高鳴る。

 「なんで……こんな」

 頬が熱い。
 冷たい水で顔を洗っても、火照りは収まらなかった。
 体の奥から何かがうごめくような感覚。
 心臓の鼓動が、皮膚の下で強く脈を打っている。

 トクン、トクン――
 その音が、自分のものではない気がした。



 「おいルイ、大丈夫か? 顔、真っ赤だぞ」
 昼休み、教室でカズが心配そうに覗き込む。
 「うん……なんか、寝不足みたい」
 「また夜更かしか? ゲームやりすぎだって」
 「ちがう、そういうんじゃ……」
 言いかけて、言葉が喉で止まる。
 “夜”という言葉に、胸の奥がざわついた。

 窓の外では秋の日差しがまぶしく光っている。
 その光が、今日はやけに痛い。
 目の奥が熱く、視界が少し霞む。

 「熱あるんじゃね?」
 カズが手を伸ばしてきた瞬間、類は思わず身を引いた。
 「触らないで!」
 声が鋭く響いた。
 クラスの空気が一瞬止まる。
 「……ごめん、なんか、びっくりして」
 「お前、マジでどうしたんだよ」

 類は苦笑いを作って席を立った。
 「保健室、行ってくる」
 「ついてこうか?」
「いい。一人で行く」

 廊下に出ると、心臓の鼓動がさらに速くなった。
 耳の奥で、誰かの声がした気がする。
 ――ルイ。

 「……え?」
 振り向いても、誰もいない。
 空調の風が髪を揺らし、消毒液の匂いが流れる。
 けれど、その声は確かに聞こえた。

 “君はもう、僕のものだ”

 喉が乾き、胸が苦しい。
 足元がふらつく。
 保健室までの距離が、やけに長い。
 世界が、現実ではないように揺らいで見えた。



 放課後。
 夕陽が校舎を朱に染める。
 類はひとり、屋上にいた。
 風が冷たい。
 それなのに、体の内側は灼けるように熱い。

 「なんなんだよ、これ……」

 首筋に触れる。
 指先に脈動が伝わる。
 自分の心臓じゃない。
 誰かの――彼の鼓動が、そこにある気がした。

 “ルイ……”

 また、声。
 耳の奥、頭の中。
 囁くように、甘く、湿った声。

 「やめろ……やめてくれ……」
 風の音に混じって、その声は微笑むように続く。

 “君の血は僕を呼ぶ。
  夜が君の中に流れ始めている”

 「そんなの知らない! 勝手に……!」
 言葉とは裏腹に、体が疼く。
 痛みと快楽が同時に走る。
 足の力が抜け、フェンスに手をつく。

 “逃げなくていい。
  だって君は、僕を望んでる”

 「ちがう……!」
 “望んでるよ。
  その鼓動が、証拠だ”

 胸に手を当てる。
 心臓が激しく脈打ち、血が全身を駆け抜ける。
 頭が真っ白になり、息が乱れる。
 熱い。
 誰かに触れられているみたいに、全身が熱い。

 「ヴァン……どこにいるんだ……!」
 呼んでしまった瞬間、自分の声にぞっとした。
 その名を口にしただけで、空気が揺らいだ。

 “ここにいる”

 背後から、囁き。
 風が頬を撫で、背中に気配を感じた。
 振り向くと、そこに――ヴァンがいた。

 夜の影のように静かに立っている。
 黒い外套が風に翻り、赤い瞳が沈むように光る。

 「どうして……学校まで……」
 「呼ばれたから」
 「呼んでない!」
 「でも、君は僕の名を呼んだ」
 「っ……!」

 ヴァンが近づく。
 その動きは音もなく、風だけが残る。
 「顔色が悪いね」
 「あなたのせいだ!」
 「そうだね。
  君の血を吸った時から、僕らの間に“契約”ができた」
 「契約……?」
 「血の契約。
  君が生きている限り、僕も君の中で呼吸する」
 「やめて……そんなの、いらない」
 「いらないと言っても、もう流れ始めている」

 ヴァンの指が類の顎を持ち上げた。
 その手は冷たいのに、触れられたところから火がついたように熱が広がる。

 「君の体温、上がってる」
 「離せ!」
 「熱いね。
  それは君が僕を拒めなくなっている証だ」
 「うるさい!」
 「怒ってもいい。
  でもその心拍の速さは、僕を呼んでる」

 心臓が痛いほど脈を打つ。
 目の奥が焼けるように熱い。
 ヴァンの瞳が紅く揺れ、世界の色が滲んでいく。

 「やめろ……!」
 「君の中の夜が目を覚ましてる」
 「そんなもの……知らない!」
 「嘘をつくと、傷が疼くよ」

 その瞬間、首筋の噛み痕が熱を帯びた。
 まるで内側から光るように、火照りが広がる。
 痛い。
 でも、気持ちいい。
 その相反する感覚が、頭の奥を狂わせていく。

 「やめろ……お願いだ……!」
 「ルイ」
 「っ……」
 「君の中の鼓動、僕にも聞こえる。
  だから、君の“やめて”は、もう届かない」
 「どうして僕なんだ……」
 「君だけが、僕を見た。
  あの夜、あの視線で」

 ヴァンの声が、風のように頬を撫でる。
 その距離は、もう数センチ。
 類は必死に目を逸らす。

 「僕……もう、普通じゃいられないのか」
 「普通なんて退屈だ。
  夜は、君の新しい名前を呼んでいる」
 「新しい名前……?」
 「ルイじゃない。
  “ルイ・ヴァン”――僕のものだ」

 耳の奥で、その名前が響くたび、
 心臓がどくん、と跳ねた。
 快楽と恐怖の境界が、完全に溶けていく。

 ヴァンがそっと手を伸ばし、類の胸に触れた。
 「この鼓動、僕とひとつになってる」
 「やめて……」
 「もう、夜が君を選んだ」

 ヴァンの唇が近づく。
 その瞬間、世界が闇に飲まれた。

 心臓の鼓動、熱、息――すべてが遠のく。
 ただ、耳の奥で囁く声だけが残る。

 “ルイ……君はもう、僕のものだ”

 その声に、抗う力はなかった。
 類はただ、ゆっくりと闇の中へ堕ちていった。

(つづく)

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