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第7話 血の契約
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第7話 血の契約
夜の帳が落ちるころ、類はまたあの夢を見ていた。
闇に沈む洋館。
ステンドグラスから漏れる月光が、床に紅い模様を描いている。
風が鳴り、どこか遠くで鐘の音がした。
――その音に混じって、声がした。
“逃げても無駄だ。君の魂は、僕が選んだ”
類は飛び起きた。
額に汗が滲む。
胸の奥で、心臓が乱暴に打っていた。
「……まただ」
息を整えようとしても、喉が渇いて仕方がない。
水を飲もうと立ち上がった瞬間、
窓の外に影が見えた。
月の光の中に、黒いシルエット。
――ヴァン。
外套の裾が風に揺れ、赤い瞳が夜の中で光る。
「……どうして」
類は小さくつぶやいた。
その瞬間、窓の外の影が微かに笑う。
「どうしてって、君が呼んだからだよ」
声が耳元で響いた。
気づけば、窓の向こうにはもう誰もいない。
振り返ると、部屋の中に――ヴァンが立っていた。
黒い外套。
血のような紅いシャツ。
冷気のような存在感。
それなのに、息を呑むほど美しかった。
「また、夢ですか……」
「夢でもあり、現でもある」
「あなたは……僕をどうするつもりですか」
「何もしない。ただ、迎えに来ただけだ」
「迎えに……?」
「そう。君の血が、僕を呼んだから」
ヴァンがゆっくりと歩み寄る。
足音はしない。
代わりに、心臓の鼓動がひとつ鳴った。
その音が、夜気の中に溶けていく。
「やめて……もう、近づかないで」
「君の方が近づいてるんだ」
「違う……!」
「違わない」
ヴァンが指を伸ばし、類の顎を持ち上げた。
冷たい指先。
その温度に触れた瞬間、体の奥で熱が爆ぜた。
「……怖いです」
「怖いのは、愛に似ている」
「何言ってるんですか」
「僕は君に愛を与える。
代わりに、君の永遠をもらう」
「永遠……?」
「吸血鬼は、愛する者の“時間”を飲むんだ。
君の命が、僕の中で生き続ける」
「そんなの……怖いだけです」
「違うよ。
人間の愛は朽ちる。
でも、夜の愛は腐らない」
「……やめてください」
「やめられない。君の血の味を覚えたから」
その瞬間、ヴァンの目がわずかに赤く揺れた。
瞳孔が細くなり、獣のように光を飲み込む。
「君の中に流れる鼓動が、僕を狂わせる」
「だめ……来ないで!」
類は後ずさる。
だが、背中が壁にぶつかった。
逃げ場はない。
「もう、抗うのはやめよう」
「抗ってるわけじゃ……」
「違うかい?」
「ただ、わからないんです……。
あなたが怖いのか、好きなのか……」
その言葉に、ヴァンがわずかに微笑んだ。
「それでいい。
恐れと愛の境界でしか、真実の血は甘くならない」
ヴァンの手が、ゆっくりと類の髪を撫でた。
冷たいのに、心が熱くなる。
指が首筋を辿り、噛み痕に触れる。
その瞬間、痛みと快楽が同時に走った。
「やめ……っ!」
「痛い?」
「……あつい」
「それは僕の血が混ざっているから」
「あなたの……血?」
「君を傷つけたとき、僕も少しだけ血を与えた。
それが“契約”の始まりだ」
「……契約?」
「僕は君の中にいる。
君が息をするたび、僕の名を呼んでいる」
「そんな、ばかな……!」
「信じられないなら――確かめてごらん」
ヴァンが一歩近づく。
月光が彼の輪郭をなぞり、白い肌を照らした。
唇が、わずかに開く。
冷たい息が頬を撫でた。
「確かめる……って、どうやって」
「キスだよ」
「は……?」
「唇は真実を映す鏡だ。
君が僕を拒むなら、触れた瞬間に壊れる。
でも、もし君の心が僕を求めているなら――」
言葉の続きは、唇で塞がれた。
冷たい。
けれど、すぐに熱が追いかけてきた。
氷と炎が同時に流れ込むような感覚。
胸の奥で何かが弾け、世界の音が消えた。
ヴァンの唇が離れる。
その間際、舌先にわずかに血の味が残った。
鉄のように甘く、苦く、どこか懐かしい。
「君の血は、光の味がする」
「……やめて……そんなふうに言わないで」
「なぜ?」
「だって……おかしくなりそうなんです」
「それでいい。
堕ちることでしか、夜は見えない」
ヴァンが囁くたび、体の奥が熱くなった。
頭がぼうっとして、立っていられない。
「ヴァン……僕、どうなっちゃうんですか」
「もう人ではいられない。
でも、悲しまなくていい。
君は“僕の夜”になる」
「僕の夜……?」
「そう。
君が眠るたび、僕は君の夢に宿る。
君の鼓動で、夜が始まる」
ヴァンの手が胸に触れる。
鼓動が速くなり、熱が溢れる。
その音が、ヴァンの呼吸と重なっていく。
「ルイ、聞こえる?
