あなたの愛など要りません

冬馬亮

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3巻

3-3

「ランスロットさま……」

 思いがけない出会いだった。道を聞いたのが始まりの、重なった偶然の上に交わした約束。
 闇夜のように漆黒の髪色をした、宝石のように赤い瞳の騎士。
 小さい頃、何度も読んだ物語の英雄と同じ名前。その名の通り、立派で優しくて気遣いにあふれる人だった。
 路上で意識を失った時、ランスロットさまが近くにいなかったらどうなっていただろう。
 石畳に体を打ちつけて動けなくなっていたら。連絡もできないまま、なかなかレオパーファ邸に戻れなかったら。お父さまから『逃げた』と見なされていたら……
 浮かぶ最悪の予想に、私はぎゅっと手を握りしめる。

「……ヨランダ」

 会いたくてたまらない人たちの顔が脳裏に浮かぶ。

「ジョアン……ロージー……ダビド……」

 私をこの屋敷に留め置くためだけに、連れていかれた家族。
 あの家族に何かあったら、私は一生自分を許せない。

「……大丈夫、ハロルド伯父さまにランスロットさまのご助力が加わったら、きっとすぐよ。もうすぐ、皆を……」

 祈りのように私は呟く。
 この四年間、いつか先行きが明るくなると願いながら辛い日々をやり過ごしてきた。いつか、いつかと。
 それは言い聞かせにも似ていた。
 そうして気持ちをなんとか取り繕い、朝が来るたびに私はまた起き上がれたのだ。もはや習慣となった祈りを、私は今夜も小声で呟いてからベッドにもぐる。
 大丈夫、きっともうすぐ、と。



     第三章 騎士ランスロットの決意


「シュテルフェン騎士団長、ランスロットです」

 王都の巡回警護の任を終え、王城の騎士団棟に戻った僕は、真っ直ぐに団長室に向かう。許可の声を待って中に入ると、執務用の机の前に座る騎士団長が笑顔で僕を迎える。

「今日の任務は終わったんだろう? 堅苦しい言い方は終わりにして、いつものように呼んでくれ、ランス」
「……はい、義父上」

 朱色の髪を揺らし、琥珀色の目を柔らかく細める高身長の男性は、キンバリー・シュテルフェン。穏やかな雰囲気をまとうが、王国騎士団長で、そして僕の義理の父親だ。少々ややこしいが、かつては叔父上と呼んでいた人。
 僕の実父――ヘンドリックは、母上との結婚後、愛人の家に入り浸ってバームガウラスの屋敷に寄りつかなかったという、実に不名誉な実績の持ち主である。
 実際、実父との初対面は、僕が十二歳になる少し前で、その時もちゃんとした会話はしていない。そんな実父の不在を補うべく、屋敷の離れに住んで母上をあれこれ助けたのが、祖父母と叔父上の三人だった。
 母上、祖父上、祖母上、そして叔父上に囲まれ、たっぷり手間と愛情をかけられて育った自覚がある僕は、肖像画でしか見たことがない実父の不在を寂しく思う暇などなかった。何を隠そう、幼い頃は叔父上を実父と勘違いしていたくらいだ。
 世では英雄と称えられていた実父だが、僕の人生には完全に不要でしかなく、早く母上を自由にしてほしいと密かに願うほどだった。
 そして、その願いが叶ったのは八年前。突然屋敷にやってきた実父は母上に離縁を言い渡し、いつの間にか愛人と王都を出ていった。
 けれど、それですぐに母上と叔父上が再婚、とはならなかった。
 なぜなら、自惚れでなく母上はとにかく僕が大事で、僕の幸せばかり考えているから。
 長く好意を寄せてきた叔父上には申し訳ないが、母上は叔父上のことなど全く眼中になかったのだ。
 加えて、実父との中身のない結婚生活の影響か、母上には恋愛感情への忌避感があったようにも思う。
 叔父上は頑張ってアプローチするものの、固い殻で覆われた母上の心にはなかなか届かない。叔父上は無理を通すタイプではないし、このまま母上の気持ちを尊重して身を引くのではないかと、むしろ僕のほうがハラハラした。
 実際、その通りになりかけたけれど、そこでようやくふたりの気持ちが通じ合い、結婚に至る。そうして僕の育ての父であった叔父上は、嬉しいことに戸籍上でも父となった。
 義父上は騎士爵を持っていたが、結婚祝いでバームガウラス公爵家が持つ爵位のひとつ、シュテルフェン伯爵位を譲った。母上を守るためにも爵位は少しでも高いほうがいいから。
 その後、ふたりの間に可愛らしい女の子――妹のミルドレッドが生まれる。ならば小さくても領地があるほうがいいだろうと、今度は祝儀として小さい領地を贈った。
 家名や爵位が別になっても、広いバームガウラス邸に僕ひとりを残すのは心配だったらしく、義父上と母上は結婚しても別の屋敷を構えなかった。それは祖父母も同じで、今も離れで暮らし、僕たちを見守ってくれている。
 僕が結婚した暁には、祖父母は領地に移って隠居生活を、そして義父上たちは別の場所に屋敷を構えると言っているが、どうやら実父の言動が僕の結婚観に密かに影響を及ぼしているようで、未だ婚約者の候補すら決められずにいる。
 公爵家当主としていつかは、と覚悟はしているけれど。

