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プロローグ
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プロローグ
『家の中の、いちばん遠い場所で』
冬の朝は、どうしてこうも音がよく響くのだろう。
キッチンで包丁をまな板に落とすたび、
コン、コンと乾いた音が家じゅうへ広がっていく。
冷蔵庫のモーター音が、まるでため息みたいに長く続く。
その向こう――階段を上がった先の部屋に、夫の気配だけがわずかに漂っていた。
「……今日も、降りてこないのね。」
声に出した瞬間、言葉は白い息になって宙に溶けた。
味噌汁の匂い。削り節の香りは、いつもと同じはずなのに、
食卓に並べようとすると、どれも不思議と冷たく見える。
私は、佐伯理恵、五十六歳。
夫の章夫は六十二歳。
結婚して三十年以上が経つのに、
いまの私たちは、家の中でいちばん遠い場所にいる。
階段の上から、足音が一つ落ちてきた。
ギシッ……ギシッ……
古い家だから、踏むたびに床が鳴る。
「おはよう、章夫さん。」
声をかけても、返事はない。
彼は新聞だけを取って、また階段を上がっていった。
私の横を通り過ぎるときの、あの冷たい空気。
ちいさな風が、頬をかすめるだけ。
「……新聞なら、下に置いとくって言ったのに。」
思わず呟く。
だけど、その声は食器棚のガラスに吸い込まれて消える。
届くはずもない。届くような間柄でも、もうない。
私はお椀に味噌汁をそそぎながら、指先の震えを押し殺した。
白い湯気がふわりと立ちのぼる。
その向こうに、かつての章夫の笑顔が見えたような気がして、
思わず目を閉じた。
――こんな朝じゃなかったはずだ。
昔は。
「味噌汁、少し薄いな」なんて文句を言って、
そのあと必ず「でも、うまいよ。ありがとう」って言ってくれた。
休日は二人で散歩して、
肩が触れるたびにくすぐったそうに笑っていた。
どうして、あんなふうに素直でいられたんだろう。
どうして、その素直さが消えていったんだろう。
「理恵、帰ったぞ」
「今日は外で食ってきた」
「うるさい、静かにしてくれ」
段々と、章夫の言葉は
短く、固く、どこか刺さるものばかりになっていった。
そして、ある日を境に、
言葉すら消えた。
沈黙が家の隅々まで浸み込むまで、時間はかからなかった。
◇
「……今日、パート遅いんだよね?」
階段の上から、ようやく声が降りてきた。
章夫だった。
その声に驚いて、振り返る。
「あ、うん……。午後からね。」
そのとき、ほんの一秒。
彼の視線が私に向いた。
だけど、次の瞬間には逸らされていた。
「別に。聞いただけだ。」
その言葉は冷たいけれど、
声の奥には、微かに“揺れているもの”を感じ取った。
不器用な優しさか、後悔か……それとも、単なる習慣か。
なににせよ、私の胸にひどく痛みを残す。
「章夫さん……ねぇ、話、少しーー」
言い終える前に、彼は踵を返した。
背中に向かって伸ばした声は、
結局、何にも触れずに床へ落ちた。
階段を上がる足音が遠ざかる。
扉が閉まる音が、家じゅうを震わせる。
バタン。
私はスプーンを握ったまま、動けなくなった。
味噌汁の湯気が静かにしぼんでいく。
「……私たち、何してるんだろう。」
声が震えた。
自分の声なのに、まるで誰か他人のようだった。
◇
パートへ向かう商店街は、雨の匂いがしていた。
冬の雨は体温を奪う。
傘に落ちる水滴の音が、心臓の鼓動と同じリズムで打ちつけてくる。
「理恵さん、顔色悪いよ?」
職場の同僚・美沙が、コーヒーを渡してくれた。
湯気の香りが、少しだけ肩の力を抜く。
「ありがとう……ちょっとね、家で……」
「また? あの人、ほんとにもう……。
あんた優しすぎるんだよ。もっと怒ったら?」