君の心臓が、僕のものになる音だ」
「やめて……」
「やめない。
君の恐れが、僕の欲望を育てる」
ヴァンがもう一度、唇を寄せた。
今度は、もっと深く。
舌が絡み、血の味が混ざる。
冷たい唇に、熱い血が溶けていく。
「ん……」
「怖い?」
「わからない……」
「それでいい。
わからないまま堕ちていくのが、美しいんだ」
月光がカーテンの隙間から差し込み、二人の影を重ねた。
影が揺れ、まるでひとつに溶けていくようだった。
「ルイ」
「……なに」
「契約は、唇で完結する」
「やめて……!」
「もう遅い」
ヴァンが微笑み、ふたたびキスをした。
血と吐息が混ざり、時間が止まる。
世界が崩れ落ち、残ったのは心臓の音だけ。
ドクン、ドクン――。
鼓動が重なるたび、痛みと快楽が入り混じる。
胸の奥で、何かが壊れた。
同時に、別の何かが生まれた。
「……ヴァン」
「呼んだね」
「僕、もう戻れない」
「戻さない。
君の時間は、今、僕の中で燃えている」
ヴァンがその額に口づけを落とした。
「これで、血の契約は完了だ」
「……契約」
「僕の夜を、君に分け与える。
その代わり、君の永遠を僕にくれるんだ」
「……僕の、永遠……」
「そう。
君は僕の光であり、僕は君の闇になる」
ヴァンが離れると、部屋の空気が静まり返った。
月光の下、類の唇はわずかに赤く染まっていた。
その色は、血よりも鮮やかで、哀しいほど美しかった。
「ルイ。
これで僕たちは――ひとつだ」
その言葉が夜に溶けて、
風の音とともに、類の意識は暗闇に沈んでいった。
(つづく)
夜の帳が落ちるころ、類はまたあの夢を見ていた。
闇に沈む洋館。
ステンドグラスから漏れる月光が、床に紅い模様を描いている。
風が鳴り、どこか遠くで鐘の音がした。
――その音に混じって、声がした。
“逃げても無駄だ。君の魂は、僕が選んだ”
類は飛び起きた。
額に汗が滲む。
胸の奥で、心臓が乱暴に打っていた。
「……まただ」
息を整えようとしても、喉が渇いて仕方がない。
水を飲もうと立ち上がった瞬間、
窓の外に影が見えた。
月の光の中に、黒いシルエット。
――ヴァン。
外套の裾が風に揺れ、赤い瞳が夜の中で光る。
「……どうして」
類は小さくつぶやいた。
その瞬間、窓の外の影が微かに笑う。
「どうしてって、君が呼んだからだよ」
声が耳元で響いた。
気づけば、窓の向こうにはもう誰もいない。
振り返ると、部屋の中に――ヴァンが立っていた。
黒い外套。
血のような紅いシャツ。
冷気のような存在感。
それなのに、息を呑むほど美しかった。
「また、夢ですか……」
「夢でもあり、現でもある」
「あなたは……僕をどうするつもりですか」
「何もしない。ただ、迎えに来ただけだ」
「迎えに……?」
「そう。君の血が、僕を呼んだから」
ヴァンがゆっくりと歩み寄る。
足音はしない。
代わりに、心臓の鼓動がひとつ鳴った。
その音が、夜気の中に溶けていく。
「やめて……もう、近づかないで」
「君の方が近づいてるんだ」
「違う……!」
「違わない」
ヴァンが指を伸ばし、類の顎を持ち上げた。
冷たい指先。
その温度に触れた瞬間、体の奥で熱が爆ぜた。
「……怖いです」
「怖いのは、愛に似ている」
「何言ってるんですか」
「僕は君に愛を与える。
代わりに、君の永遠をもらう」
「永遠……?」
「吸血鬼は、愛する者の“時間”を飲むんだ。
君の命が、僕の中で生き続ける」
「そんなの……怖いだけです」
「違うよ。
人間の愛は朽ちる。
でも、夜の愛は腐らない」
「……やめてください」
「やめられない。君の血の味を覚えたから」
その瞬間、ヴァンの目がわずかに赤く揺れた。
瞳孔が細くなり、獣のように光を飲み込む。
「君の中に流れる鼓動が、僕を狂わせる」
「だめ……来ないで!」
類は後ずさる。
だが、背中が壁にぶつかった。
逃げ場はない。
