26 / 60
第二章
アレクシスの決断
彼の衣類が高価なものだと知っていて、汚さないよう、皺にならないようにと遠慮しながら上着の端をつまんだのだ。そうまでしてアレクシスの意識を向けたかった理由は、ストロング警視監に渡したメモと同じ、ハリントン男爵邸に居させてくれということだろう。
意志を示す瞳の強さとは裏腹な、遠慮がちな仕草に胸が痛む。どれほどの苦難を乗り越えてここまでやってきたのか、アレクシスにはその苦労を察するだけの想像力と洞察があった。
ジュリアナに受け入れられ、ようやく安心できると思った先のドミニクの提案だ。不安になるのも無理はない。それでも国家権力を後ろ盾にできる公爵家へ彼らを委ねるのが最善であることは間違いないのだ。
しかし。
先ほど危うく真相に迫りかけていたドミニクの推理。二人がバークリー公爵家に住むことになれば、当然ドミニクと接する機会も多くなる。もしドミニクがクラリスの性別だけではなく、二人がシエルハーンの王族だということまで突き止めてしまったらどうなるのか。
軽率で短慮で甘ったれた従兄弟だ。母親であるバークリー公爵夫人と同じように、悪意など持ち合わせてはいない。だが重要な秘密を共有できるような相手でないことも事実だ。
やはり、彼らの素性を明かすわけにはいかない。アレクシスはしぶしぶと、シエルハーンの王女と王子を自分の庇護下に置くことを認めた。
「ドミニク。ジュリアナには護衛がついているから心配する必要はない。ただ、その心遣いには礼を言っておこう」
アレクシスは視線を妹へ移した。
「ジュリアナ。俺の仕立て屋に連絡して、急いで二人の洋服を誂えさせろ。それから家庭教師を手配するんだ。金に糸目をつけず最高の教師を雇え。教科はひとまず国語と歴史、礼儀作法あたりでいいだろう。気分転換には何をさせてもいいが、危なくないものだけにするんだ。言っておくが乗馬は駄目だぞ。無理のないよう日程表を作って、計画的に勉強させるように。進捗はお前が管理してくれ」
兄の突然の要求にジュリアナは数度瞬き、ダンカンとドミニクは目を見合わせている。アレクシスは奇異に思われると十分に理解していたが、この姉弟を引き取ることになった以上出来る限りのことをすると決めていた。そう、シエルハーンの王族に相応しいことを。
「でもお兄様。二人はここで働きたいと言っていたわ」
「仕事などさせなくていい」
「いいえ、お兄様」
ジュリアナはつんと顎をそらした。兄と自分の意見が違った時に出る仕草だ。アレクシスは嫌な予感を覚えた。
「私、もう決めているの。フレディはお兄様の従者にするわ」
「はっ?」
「えぇっ!」
男二人は同じようにぎょっとして目を見開いている。ジュリアナは澄まし顔だ。
「何を言っている。俺に従者など必要ない」
「そ、そうだよ。アレクの従者は僕がすることになっているんだ」
「ドミニク、お前は黙っていてくれ」
「何を言っているのよ。次期公爵が従者なんてできるはずないじゃないの」
あっさりと断じられたドミニクはしゅんと肩を落としたが、アレクシスはそれを面白く思う余裕もない。
「お前が引き取ると言ったんだぞ。自分で面倒を見るのが道理だろう」
「私は一言だって、この子たちを客人扱いで預かるなんて言わなかったわ。そうでしょう、バリー」
「はい。お嬢様の仰るとおりでございます」
「ちょっと待て。だからと言って何も俺の従者などに」
「お兄様」
ついさっきまでいたずらっぽく目を輝かせていた妹が、両手を胸の前で組み合わせて急に悲しそうな顔になる。
「お兄様。ドミニクの言葉も一理あると思うの。私も未婚の娘だもの、いくら見た目が女の子のようでも、男性と四六時中一緒にいるのは好ましくないわ。私に悪い噂が立って婚期が遠のけば、亡くなったお母さまも悲しまれるはずよ。それに、もうずっとお兄様の身の回りの世話をする者はいなかったでしょう。バリーだって忙しいし、年齢も年齢だもの。あまり頼り切りになってもいけないから、この際正式に従者をつけるのはいい考えだと思うの」
アレクシスは眉間に皺を寄せ、反論の言葉を飲み込んだ。
妹の芝居がかった態度はともかく、ドミニクの指摘を否定はできない。ましてや亡母のことまで引き合いに出されては、アレクシスにできることはもはやないも同然だった。
もちろんフレディが実は女だと明かせば全ては解決する。しかし、二人を引き受けると決めたからには、秘密を知る者は少なければ少ないほどいい。アレクシスは口を閉ざした。
「ねえバリー。あなたもそう思わない?」
「はい。若は注文が煩さ……細かくていらっしゃいますので。無口で控えめで気が利き、若とお嬢様に色目を使わず、目の前に黄金を積まれても当家の内情を漏らさない者となると、おいそれとは見つかりません。ですが」
ダンカンは言葉を切り、主の後ろに立つクラリスへ目を遣った。
「見たところフレディは賢く控えめで、主の上着を皺にしないだけの分別もある。ロナルド様から拝見したメモを見るに、大層字も綺麗でした。若のご要望に限りなく近い方かと存じます」
アレクシスは心の中で思い切り舌打ちをした。したたかな妹と、主以上に注文の多い家令が結託すればろくなことはない。苛立ったアレクシスが二人を睨みつけた時、また遠慮がちな弱い力が上着に加わった。やれやれと思いながら見下ろすと、そこにはまた澄んだ菫色がある。
「……何か言いたいことでもあるのか」
再び上着をつまんだクラリスは、アレクシスの目を見つめながら唇を動かした。何か言いたいようだが、読唇に慣れていないアレクシスにはさっぱり分からない。
「あ……フレディ、僕が伝えようか」
弟が小声で助けを出すが、クラリスは弟を見て首を横へ振った。自分で直接伝えたいのだ。それからも何度かアレクシスに向かって口を動かしてみせるが結果は同じだった。
紙とペンを持ってきたほうが早い。メイドに合図をしようとしたアレクシスの右手を、今度はクラリスがキュッと握った。
「何を――」
咄嗟に握りしめた大きな拳を優しく開かせ、クラリスは手のひらを細い指先でなぞるようにして動かし始めた。
文字を書いているのか。アレクシスが驚きながら目で指の動きを追うと、だんだん彼女の伝えたいことが分かってきた。
――どうかわたしを あなたのそばで はたらかせて
分かりやすく意志を伝えるためだろう、長い文字を綴るのを避けた砕けた言葉だった。絶体絶命の危機をアレクシスに救われたことで、弟の分も合わせて何とか恩を返したいと思っているのだ。
だがクラリスは王女で、女性だ。それこそ四六時中男と過ごすのは不適切だし、何より王女に従者などさせられない。
「いいか、君たちのことを考えたらむしろ――」
アレクシスが納得していないと分かったクラリスは、また文字を書いた。アレクシスの広げた手を支え、右手の人差し指で手のひらをなでるようにして書かれた短い文字は、彼がいつも目にするものよりずっと特別に思える。
――おねがい どうかわたしを あなたのそばに
アレクシスは顔を上げ、クラリスの顔を見つめた。必死の様相で見つめ返すクラリスと、どことなく不安そうな弟のヴィクター。握られた手にクラリスの体温が伝わる。胸に不可解なほど大きな感情が押し寄せたが、それが何なのかアレクシスには分からなかった。
「お兄様、どうしたの?」
ハッとしたアレクシスは、勢いよく手を振りほどいた。
「いや。何でもない」
「でも……」
「ジュリアナ。お前の言うことも尤もだ。彼は俺が引き受けることにしよう」
「本当!?」
ジュリアナは兄の突然の変化に目を丸くしている。アレクシスは続けざまに指示を出した。
「ああ。だがさっき言った家庭教師の件は二人とも受けさせるように。勉強以外の時間はフレディを俺が、ヴィクターをお前が面倒をみることにする。それから言っておくが、従者といっても見習いだぞ。地味な仕事ばかりだ。根を上げるようならすぐに辞めさせてお前に任せる。いいな」
「アレク、従者は僕が……」
「お前を従者にすることはできないと言っただろう。だがその代わりに、二人に礼法を教えてくれ。回数はジュリアナと話し合って決めればいい。相応の謝礼を支払おう」
「やった! 母上も喜ばれるよ」
自分の意見を受け入れてもらった妹と、目先の仕事を与えられた従兄弟はきゃっきゃと喜び合っている。アレクシスは自分が引き受けると決めた二人に向き直り、厳しい口調で告げた。
「二人とも、すぐに仕事だ手伝いだと気を遣うのはやめろ。今のお前たちに必要なのは、ゆっくり休んで栄養を十分に摂ることだ。無理をして病気にでもなられたら敵わんからな。それから俺の庇護下にある以上、一番重要なのはお前たちの安全だ。自分勝手な振る舞いはしないよう気をつけてくれ」
ひと息に言いきって、それでも足りないと言わんばかりに辺りを見回した。
「ぐずぐずするな。皆、俺が言ったことを今すぐ始めるんだ。さあ、早くしろ!」
ジュリアナは上機嫌で、二人の背を押して歩き始めた。クラリスは喜びと戸惑いの入り混じった顔でアレクシスを見上げ、ぺこりと頭を下げていく。
部屋がしんと静まり返る。アレクシスはメイドまで追い出し、ようやく一人きりになった応接室でため息をついた。椅子に座りかけたところで思い直し、部屋の隅のワゴンに歩み寄る。
酒瓶の蓋を外し、勢いよくグラスに注いだ。アルコール度数の高い蒸留酒だ。グラスの酒は指四本分はある。
迎え酒だ。明日はもっと酷い頭痛に襲われるかもしれないが、それでも構わなかった。琥珀色の液体を一気に流し込む。喉を熱の塊が流れ落ち、一拍遅れて脳天にガツンと衝撃がきた。
タン、と音をさせてグラスを置き、再びため息をついて椅子に座る。目を閉じながら右手で額をこすった。
顔が熱いのは、きっと酒のせいだ。