「義父上」

 昔も今も、困った時に一番頼りになる人。だから僕は、本日の任務を終えて真っ先にここに来た。

「実は、折り入って相談したいことができまして」

 僕の言葉に、義父上がうん? と首をかしげる。

「日報とは別に報告を上げるような件でもあったのかい?」

 たゆまぬ努力とひたむきな訓練で剣の腕を鍛え上げ、英雄と称えられた天才剣士の実父ヘンドリックに勝利し、騎士団長の座を手にした義父上は、長年の経験で察するものがあるらしい。柔らかな笑みを向けると、組んだ手に顎を乗せ、話を聞く姿勢を取る。
 勤務時間外だろうと、厭わず話を聞いてくれる。それは相手が僕だからというわけではなく、他の騎士たちでも変わらない。
 部下たちから慕われる騎士団長の、いつもながらの包容力に、思わず笑みが零れる。

「少々込み入った話になります。詳しくは戻りの馬車の中で説明しても?」

 騎士団棟の団長室とはいえ、扉のすぐ外に立たれては話が漏れ聞こえてしまう。その点、移動中の馬車の中なら安心だ。
 同意した義父上がすぐに席を立つ。
 今回のヴィオレッタ嬢の件。彼女の抱える事情は少々複雑で表立っての調査が難しいため、バームガウラス公爵家の諜報部隊を使うつもりでいる。
 つまり、騎士が騎士団長に行う報告ではなく、僕が個人的に義父上に打ち明ける極秘の相談。そこにあわよくば、騎士団長としての情報網と知識と伝手を貸してもらいたいという甘えを多分に含んでいる。
 だが義父上ならば、事情を知れば間違いなく協力してくれるだろう。
 王国の騎士団長を個人的な戦力として引き込もうというのだから、職権乱用もいいところだ。ヴィオレッタ嬢をあの屋敷に縛りつけておきたい奴は卑怯と僕を罵るかもしれない。
 だが、それがなんだ。構うものか。僕はどうしても、絶対に、確実に彼女を解放すると決めたのだ。
 屋敷に戻る馬車をゆっくりめに走らせ、まずは巡回中の出来事――ヴィオレッタ嬢を保護するまでの経緯を報告すると、義父上は家名に眉根を寄せる。

「レオパーファ侯爵家と言えば、夜会でいつもお前の後を追い回していた令嬢の家じゃないか。前妻の娘を使用人扱いとは……」
「はい。あの非常識で、無礼で、けばけばしい令嬢とは似ても似つかない、可憐で、清楚で、健気なご令嬢でした」
「……ほう。可憐で清楚で健気……」