「もう、抗うのはやめよう」
「抗ってるわけじゃ……」
「違うかい?」
「ただ、わからないんです……。
あなたが怖いのか、好きなのか……」
その言葉に、ヴァンがわずかに微笑んだ。
「それでいい。
恐れと愛の境界でしか、真実の血は甘くならない」
ヴァンの手が、ゆっくりと類の髪を撫でた。
冷たいのに、心が熱くなる。
指が首筋を辿り、噛み痕に触れる。
その瞬間、痛みと快楽が同時に走った。
「やめ……っ!」
「痛い?」
「……あつい」
「それは僕の血が混ざっているから」
「あなたの……血?」
「君を傷つけたとき、僕も少しだけ血を与えた。
それが“契約”の始まりだ」
「……契約?」
「僕は君の中にいる。
君が息をするたび、僕の名を呼んでいる」
「そんな、ばかな……!」
「信じられないなら――確かめてごらん」
ヴァンが一歩近づく。
月光が彼の輪郭をなぞり、白い肌を照らした。
唇が、わずかに開く。
冷たい息が頬を撫でた。
「確かめる……って、どうやって」
「キスだよ」
「は……?」
「唇は真実を映す鏡だ。
君が僕を拒むなら、触れた瞬間に壊れる。
でも、もし君の心が僕を求めているなら――」
言葉の続きは、唇で塞がれた。
冷たい。
けれど、すぐに熱が追いかけてきた。
氷と炎が同時に流れ込むような感覚。
胸の奥で何かが弾け、世界の音が消えた。
ヴァンの唇が離れる。
その間際、舌先にわずかに血の味が残った。
鉄のように甘く、苦く、どこか懐かしい。
「君の血は、光の味がする」
「……やめて……そんなふうに言わないで」
「なぜ?」
「だって……おかしくなりそうなんです」
「それでいい。
堕ちることでしか、夜は見えない」
ヴァンが囁くたび、体の奥が熱くなった。
頭がぼうっとして、立っていられない。
「ヴァン……僕、どうなっちゃうんですか」
「もう人ではいられない。
でも、悲しまなくていい。
君は“僕の夜”になる」
「僕の夜……?」
「そう。
君が眠るたび、僕は君の夢に宿る。
君の鼓動で、夜が始まる」
ヴァンの手が胸に触れる。
鼓動が速くなり、熱が溢れる。
その音が、ヴァンの呼吸と重なっていく。
「ルイ、聞こえる?
君の心臓が、僕のものになる音だ」
「やめて……」
「やめない。
君の恐れが、僕の欲望を育てる」
ヴァンがもう一度、唇を寄せた。
今度は、もっと深く。
舌が絡み、血の味が混ざる。
冷たい唇に、熱い血が溶けていく。
「ん……」
「怖い?」
「わからない……」
「それでいい。
わからないまま堕ちていくのが、美しいんだ」
月光がカーテンの隙間から差し込み、二人の影を重ねた。
影が揺れ、まるでひとつに溶けていくようだった。
「ルイ」
「……なに」
「契約は、唇で完結する」
「やめて……!」
「もう遅い」
ヴァンが微笑み、ふたたびキスをした。
血と吐息が混ざり、時間が止まる。
世界が崩れ落ち、残ったのは心臓の音だけ。
ドクン、ドクン――。
鼓動が重なるたび、痛みと快楽が入り混じる。
胸の奥で、何かが壊れた。
同時に、別の何かが生まれた。
「……ヴァン」
「呼んだね」
「僕、もう戻れない」
「戻さない。
君の時間は、今、僕の中で燃えている」
ヴァンがその額に口づけを落とした。
「これで、血の契約は完了だ」
「……契約」
「僕の夜を、君に分け与える。
その代わり、君の永遠を僕にくれるんだ」
「……僕の、永遠……」
「そう。
君は僕の光であり、僕は君の闇になる」
ヴァンが離れると、部屋の空気が静まり返った。
月光の下、類の唇はわずかに赤く染まっていた。
その色は、血よりも鮮やかで、哀しいほど美しかった。
「ルイ。
これで僕たちは――ひとつだ」
その言葉が夜に溶けて、
風の音とともに、類の意識は暗闇に沈んでいった。
(つづく)
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