怒れたら、どれだけ楽だろう。
怒れたら、こんなに胸が痛まないのに。
「……怒れないよ。」
「なんで?」
「だって……まだ好きなんだもの。」
美沙が驚いた顔をした。
でも、口を開きかけた瞬間、私は先に微笑んだ。
好きだからこそ、苦しい。
好きだからこそ、離れられない。
好きだからこそ、あの沈黙が堪える。
“夫婦は、言葉を交わさなくても分かり合える”
そんな綺麗事は、嘘だ。
言葉を交わさなければ、心はすぐに迷子になる。
◇
夕方。
家に帰ると、廊下だけが妙に冷たい。
靴を脱ぐと、床の冷たさが足裏から伝わる。
「ただいま……」
その声は、返事のない家の壁に吸い込まれていった。
キッチンの電気をつけると、
朝用意した食事が手をつけられずに残っていた。
「そっか……いらなかったのね。」
箸を触ると、冷え切っていて、まるで誰かの心のようだった。
私は、自分の胸に手を当てる。
その奥が、チクリと痛んだ。
“いつからだろう。
家の中で、いちばん遠いのが、
いちばん近くにいるはずの人になったのは。”
階段の上。
夫の部屋の扉の向こう。
そこにいるはずの人の気配が、
いちばん遠い。
この家は広くない。
でも、二人の距離は、どれほど広がってしまったのだろう。
明日こそ、話してみよう。
そう思いながら、言えない明日が続いていく。
湯気のない食卓を前に、
私は小さく息を吸った。
「……ねぇ、章夫さん。
私、まだあなたと――」
その先を言う勇気が、どうしても出ない。
家は静かだ。
静かすぎるほど静かだ。
だけど、そんな静けさの中で、確かに私は感じていた。
このままじゃ終われない。
まだ、終わらせたくない。
再び湯気が立つ食卓を見る日が来るなら――
そのためなら、私はきっと、もう一度だけ前に進める。
そう思った瞬間、
遠くで、章夫の部屋の扉がきしんだ。
ひどく小さな音だったのに、
私の胸は、驚くほど大きく震えた。
『家の中の、いちばん遠い場所で』
冬の朝は、どうしてこうも音がよく響くのだろう。
キッチンで包丁をまな板に落とすたび、
コン、コンと乾いた音が家じゅうへ広がっていく。
冷蔵庫のモーター音が、まるでため息みたいに長く続く。
その向こう――階段を上がった先の部屋に、夫の気配だけがわずかに漂っていた。
「……今日も、降りてこないのね。」
声に出した瞬間、言葉は白い息になって宙に溶けた。
味噌汁の匂い。削り節の香りは、いつもと同じはずなのに、
食卓に並べようとすると、どれも不思議と冷たく見える。
私は、佐伯理恵、五十六歳。
夫の章夫は六十二歳。
結婚して三十年以上が経つのに、
いまの私たちは、家の中でいちばん遠い場所にいる。
階段の上から、足音が一つ落ちてきた。
ギシッ……ギシッ……
古い家だから、踏むたびに床が鳴る。
「おはよう、章夫さん。」
声をかけても、返事はない。
彼は新聞だけを取って、また階段を上がっていった。
私の横を通り過ぎるときの、あの冷たい空気。
ちいさな風が、頬をかすめるだけ。
「……新聞なら、下に置いとくって言ったのに。」
思わず呟く。
だけど、その声は食器棚のガラスに吸い込まれて消える。
届くはずもない。届くような間柄でも、もうない。
私はお椀に味噌汁をそそぎながら、指先の震えを押し殺した。
白い湯気がふわりと立ちのぼる。
その向こうに、かつての章夫の笑顔が見えたような気がして、
思わず目を閉じた。
――こんな朝じゃなかったはずだ。
昔は。
「味噌汁、少し薄いな」なんて文句を言って、
そのあと必ず「でも、うまいよ。ありがとう」って言ってくれた。
休日は二人で散歩して、
肩が触れるたびにくすぐったそうに笑っていた。
どうして、あんなふうに素直でいられたんだろう。
どうして、その素直さが消えていったんだろう。
「理恵、帰ったぞ」