 義父上はなぜか目をぱちぱちと瞬かせた後に、僕の顔をじっと見つめる。
 何かおかしな点でもあっただろうか。首をかしげた僕に、義父上はこほんと咳払いをして話を続けた。

「ええと、そうなんだね。団長になってしまうと、なかなか詰所に行く機会がなくてね。ふむ、そうか。その可憐で清楚で健気なご令嬢に会えなくて残念だよ」
「ああ、そうですよね。ヴィオレッタ嬢を救い出した時に、義父上にも紹介しますね。きっと、義父上とも気が合うと思います」
「……そうか、紹介してくれるのか。なるほど、楽しみにしているよ」

 義父上はなぜか、笑いを噛み殺したような微妙な表情で僕を見ている。

「……ええと、何か変だったでしょうか?」
「っ、いや、何も、何もおかしくないよ。ああ、いや、レオパーファ家はおかしいが」
「……? そうですね」
「んんっ、あ~、ランス、いいから気にせず話を続けてくれ」
「分かりました。では、次にヴィオレッタ嬢の母君なのですが……」

 母君の生家について聞いた義父上は、思案げに顎をさすった。

「トムスハット公爵家か」
「現公爵の妹君だそうです。体が弱くて、あまり社交はされていなかったそうですが……、義父上はお会いしたことがありますか?」
「トムスハット家は大きな商会を持っていて、代々そちらの経営に力を入れている。騎士職のバームガウラスとはあまり縁がないんだ。だが、現公爵家当主のハロルドとは面識があるよ。そういえば、体の弱い妹がいると言っていたのを聞いたことがあるな。そうか、その妹君がヴィオレッタ嬢の母君か……」

 記憶を辿っているのか、義父上の視線が窓の外の闇へ向けられる。

「そこまで親しいわけでもないが、ハロルドは芯のある真っ直ぐな男だ。姪御君の不遇を黙って見ているとは思えないが……」
「義父上のおっしゃる通りです。ヴィオレッタ嬢によると、彼女の伯父君が動いているそうです」
「なのに、母君が亡くなって四年経ってもまだ状況が変わらないのか? トムスハットのほうが爵位は上だ。レオパーファ侯爵だって無下にはできないはずだが」
「それが……人質を取られているので、彼らを無事に保護するまでは屋敷から逃げ出せないと、ヴィオレッタ嬢が……」
「人質が……? うん? ちょっと待て、ランス。今、彼と言ったか?」

 義父上はすぐに一番の問題に気づいた。僕は重々しく頷きを返す。

「はい。人質は四人、ヴィオレッタ嬢の乳母の一家です」
「一家四人を人質にだと……?」

 義父上が絶句する。無理もない、僕も同じ気持ちだ。
 ヴィオレッタ嬢の心境を思い、僕は拳をぐっと握りしめる。
 乳母の一家。幼い頃から世話を受け、共に時間を過ごした人たち。必然的に、感情面で強い繋がりができる相手だ。
 僕であれば、乳母のマーガレットとトンプソン先生、そして今は側近となったアルフとクルト。
 もし彼ら全員を人質に取られたら、僕だってまず救出の道を探るだろう。
 近しい者を人質に取って言うことを聞かせる――実に卑怯な手だ。それを使ったのが、よりにもよってヴィオレッタ嬢の実の父親。彼女の心痛はどれほどのものだろう。

「では、ハロルドはまず人質の保護に動いているわけか。だが、それでも四年は時間がかかりすぎていやしないか? トムスハット家は事業も成功していて、金も権力も地位もある。私設騎士団も抱えているはずだ。国内広しといえども、一家であれば、個人を捜すよりも容易いぞ」

 義父上の指摘はもっともだ。
 捜す対象が多ければ、年齢や性別、容姿、構成人数などから、痕跡や特徴を見つけやすくなるはずで、僕も疑問に思っていた。
 しかし、ヴィオレッタ嬢はこの点に関して何も知らないようだった。ここでふと、数刻前にジャックスと交わした言葉を思い出す。

「そういえば、迂闊に動けない、というような内容をヴィオレッタ嬢の味方らしき護衛の男が口にしていました」

 それがレオパーファ侯爵の敷いた監視体制と仮定して、トムスハット公爵による人質の捜索に影響を与えているとしたら……?

