『夫、赤ちゃん化しました。』

春秋花壇

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『赤ちゃん返り、再び。──でも今回はひとりじゃない』

第6話:母、限界を迎える

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第6話:母、限界を迎える

 

その夜は、冬の空気が冷たく、壁の向こうで風が笛のように鳴っていた。
部屋の灯りは落とされ、カーテンの隙間から街灯の光だけが淡く差し込む。

柚が泣き始めたのは、午前1時27分。
スマホの画面が青白く光り、私はため息も飲み込んで立ち上がった。

「はいはい……大丈夫、大丈夫だよ。」

声はかすれていた。
笑顔を作ろうとして、うまく動かない頬に違和感を覚える。

抱き上げると、柚の体温がじんわりと胸に広がる。
ミルクの匂い、柔軟剤と赤ちゃん特有のあの甘い香り。
本来なら幸せな匂いのはずなのに、その夜は……ただ重かった。

 

「ママぁ……」

今度はベッドから陸が呼ぶ。
泣き声じゃないけど、その声にも“疲れた心”が乗っていた。

「柚ちゃんばっかりじゃん……。」

 

心臓が刺されたように痛む。

「あとで行くね。ちょっと待ってて。」

そう返した瞬間、背後からさらに声が飛ぶ。

「俺の毛布どっかいった……。」

夫だ。

 

(……もうやめて。)

胸の奥で、ぎゅうっと何かが締め付けられる。

私は柚を抱いたまま、キッチンに向かった。
ミルクを作る音だけが無機質に響く。
ケトルの湯気が白くゆらめき、照明に溶ける。

 

カーッと目の奥が熱くなる。
まばたきすると涙が零れた。

止めようと思っても止まらない。
頬を伝って顎まで落ち、ポタッと床へ。

 

ようやくミルクを柚に渡すと、今度は夫が近寄ってくる。

「なぁ、俺の毛布どこ──」

その瞬間だった。

 

「ねぇ!!」

声が跳ねた。
誰よりも私自身が驚くほど、大きく、鋭く。

 

柚も陸も夫も、ピタリと止まる。

私は呼吸が荒くなり、胸に手を当てながら叫んだ。

 

「赤ちゃんは……もう充分なんだけど!!!!」

 

静寂。

空気が固まる。
冷蔵庫の電気音だけが続く。

 

夫は眉を寄せたまま固まり、陸は下を向き、柚は驚いた顔で私を見ていた。

涙が次から次へとあふれてくる。
言葉が止まらない。

 

「お願い……私にも限界あるの。
いつも笑っていられないよ。
全部抱えて、全部気づいて、全部応えて……
そんなの無理だよ。」

  

声が震え、息が詰まる。

「私だって、誰かに抱っこしてほしい……。」

最後のひと言は、呼吸と一緒に崩れ落ちた。

 

沈黙が落ちたリビング。
柚が小さく指を動かし、陸がそっとティッシュを取った。

夫はゆっくり近づいてきて、いつになく真剣な声で言う。

 

「……ごめん。」

 

陸も、袖で鼻をこすりながらぼそり。

「ぼく、ママ困らせた……?」

 

私は首を振り、陸を抱き寄せた。
その腕の中に、柚、そして夫の手が重なる。

温度が、少しずつ戻ってくる。
泣き声の残り香と、ミルクの甘い匂い、冬の冷気。
全部がまだそこにあった。

 

私はようやく、息を吐くことができた。

「……ありがとう。気づいてくれて。」

 

夫が言う。

「これからは……俺もやる。
“お父さん”としてじゃなくて、
“夫として”も。」

 

陸が小さな声で言う。

「ぼくも……少しお兄ちゃん頑張る。」

 

私は涙のまま笑った。

 

――家族は完璧じゃない。
でも、こうして立ち止まって、向き合えるなら。
それだけで、充分だった。

 

その夜、3人と1人の赤ちゃんは、寄り添って眠った。
ぎゅうぎゅうで、狭くて、でもあたたかい布団の中で。

そして私は心の中で、そっとつぶやいた。

 

「……明日もきっと大変。
でも、今日よりひとつ、やさしくなれる気がする。」

 

家の中は静かだった。
私の胸の奥にも、ようやく静かな温度が灯っていた。



次は 第6話:夫と息子、共同戦線を張る日。

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