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走った理由
しおりを挟む「姉さまが急にいなくなっちゃって、すごく寂しかった」
少し拗ねた口調で語る弟に、ナタリアは苦笑した。
休憩をもらい、ナタリアは久しぶりに再会したフリッツと二人、中庭のベンチに並んで腰掛ける。
「フリッツ。ここにはどうやって・・・?」
「父さまから聞いたの。姉さまはここで働いてるって」
「・・・そう。一人で来たの?」
分かってはいるが、敢えて聞いてみる。
案の定、フリッツは首を左右に振った。
「父さまが送ってくれました。ちょっと遠いから、僕ひとりでは心配だって。あ、父さまは外で待ってくれてます」
やっぱり。
ナタリアは唇を噛む。
父は、今度はフリッツを使うつもりなのだろうか。
除籍届にサインをさせるため、ライナルファ家は父にかなりの金額を渡したと聞いていた。
だが、この様子ではその金ももう使い切ってしまったのだろうか。
いや、それにしても早すぎる。
正式に通達が出された後ではもうナタリアに手出しが出来なくなるから、最後の足掻きでフリッツを使うことを思いついたのかもしれない。
なにせナタリアが自発的に戻って来るならば、侯爵家からもらった金も返さずに済むのだから。
父の思惑が透けて見え、ナタリアはひっそりと息を吐いた。
なにしろフリッツのことが気にかかっていたのは本当だ。
子爵家の後継になる子だからナタリアの様な扱いは受けないとしても、彼が一番に慕っていたのは姉のナタリアだった。
当然、ナタリアも弟を大切に思っている、それは籍を離れた今も。
その弟から涙目でじっと見上げられてしまえば、罪悪感は否応なく刺激された。
「ねえ、姉さま。どうしてずっと家に帰って来ないの? 父さまに聞いても教えてくれないんです」
「・・・フリッツ。あのね、姉さまの家は、もうあそこじゃないのよ」
どうやって分かってもらおうか、そう考えながらナタリアは口を開く。
前は、父であるオルセン子爵自ら病院に乗り込んで来て騒ぎになった。
だが、病院警護の者に阻まれ、更にはライナルファ家から手切れ金を渡されたことで大人しくなったのだ。
それを知らないフリッツは、ナタリアの言葉に悲しそうに眉を下げる。
「もし父さまと喧嘩したのなら、僕も一緒に謝ります。だから、姉さま、僕と一緒に・・・」
「ありがとう、フリッツ。でもね」
何も事情を知らないからこそ、フリッツの縋るような目は堪えた。
だから敢えて弟の言葉を最後まで聞かず、途中で遮る。
「私は、もうオルセンの家の者ではないの。もう手続きは終わって後は通達が来るのを待つだけなのよ」
「え・・・?」
フリッツがぱちぱちと目を瞬かせる。
九歳の子に全てを打ち明けるのは酷だろう、だが、こうして弟が父に上手く利用されている事を考えると、ある程度は話さない訳にはいかなかった。
「姉さまは平民になるの。そして、働いて自分で生きていくつもりなのよ」
フリッツの目が大きく見開かれる。
「え、と・・・へいみん? 姉さまは僕の姉さまじゃなくなっちゃうの・・・?」
「書類の上ではね。でもあなたが姉さまの可愛い弟だってことはこれからも変わらないわ」
困惑のせいだろう、フリッツの瞳が激しく揺れる。
そして眼にみるみる涙が溢れ出した。
「どう、して? 姉さま、僕たちのこと嫌い・・・?」
ナタリアは慌てて頭を振る。
「まさか。フリッツを嫌いになる訳ないわ」
「じゃあどうして?」
悲しそうに下がった眉に、ナタリアの胸が痛んだ。
ああ本当に。
ナタリアの父親は、ナタリアの弱い所をよく知っている。
けれど、ここで譲る訳にはいかない。
たとえここで帰ることにしたとて、どうせフリッツと暮らすことは出来ない。
「姉さまはフリッツのことが大好きよ。それはずっと変わらないわ。でも、姉さまはもうあの家で暮らせないのよ」
「・・・そんなの、嫌です」
フリッツの眼からぽろぽろと涙が溢れ出す。
「父さまは、姉さまが意地を張ってるんだって仰ってました。だからお前が迎えに行ってあげなさいって、それでここまで連れて来てくれたんです」
「それは・・・」
ナタリアは言い淀む。
ナタリアが逡巡しているうちに、フリッツが再び口を開く。
「僕は姉さまと一緒にいたい・・・」
「・・・フリッツ」
既に涙腺が崩壊している弟をナタリアは抱きしめる。
事情を話したらもっと悲しむことになるかもしれない。だけど。
ナタリアは意を決して口を開く。
もちろん逆行を含めて言えない話の方が多い。それでも、除籍手続きのこと、それに付随してライナルファ侯爵家から援助を受ける話は伝えられる。
援助金の一部がオルセン子爵家に既に渡されていることも。
そしてもう一つ。
「・・・姉さまを、後妻に・・・?」
「ええ。もうふた月くらい前になるかしら。お父さまがここにいらしたことがあるの。その時にジムルイ伯爵という方との縁談があると仰ってたわ」
「あの、姉さま?」
フリッツがおずおずと口を開く。
「その方には前に奥さまがいたってことですよね? でもどうして? 姉さまはまだ十八で・・・」
「あちらは六十五歳だそうよ」
ナタリアの口元が悲しそうに歪む。
「ろくじゅう・・・」
フリッツは信じられないとばかりにぱくぱくと口を動かした。
「サインをする時にライナルファ侯爵家からもらったお金が相当あった筈なの。まさか、もうなくなってしまったのかしら」
「姉さま・・・」
フリッツが震える手で姉にしがみつく。ナタリアは優しく背中を撫でた。
「姉さまがいなくなってから、食べ物とか、服とか、父さまも母さまも好きに買う様になったんです。僕にも新しい服を買ってくれたりして・・・」
そこまで言って、フリッツは一度、言葉を切った。
「・・・あれは全部、姉さまのおかげでもらったお金だったんですね。でも父さまたちはそれでは満足できなくて」
「・・・」
「もしかして、それで父さまは僕をここに?」
ナタリアは唇を噛む。
腕の中のフリッツの肩は震えていた。
「父さまは・・・僕が姉さまに帰って来てって言ったらきっと戻ってくれるよって」
「・・・」
「だから迎えに行ってやりなさいって、そう言ってたんです」
「・・・フリッツ・・・」
「でも、もし姉さまが僕のために家に戻って来たら、きっとすぐに・・・」
「・・・そうね。すぐに伯爵の元に嫁ぐことになると思うわ」
「・・・そんな、ことが」
今一度、フリッツの体が大きく震えた。
ごめんね、フリッツ。
本当は、あなたを連れて一緒に家を出られれば良かったのだけれど。
ナタリアは弟の背に回した手に力を込める。
その時だった。
「・・・?」
ナタリアの視界の端に、一人の男が映り込む。
あまり会う機会はなかった。けれど、ナタリアがそれなりに見知った顔が。
どうしてここに?
いや、ここにいてもおかしくはないのだろう。なにせここは病院だ。
だが、ナタリアがフリッツと話していたのは中庭のベンチ。
そして男の姿が見えた方向は、先ほどまでナタリアがシーツを干していた裏庭近くの職員や業者などが使う通用口がある所で。
その彼は辺りを警戒する様にして渡り廊下へと進んで行く。
「・・・フリッツ、ごめんね。ちょっとここで待っていてくれる?」
声が震えそうになるのを必死で抑え、笑みを作る。
だがそれでもやはり不自然さは隠せなかった様だ。フリッツは不安げに姉を見上げた。
「大丈夫。すぐに戻って来るわ。ちょっと病院の職員の方にお話することがあったのを忘れていたの」
フリッツは少し迷った後、こくりと頷く。
それを見て、ナタリアは弟の頭を撫で、それから病棟へと足を向けた。
弟の視界から外れる前に一度だけ振り返り、安心させるように手を振る。
そして角を曲がると、ナタリアは周囲の視線も気にせず全速力で走り出した。
嫌な予感しか、しなかった。
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