「なるほど。他にもまだ、レオパーファ侯爵がはかりごとを巡らしているものがあるかもしれない、ということか。だからハロルドも思うように動けずにいる、と……?」
「おそらくは」
「ふむ。確証はないが、その線は濃いかもしれないな」

 あらかたの報告を終え、僕は御者台側の小窓を開き、屋敷に向かうように告げる。

「……あの、義父上」

 馬車がゆっくりと進路を変更する。この場所からならば、そう時間もかからずにバームガウラス邸に到着するだろう。僕は少し早口で言葉を継ぐ。

「トムスハット公爵ですが、面識があるなら、義父上から連絡を入れてもらってもよろしいでしょうか。公爵からも話を伺いたいので」
「いいとも。私が行って聞いてこようか?」
「いえ、お口添えだけで十分です。どのような方か自分の目で見ておきたいので、僕が直接行って聞いてきたいと思います」
「そうか。まあ、そのほうがいいかもな。じゃあ、すぐに連絡を入れよう」

 ガクン、と馬車の速度が落ちる。
 バームガウラス邸の門を通り抜けたようだ。予想した通りのタイミングと、相談できてほっとしたのとで、軽く口角が上がる。

「返事は相手次第だが、早くて明後日かな。分かったら教えるよ」
「ありがとうございます。助かります」

 馬車回しに到着し、ゆっくりと停止した馬車の扉が開く。義父上に続いて僕が降りると、エントランスで母上と妹のミルドレッド――ミルが手を繋いで待っていた。

「あなた、ランス、おかえりなさい」
「おきゃえり、なしゃい」

 四歳になったばかりのミルの言葉はまだ拙く、舌足らずで可愛らしい。義父上とふたり、思わず頬が緩むのも不可抗力だ。
 母上とミルの後ろには、慣れ親しんだ使用人たちがずらりと並ぶ。そこにはもちろん、マーガレットやトンプソン先生、アルフとクルトの姿も見える。
 大切な人たちの顔を見て、帰ってきたと実感する。
 そして、ああ、ヴィオレッタ嬢はこんな日常を奪われたのだと怒りが湧いた。
 表情に出たのだろう、うっかり母上に見られてしまい、慌てて表情を取り繕ったが既に時遅く、母上が心配そうに首をかしげる。

「今日はお仕事が大変だったの? 眉間に皺が寄っているわよ、ランス」
「にいたま、おこってゆの?」

 ミルにまで心配されてしまった。これは兄失格だな。ああ、アルフやクルトも気遣わしげに僕を見ているじゃないか。

「今日はちょっと忙しくて。怒っていないよ、大丈夫だよ。ほら、ミル、おいで」

 きょとんと目を丸くしているミルを抱き上げ、高い高いをすると、きゃっきゃっと上がる笑い声。
 先を越されたと笑う義父上が、次にミルを抱き上げる。
 母上とミルは、それで誤魔化されてくれたけれど、アルフとクルトはそうはいかない。笑いながら廊下を進む義父上たちの後ろ姿を見送る僕に、ふたりは静かに近づき、「何かありましたか」と小声で囁いた。