あなたにおすすめの小説
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。(貴族→庶民)それにより、内容も少し変更しておりますのであわせてお楽しみください。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました
由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。
そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。
手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。
それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。
やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。
「お前に触れていいのは俺だけだ」
逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。
これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。
【完結】モブ令嬢としてひっそり生きたいのに、腹黒公爵に気に入られました
22時完結
恋愛
貴族の家に生まれたものの、特別な才能もなく、家の中でも空気のような存在だったセシリア。
華やかな社交界には興味もないし、政略結婚の道具にされるのも嫌。だからこそ、目立たず、慎ましく生きるのが一番——。
そう思っていたのに、なぜか冷酷無比と名高いディートハルト公爵に目をつけられてしまった!?
「……なぜ私なんですか?」
「君は実に興味深い。そんなふうにおとなしくしていると、余計に手を伸ばしたくなる」
ーーそんなこと言われても困ります!
目立たずモブとして生きたいのに、公爵様はなぜか私を執拗に追いかけてくる。
しかも、いつの間にか甘やかされ、独占欲丸出しで迫られる日々……!?
「君は俺のものだ。他の誰にも渡すつもりはない」
逃げても逃げても追いかけてくる腹黒公爵様から、私は無事にモブ人生を送れるのでしょうか……!?
わたしさえいなければ、完璧な王太子だそうです。
ふらり
恋愛
人並外れた美貌・頭脳・スタイル・武勇を持つウィンダリア王国の25歳の王太子は、完璧な王太子だと言われていた。ただし、「婚約者さえいなければ完璧な王太子なのに」と皆が言う。12歳の婚約者、ヴァイオレット・オルトニーは周囲から憐みの目を向けられていた。
「私との婚約は、契約で仕方なくなのかい? もう私に飽きてしまっている? 私は今でも君にこんなに夢中なのに」
13歳年下の婚約者少女に執着溺愛する美貌も能力も人間離れした王太子様と、振り回される周囲のお話です。小説家になろうにて完結しております。少しずつこちらにもあげていくつもりです。ファンタジー要素はちょっぴりです。
愛されないはずの契約花嫁は、なぜか今宵も溺愛されています!
香取鞠里
恋愛
マリアは子爵家の長女。
ある日、父親から
「すまないが、二人のどちらかにウインド公爵家に嫁いでもらう必要がある」
と告げられる。
伯爵家でありながら家は貧しく、父親が事業に失敗してしまった。
その借金返済をウインド公爵家に伯爵家の借金返済を肩代わりしてもらったことから、
伯爵家の姉妹のうちどちらかを公爵家の一人息子、ライアンの嫁にほしいと要求されたのだそうだ。
親に溺愛されるワガママな妹、デイジーが心底嫌がったことから、姉のマリアは必然的に自分が嫁ぐことに決まってしまう。
ライアンは、冷酷と噂されている。
さらには、借金返済の肩代わりをしてもらったことから決まった契約結婚だ。
決して愛されることはないと思っていたのに、なぜか溺愛されて──!?
そして、ライアンのマリアへの待遇が羨ましくなった妹のデイジーがライアンに突如アプローチをはじめて──!?
ある日、私は事故で死んだ───はずなのに、目が覚めたら事故の日の朝なんですけど!?
ねーさん
恋愛
アイリスは十六歳の誕生日の前の日に、姉ヴィクトリアと幼なじみジェイドと共に馬車で王宮に向かう途中、事故に遭い命を落とした───はずだったが、目覚めると何故か事故の日の朝に巻き戻っていた。
何度もその日を繰り返して、その度事故に遭って死んでしまうアイリス。
何度目の「今日」かもわからなくなった頃、目が覚めると、そこにはヴィクトリアの婚約者で第三王子ウォルターがいた。
「明日」が来たんだわ。私、十六歳になれたんだ…
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。