「今日は外で食ってきた」
「うるさい、静かにしてくれ」
段々と、章夫の言葉は
短く、固く、どこか刺さるものばかりになっていった。
そして、ある日を境に、
言葉すら消えた。
沈黙が家の隅々まで浸み込むまで、時間はかからなかった。
◇
「……今日、パート遅いんだよね?」
階段の上から、ようやく声が降りてきた。
章夫だった。
その声に驚いて、振り返る。
「あ、うん……。午後からね。」
そのとき、ほんの一秒。
彼の視線が私に向いた。
だけど、次の瞬間には逸らされていた。
「別に。聞いただけだ。」
その言葉は冷たいけれど、
声の奥には、微かに“揺れているもの”を感じ取った。
不器用な優しさか、後悔か……それとも、単なる習慣か。
なににせよ、私の胸にひどく痛みを残す。
「章夫さん……ねぇ、話、少しーー」
言い終える前に、彼は踵を返した。
背中に向かって伸ばした声は、
結局、何にも触れずに床へ落ちた。
階段を上がる足音が遠ざかる。
扉が閉まる音が、家じゅうを震わせる。
バタン。
私はスプーンを握ったまま、動けなくなった。
味噌汁の湯気が静かにしぼんでいく。
「……私たち、何してるんだろう。」
声が震えた。
自分の声なのに、まるで誰か他人のようだった。
◇
パートへ向かう商店街は、雨の匂いがしていた。
冬の雨は体温を奪う。
傘に落ちる水滴の音が、心臓の鼓動と同じリズムで打ちつけてくる。
「理恵さん、顔色悪いよ?」
職場の同僚・美沙が、コーヒーを渡してくれた。
湯気の香りが、少しだけ肩の力を抜く。
「ありがとう……ちょっとね、家で……」
「また? あの人、ほんとにもう……。
あんた優しすぎるんだよ。もっと怒ったら?」
怒れたら、どれだけ楽だろう。
怒れたら、こんなに胸が痛まないのに。
「……怒れないよ。」
「なんで?」
「だって……まだ好きなんだもの。」
美沙が驚いた顔をした。
でも、口を開きかけた瞬間、私は先に微笑んだ。
好きだからこそ、苦しい。
好きだからこそ、離れられない。
好きだからこそ、あの沈黙が堪える。
“夫婦は、言葉を交わさなくても分かり合える”
そんな綺麗事は、嘘だ。
言葉を交わさなければ、心はすぐに迷子になる。
◇
夕方。
家に帰ると、廊下だけが妙に冷たい。
靴を脱ぐと、床の冷たさが足裏から伝わる。
「ただいま……」
その声は、返事のない家の壁に吸い込まれていった。
キッチンの電気をつけると、
朝用意した食事が手をつけられずに残っていた。
「そっか……いらなかったのね。」
箸を触ると、冷え切っていて、まるで誰かの心のようだった。
私は、自分の胸に手を当てる。
その奥が、チクリと痛んだ。
“いつからだろう。
家の中で、いちばん遠いのが、
いちばん近くにいるはずの人になったのは。”
階段の上。
夫の部屋の扉の向こう。
そこにいるはずの人の気配が、
いちばん遠い。
この家は広くない。
でも、二人の距離は、どれほど広がってしまったのだろう。
明日こそ、話してみよう。
そう思いながら、言えない明日が続いていく。
湯気のない食卓を前に、
私は小さく息を吸った。
「……ねぇ、章夫さん。
私、まだあなたと――」
その先を言う勇気が、どうしても出ない。
家は静かだ。
静かすぎるほど静かだ。
だけど、そんな静けさの中で、確かに私は感じていた。
このままじゃ終われない。
まだ、終わらせたくない。
再び湯気が立つ食卓を見る日が来るなら――
そのためなら、私はきっと、もう一度だけ前に進める。
そう思った瞬間、
遠くで、章夫の部屋の扉がきしんだ。
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私の胸は、驚くほど大きく震えた。
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