「ああ、ちょっとね」

 表情管理に失敗するなんて情けないが、ふたりにはヴィオレッタ嬢関連で仕事を頼むつもりでいる。今夜のうちに情報を共有してしまおう。

「話がある。あとで部屋に来てくれないか」

 小声で囁き返すと、ふたりは分かったと頷いた。
 自室に戻り、着替えた後で、頭の中を整理する。

「……まずは、情報不足をどう補うかだな。アルフとクルトに話した後に確認しよう」

 義父上がトムスハット公爵と連絡を取るのを待って、ヴィオレッタ嬢の話を聞きに行く。バームガウラスの諜報部隊にも調査を指示し、必要な手段をいつでも取れるようにして……

「あとは……そうだ、ジャックスだ」

 ジャックスのレオパーファ家での立ち位置を確認するために、邸内の様子を探らないと。周囲の目を気にしているようだから、接触する際は慎重にするべきだろう。不注意で、ヴィオレッタ嬢にまで影響があってはいけない。

「……なぜこんなにヴィオレッタ嬢が気になるのだろうな」

 不幸そうに見えたとか、眠りながら泣いていたとか、お仕着せ姿に痩せた体、それらしい理由はたくさんあるが、「これだ」と言いきれるものがない。
 貴族でも平民でも、絵に描いたような幸せなどそうありはしない。それは僕も分かっている。
 会う人や知っている人、その全ての幸せを願い、苦難に手を差し伸べ、救い上げることなど、ただの人間である僕には不可能だ。
 かろうじて叶えられるとしたら、母上やミル、使用人や領民など、僕の手が届く人たちの幸せを守るくらい。それだってかなりの奮闘が必要だ。
 今日会ったばかりの他家の令嬢であるヴィオレッタ嬢が、奮闘してでも守るべき人たちの中に入ると主張するのは、きっと無理のある話。
 でも――それでも。
 あの時、彼女の瞳の中に見た、海のような青が忘れられない。
 透き通ったあの青が、悲しみに染まっているのを見たくない。
 叶うならば、あの綺麗な青が幸せそうに柔らかく細まり、もう一度そこに僕を映してくれるなら――なんて。
 なぜかそんなことを思ってしまうのだ。



     閑話 その一


 ――時間は少し遡り、ランスロットがヴィオレッタを馬車で侯爵家へ送っている時のこと。


「なあ、これはもしや恋ではないか? あの子がとうとう恋をしたのか」

 白の世界にて水鏡みずかがみを見ている俺――ヘンドリックの横で、灰色のローブの男が声を弾ませる。いつも飄々としているこの男にしては、感情が声に出るなど珍しい。
 今、水鏡が映し出しているのは、ラシェルが産んだ俺の息子――ランスロットだ。
 ローブの男はなぜかに甘く、「あの子」と呼んで、明らかに他の者たちより多く注意を向けている。
 彼曰く、俺をこの世界に連れてきて、心のひびを塞ぐ機会を与えたのは、を贔屓した結果らしいが、正直に言って意味が分からない。
 は俺をひどく嫌っている。
 なのに、俺を助けるような真似をして贔屓になるわけがないだろうに。むしろ、余計な手出しをしてくれたと恨まれるのが関の山だ。

「しかし……恋、だと?」

 二十歳の青年に成長したランスロットは、王都巡回中に、帰り道が分からずに困っていた娘と出会った。
 顔立ちは美しいが、みすぼらしいお仕着せ姿のその娘は道端で気を失い、それを助けたランスロットは詰め所に連れ帰って医者に診せ、食事をさせた挙句、何やら苦境に陥っているからと助力まで申し出る。
 明らかに巡回任務の範疇を逸脱した行為に呆れしかない。

「……あれのどこが恋なんだ?」

 ランスロットの行為は行きすぎではあるが、巡回中の救護活動自体はよくあることだ。
 俺も何度か経験した。それをいちいち恋と呼ぶなら、あちこち恋だらけで大変なことになる。
 そう言うと、ローブの男は大袈裟に溜息をつく。

