76 / 128
まだ、あともう少しだけ
しおりを挟む毎日、毎日、夢に見るのは同じ景色。
背後には森、目の前に広がるは大きな水の流れ。
アレハンドロは橋の上に立っていた。
風がふわりと髪を揺らす。
夢なのに何故だろう。肌が風の涼やかさを感じる事が出来る。
そよそよと微かに聞こえる水流の音、ささやかな木々の葉ずれ。
理由も分からず、ただ懐かしさだけを感じるこの光景に、何かが足りないと思いつつ、けれどそれが何なのかを知る事に恐怖を覚える。
アレハンドロはいつも、この夢の中で橋の欄干の上に立っている。
そして、眼下の川の流れを眺めるのだ。
何かを探すように、必死に目を凝らして。
けれど同時に、そこに何も見つけられないことも知っている。
流れはひどく緩やかで、川面に乱れの一つもない。そこに何も隠されていないのは明らかだ。
そう。だからこれは気のせいだ。
彼と同じ赤茶色の髪と琥珀色の瞳が、ふとした瞬間、視界に映るような気がするのは。
ふわりと微笑み、まるで散歩にでも向かうかのように、穏やかに軽やかに水に呑み込まれていく幼な子の姿が一瞬だけよぎるのは。
アレハンドロは激しく頭を振る。
胸を押さえ、眉間に深い皺を刻みながら。
・・・ちがう。
あれはミルッヒじゃない。
だって、ぼくのミルッヒは。
ぼくのミルッヒは、ちゃんとあそこにいたじゃないか。
アレハンドロは、病室によく顔を出してくれる女性の顔を思い浮かべる。
そうだ、ぼくのミルッヒは、はれた日のそらとおなじかみのいろをしてるんだ。
そして、きれいな、きれいなみどりいろの目をもっている。
だから、あれはミルッヒじゃない。
あそこにみえるのは、ミルッヒじゃないんだ。
みずのなかにしずんでいくあの子は、ぼくのミルッヒじゃ、ない。
だって、そうじゃなかったら。
そうじゃなかったら、ミルッヒは。
ほんとうのミルッヒは、いまどこにいるというの?
アレハンドロは唇を噛んだ。
夢なのに痛みを感じ、薄らと血が滲む。
「ミルッヒ・・・」
アレハンドロの呟きは風に乗る。
彼以外の人間が存在しない夢の世界で、その呟きを拾う者はいない。
その呼びかけに答える人も、その名を聞いてアレハンドロに恐怖を覚える人も、氷のような視線でアレハンドロを刺す人も、誰ひとりいないのだ。
「いやだ、いやだよ、ミルッヒ・・・」
アレハンドロは、本当は答えを知っている。
知っている、けれど。
それに、決して目を向けない。
分かっていて、敢えて目を逸らす。
そのことに気づいているのは、夢の中のアレハンドロだけだ。
目覚めた後の彼でさえ、それを知らない。
だから大丈夫。
苦しいのは今だけ、この夢の中でだけだ。
こうしていれば、こうやってやり過ごしていれば、何も気づかないまま現実の世界で夢を見ていられる。
本当は何もかもを失ってしまった事を。
自分の手には何も残っていない事を、知らないままで過ごしていける。
まだ彼方の俺は、何にも気づいていないのだから。
毎夜毎夜、美しいこの流れの上で、ひとり苦しんでいればそれで済む。それで終わる。
だから大丈夫。
胸が張り裂けそうに痛くても、涙で視界が滲んでも。
視界の端で、何度あの幼い子が水の中に呑み込まれる幻に苦しんでも。
まだ耐えられる。まだ、あともう少しだけ。
あと少しだけでいいから。
彼方の世界で、もう少しだけ幸せな夢を見させてほしい。
そんな世界ももしかしたらあったのかもしれないと、信じさせてほしい。
「ミルッヒ・・・」
最後の呟きを漏らしたのは、彼方だったか此方だったのか。
それももう分からない。
だって、起きた時のアレハンドロは、もう夢の中での事など全く覚えていないのだから。
「・・・? あ、れ・・・?」
けれど、それでも。
病室のベッドで朝日に包まれるたび、アレハンドロは戸惑いを覚える。
毎朝毎朝、そう、目覚めればいつも。
これは一体どういうことかと惑うだけ。
だって、目覚めればアレハンドロの枕は涙で濡れそぼり、唇や手の平には血が滲んでいるのだから。
115
あなたにおすすめの小説
私は貴方を許さない
白湯子
恋愛
甘やかされて育ってきたエリザベータは皇太子殿下を見た瞬間、前世の記憶を思い出す。無実の罪を着させられ、最期には断頭台で処刑されたことを。
前世の記憶に酷く混乱するも、優しい義弟に支えられ今世では自分のために生きようとするが…。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめる事にしました 〜once again〜
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【アゼリア亡き後、残された人々のその後の物語】
白血病で僅か20歳でこの世を去った前作のヒロイン、アゼリア。彼女を大切に思っていた人々のその後の物語
※他サイトでも投稿中
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
許婚と親友は両片思いだったので2人の仲を取り持つことにしました
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<2人の仲を応援するので、どうか私を嫌わないでください>
私には子供のころから決められた許嫁がいた。ある日、久しぶりに再会した親友を紹介した私は次第に2人がお互いを好きになっていく様子に気が付いた。どちらも私にとっては大切な存在。2人から邪魔者と思われ、嫌われたくはないので、私は全力で許嫁と親友の仲を取り持つ事を心に決めた。すると彼の評判が悪くなっていき、それまで冷たかった彼の態度が軟化してきて話は意外な展開に・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる