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愛と強奪
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―――思ったよりも早かったね。
ミクファはせっかちなのだろう。
事前に決めていた時間よりも三〇分も早く破壊音が轟き始めて、ヘルディはアリアの肩を優しく離す。
とろりと二人を繋ぐ唾液の糸を舐め切って、鍵を渡す。
「時間だ」
「……ん、……ふぇ?」
「なんて声出してるのさ。じ・か・ん。君は里に帰るんだよ。状況わかってる?」
「わ、わかってますよ!」
ぽーっとした顔を無理やり引き締めているアリアだが、涙が滲んだ目といい、熱い息といい、なんというかもう底が知れている。
鍵のついでに黒いローブと、バスタオルを一つ置いて、ヘルディは扉に手をかける。
その手を、掴まれた。
「なに?」
「………………え、あ。なんでも、ないです」
「そう。じゃあね。僕はナスチャを抑えないといけない」
なにか言いたげなアリアにそう言葉をかけて、ヘルディは牢から出た。
暴風が牢区画を席巻し、地上まで届く大穴を穿ったのは、それから一分後のことだった。
◇
「ちょっとちょっと……」
ダメージレポートの数値がおかしい。
ヘルディの負傷で夢を見ることができず、悶々としていたナスチャ=レインロードは慌てて居住区を飛び出した。
すでに、予感はあった。
―――こんな、竜巻に巻き込まれたような数値を叩きだせるのは、一人しかいない。
そして逃がせばナスチャも危うい。
責任問題で『苗床』処分になってもおかしくない。
「……大丈夫。まだ、向こうは本調子じゃない。設置型も総動員すれば……っ」
言い聞かせるような言葉が止まった。
牢区画へ向かう道を遮るように、隻腕となった男が立っている。
ふらふらの体で、それでも柔和な笑みを浮かべるヘルディは、朗らかに腕を上げた。
「なあ、ナスチャ。時間がないから本題に入ろう。今がどういう状況で、誰がそれを引き起こしたか、わかるだろ?」
「……血迷ったわね、調教師」
「君の感想は聞いてない」
冷たい声で言って、ヘルディは二本の指を立てた。
「君が取り得る選択肢は二つだ。一つ目、あくまでアリアの再確保に全力を挙げる。ただしその場合、僕は敵に回るし、増援のミクファも相手しないといけない」
「……二つ目は?」
「僕と一緒にどこかに逃げよう」
愛の逃避行ってやつさ、と少しの感情も籠っていない顔で告げられる。
―――何が、愛よ。
そんなもの、一度だって私に向けたことはないくせに、とナスチャは歯を食いしばる。
しかし、なにが一番悔しいかって、結局自分は、目の前の男の口車に乗るしかないのだ。
インキュバスに魅了されてしまった者として、追い詰められた者として。
少しでもあがきたくて、ナスチャは噛みつく。
「あなたを置いて、私だけ逃げることもできるのよ」
「助けてくれれば、僕が支払える対価は全て払おう。この体を君好みに汚しても良いし、夢でも誠心誠意、尽くすと誓う」
ヘルディは、握手を求めて右手を差し出す。
「…………」
「さあ、ナスチャ。決断してくれ」
主導権はこちらにあるはずなのに、レールはすべて向こうに用意されたように進んでいく。
しかし、ナスチャが、伸ばされた手に触れることはなかった。
それより前に、不自然な風の流れがヘルディの右腕を押しとどめたからだった。
握手のつもりがスカされて、ナスチャは目尻を吊り上げる。
「あんたねぇ……っ」
「いや。……違う、僕じゃない」
珍しく慌てたように辺りを見回すヘルディ。ナスチャも油断なく構えを取る。
犯人の声は上から降ってきた。
「ええ、そうですよ。あなたに好き勝手やらせると碌なことしないでしょうから」
翡翠色の髪に、夜に溶かしたような漆黒のローブ。
早くも地下牢の天井を全てぶち抜いたアリア=サレストが、重力を感じさせない挙動で浮いている。
「わからないな」
空を見上げて、心なしか早口でヘルディは言う。
「君はこんなところ抜け出て、さっさと里に帰ればいい。余裕な顔してるけど、限界なのはわかってる。魔力の底が尽きる前に……」
「うるさい」
「…………えぇ、え、え?」
ヘルディの反論はバッサリと切り捨てられて、そして隻腕の男も宙に浮く。
見えない腕で掴まれたような格好でアリアの隣に浮かんだヘルディを、飛ぶ術のないナスチャは地面から見ていることしかできない。
楽しそうにアリアは笑う。
「あなたは捕虜です」
「……はあ」
「いえ、よく考えたらこの手があったな、と。だって、あなたを盾にしていたらナスチャは攻撃できないでしょう? それにしても、っふふ、何ですかその顔。あなたでも驚くんですね」
「待ちなさいよ!」
握手のために伸ばしかけていた手をそのままアリアに向けて、ナスチャは吠える。
指先に高圧の水流を生じさせて、いつでも放てるようにする。
「攻撃できない? そんなわけないでしょ。あなたたち二人とも、両足ぶち抜いて撃ち落とすことだって……っ」
「できませんよ」
言い切る前に勝負は決していた。
水流は風に吹き散らかされ、大気に上から潰されてナスチャは地面に倒れ伏す。
「が、……が、ぐっ」
万力のような強さに抗えない。栗色の髪の一本一本まで丁寧に、押し花のようにされたナスチャに、最後にかけられたのはアリアの涼やかな声だった。
「さようなら。……彼は、もらっていきますね」
ミクファはせっかちなのだろう。
事前に決めていた時間よりも三〇分も早く破壊音が轟き始めて、ヘルディはアリアの肩を優しく離す。
とろりと二人を繋ぐ唾液の糸を舐め切って、鍵を渡す。
「時間だ」
「……ん、……ふぇ?」
「なんて声出してるのさ。じ・か・ん。君は里に帰るんだよ。状況わかってる?」
「わ、わかってますよ!」
ぽーっとした顔を無理やり引き締めているアリアだが、涙が滲んだ目といい、熱い息といい、なんというかもう底が知れている。
鍵のついでに黒いローブと、バスタオルを一つ置いて、ヘルディは扉に手をかける。
その手を、掴まれた。
「なに?」
「………………え、あ。なんでも、ないです」
「そう。じゃあね。僕はナスチャを抑えないといけない」
なにか言いたげなアリアにそう言葉をかけて、ヘルディは牢から出た。
暴風が牢区画を席巻し、地上まで届く大穴を穿ったのは、それから一分後のことだった。
◇
「ちょっとちょっと……」
ダメージレポートの数値がおかしい。
ヘルディの負傷で夢を見ることができず、悶々としていたナスチャ=レインロードは慌てて居住区を飛び出した。
すでに、予感はあった。
―――こんな、竜巻に巻き込まれたような数値を叩きだせるのは、一人しかいない。
そして逃がせばナスチャも危うい。
責任問題で『苗床』処分になってもおかしくない。
「……大丈夫。まだ、向こうは本調子じゃない。設置型も総動員すれば……っ」
言い聞かせるような言葉が止まった。
牢区画へ向かう道を遮るように、隻腕となった男が立っている。
ふらふらの体で、それでも柔和な笑みを浮かべるヘルディは、朗らかに腕を上げた。
「なあ、ナスチャ。時間がないから本題に入ろう。今がどういう状況で、誰がそれを引き起こしたか、わかるだろ?」
「……血迷ったわね、調教師」
「君の感想は聞いてない」
冷たい声で言って、ヘルディは二本の指を立てた。
「君が取り得る選択肢は二つだ。一つ目、あくまでアリアの再確保に全力を挙げる。ただしその場合、僕は敵に回るし、増援のミクファも相手しないといけない」
「……二つ目は?」
「僕と一緒にどこかに逃げよう」
愛の逃避行ってやつさ、と少しの感情も籠っていない顔で告げられる。
―――何が、愛よ。
そんなもの、一度だって私に向けたことはないくせに、とナスチャは歯を食いしばる。
しかし、なにが一番悔しいかって、結局自分は、目の前の男の口車に乗るしかないのだ。
インキュバスに魅了されてしまった者として、追い詰められた者として。
少しでもあがきたくて、ナスチャは噛みつく。
「あなたを置いて、私だけ逃げることもできるのよ」
「助けてくれれば、僕が支払える対価は全て払おう。この体を君好みに汚しても良いし、夢でも誠心誠意、尽くすと誓う」
ヘルディは、握手を求めて右手を差し出す。
「…………」
「さあ、ナスチャ。決断してくれ」
主導権はこちらにあるはずなのに、レールはすべて向こうに用意されたように進んでいく。
しかし、ナスチャが、伸ばされた手に触れることはなかった。
それより前に、不自然な風の流れがヘルディの右腕を押しとどめたからだった。
握手のつもりがスカされて、ナスチャは目尻を吊り上げる。
「あんたねぇ……っ」
「いや。……違う、僕じゃない」
珍しく慌てたように辺りを見回すヘルディ。ナスチャも油断なく構えを取る。
犯人の声は上から降ってきた。
「ええ、そうですよ。あなたに好き勝手やらせると碌なことしないでしょうから」
翡翠色の髪に、夜に溶かしたような漆黒のローブ。
早くも地下牢の天井を全てぶち抜いたアリア=サレストが、重力を感じさせない挙動で浮いている。
「わからないな」
空を見上げて、心なしか早口でヘルディは言う。
「君はこんなところ抜け出て、さっさと里に帰ればいい。余裕な顔してるけど、限界なのはわかってる。魔力の底が尽きる前に……」
「うるさい」
「…………えぇ、え、え?」
ヘルディの反論はバッサリと切り捨てられて、そして隻腕の男も宙に浮く。
見えない腕で掴まれたような格好でアリアの隣に浮かんだヘルディを、飛ぶ術のないナスチャは地面から見ていることしかできない。
楽しそうにアリアは笑う。
「あなたは捕虜です」
「……はあ」
「いえ、よく考えたらこの手があったな、と。だって、あなたを盾にしていたらナスチャは攻撃できないでしょう? それにしても、っふふ、何ですかその顔。あなたでも驚くんですね」
「待ちなさいよ!」
握手のために伸ばしかけていた手をそのままアリアに向けて、ナスチャは吠える。
指先に高圧の水流を生じさせて、いつでも放てるようにする。
「攻撃できない? そんなわけないでしょ。あなたたち二人とも、両足ぶち抜いて撃ち落とすことだって……っ」
「できませんよ」
言い切る前に勝負は決していた。
水流は風に吹き散らかされ、大気に上から潰されてナスチャは地面に倒れ伏す。
「が、……が、ぐっ」
万力のような強さに抗えない。栗色の髪の一本一本まで丁寧に、押し花のようにされたナスチャに、最後にかけられたのはアリアの涼やかな声だった。
「さようなら。……彼は、もらっていきますね」
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