「……まあ、まだ兆し程度だからな。鈍いお前には分からないよな」

 ――兆し? 
 そんなものがあったかと、これまで水鏡が映した光景を思い返しつつ首をかしげると、ローブの男が肩をすくめる。

「案外、言われてから見たほうが気づけるものだ。これからは注意して水鏡を眺めるんだな。そうしたらいつかきっと、たぶんお前でも気がつくだろう。うむ、おそらく、そのうちにな」

 ――いつかきっと、たぶん、おそらく、そのうちに……それは結局、いつなんだ?
 ローブの男の言いように、本当にその時が来るのか怪しい気もするが、いつかと言うなら、今分からなくても構わないかと思い直す。
 水鏡に視線を戻すと、ランスロットと娘が今も何かを話している。
 聞いている限りでは、少しばかり娘の状況は複雑なようだ。
 いなくなった使用人一家か……そして、それを画策したのが娘の実の父親……果たして二十歳のランスロットが上手く裁けるか。
 キンバリーが手伝うだろうし、まあ大丈夫だろう。
 あいつもランスロット贔屓のひとりだからな。それに、ランスロットも一応、次期副団長候補に名が挙がる程度には腕が立つ。
 ローブの男は、水鏡を眺めている俺をじっと見つめると、なぜか得意げにこう言った。

「お前は父親とは名ばかりで、ランスロットあの子の成長の何もかもを見逃してきた。せめて、初恋くらいは見守ってやることだ」
「……ふん」

 俺は鼻を鳴らす。
 男が、如何にもランスロットをよく知っているように話すのが癇に障る。
 自信満々に言い切って、そもそもこれが本当にランスロットの初恋でなければどうする気だ。
 だが、それはともかく、かつて王国騎士団所属の騎士だった者として、この件をどう扱うかは正直気になる。
 見た目が俺によく似ているくせに、俺とは全く違うランスロット。
 ラシェルからの全身全霊の愛を受けて育った俺の息子。
 必要不可欠な嫡男のはずなのに、なぜか目障りに思った生意気な子ども。
 いいだろう、見ていてやる。
 さあ、お前ならばどう動く……?



     第四章 茶番


 翌日、いつものように早起きをして、水くみや洗濯、野菜の皮むきや掃除をしていた私――ヴィオレッタを、メイド長が呼び止める。

「ご主人さまが、朝食を一緒にとのことです」

 そのひと言で一気に心が重くなる。きっと、昨日の外出時の件だろうから。
 お父さまは商会の関係者との会食があり、昨夜はいつもより帰宅が遅かった。知られずに済んだと安心するのは早かったようだ。食堂に向かう足取りが自然と重くなる。
 食堂の扉を開け、給仕するでもなく、真っ直ぐお父さまのもとへ歩む私を見て、案の定、お義母さまとお姉さまが眉根を寄せる。

「ちょっと、ヴィオレッタ。なんであんたがここに来るのよ?」
「やめなさい、イライザ。私が呼んだんだよ」

 不機嫌を露わにして問うお姉さまに、私より先にお父さまが答える。よほど意外だったのか、お義母さまもお姉さまも目を丸くしている。

「……お父さまが? どうして?」
「家族なんだから当たり前だろう。おはよう、ヴィオ。よく来たね。ほら、こちらに座りなさい」
「……はい」

 お義母さまとお姉さまからの鋭い視線を感じつつ、お父さまの言葉に従って席に着く。
 本邸の食堂での食事なんてずいぶんと久しぶり。なのに、さらりと『当たり前』と言えるお父さまが本当に苦手だ。
 指定された席はお父さまの右隣で、お義母さまの向かい側。着席してまもなく、普段はあれこれと私に仕事を指図するメイドたちが、目の前にそっと皿を並べていく。とにかく居心地が悪い。
 ベーコンの横に添えられているのは、私が早朝にせっせと皮むきした野菜をグリルしたもの。スープの具もそう。それらを恭しくサーブされるのは、なんとも妙な気分である。
 彩り鮮やかで種類も豊富、最後に料理長が確認した完璧な味付けの、何年ぶりかの温かい食事。

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