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なにひとつ残ってはいない --- 逆行前
しおりを挟む・・・何が、あったの・・・?
気がつけば、ナタリアは薄暗い部屋の中にいた。
意識はまだ虚ろで、考えをまとめようとしても上手くいかない。
頭にはズキズキと割れるようだし、視界も何故だか揺れている。
それに身体のあちこちが痛い。
アレハンドロとカフェで話して、ベアトリーチェの病気の特効薬が手に入ったところまでは覚えている。
傷物令嬢になる自分を、アレハンドロが結婚して面倒を見ると言ってくれたけど、申し訳なくて断った。
その後は、確か。
ベアトリーチェに薬を届けようと、馬車に乗った。アレハンドロと。
・・・それから?
思い出そうとしても、意識がぐらぐらと揺さぶられて何ひとつはっきりとしたことは思い出せない。
・・・何か、アレハンドロが言ってた気がする。
--- ・・・を裏切ったよ
--- 薬が開発され・・・もう・・・妻の座を譲る・・・はない
「・・・え・・・?」
どうしてか、現実の声でもないのに遠くて、微かで。
でも確かにアレハンドロの声で。
だけど。
この声は、何を言ってるの?
--- 哀れな・・・リア
--- 親友に・・・人にも・・・裏切られ・・・
「な、に・・・?」
アレハンドロは私に、何を言ったの?
--- ・・・何も残っちゃいない
--- 何一つ残っちゃいないんだ
「残っていない・・・? 何が残ってないの? 駄目だわ、なんだか頭がぼんやりして思い出せない」
薄暗くて視界も悪い中、ナタリアは辺りを見回す。
周囲は灰色の壁。
高い天井。
高い位置に小さな窓が一つ。
そして、目の前には鉄格子。
「・・・薬を届けに行ったのに、どうしてこんなところにいるの・・・?」
ろうそくが一つ灯されているだけで辺りは薄暗い。
天井近くに小さな窓があるが、その向こうは真っ暗だ。きっともう夜なのだろう。
「薬は・・・? 薬は渡せたの? トリーチェは・・・薬を飲めたのかしら」
その時、段々と近づいてくる足音が聞こえてきた。
細長く伸びる影が、まずナタリアのいる鉄格子の部屋の前に伸びる。
それから、足音がナタリアの前で止まった。
「・・・目が覚めたんだ・・・食事を持って来たよ」
そう声をかけた人は茶色の巻き毛がなんとも可愛らしい、どう見ても10代半ばの少年で。
食事の差し入れ口らしい小さな扉を開け、そこからスープとパンを乗せたトレイを中に押し込んだ。
「・・・今度は随分と大人しいね。散々暴れて騒いだ後はいきなり眠っちゃったから、どうしたもんかと思ってたけど。あ、腹が減りすぎて騒ぐ力もないとか?」
少年の言葉には、若干の棘が含まれていた。
初対面の筈なのに、敵意がこもる眼差しを向けられ、ナタリアは戸惑う。
「・・・あの、ここはどこですか。私はどうしてここに?」
「・・・」
「確か、馬車に乗ってた筈なんです。大切な友人にお薬を届けたくて」
少年の眉間に深く皺が刻まれる。
「・・・そうだわ。あなたは何かご存知ではありませんか? ライナルファ侯爵夫人のご容態について・・・」
「・・・それ本気で言ってる?」
「え?」
「あんたが殺したんじゃないか。持っていたナイフでめった刺しにして」
「・・・え?」
ナタリアは呆然とした顔で、鉄格子の向こう側に立つ少年を見上げる。
「こ、ろ・・・? 私が・・・? 誰を?」
だが少年は残酷な真実を告げる。
「そう、あんたが殺した。ベアトリーチェさまをナイフでね」
「・・・な、に言って・・・」
「・・・マルケス。話し声が聞こえたが、目覚めたのか」
声と共に、足音が近づいてくる。
そうしてナタリアの前に現れたのは、かつてベアトリーチェの屋敷に遊びに行った時に何度か顔を合わせたことのある彼女の兄だった。
「レンブラントさま・・・」
「軽々しく名を呼ぶな。俺の大切な妹を殺しておきながら」
「・・・っ」
挨拶を交わす程度の関係だった。
それでも、ベアトリーチェの親友として、それなりに丁重には扱ってくれていた。そう今までは。
「馬鹿馬鹿しいと知りつつも、トリーチェが望んだ故に認めた婚姻だった。お前が何もしなくても、あの子はあと数週間もしないうちに儚くなっていただろう。だがな、だからと言って殺されても仕方がないなどと言えるものか」
「・・・」
「せめて、病を治すことは叶わなくても、最後くらいは安らかに逝かせてやりたかった」
「・・・あ・・・」
「お前のような女をさっさと排除しておかなかった自分の甘さに吐き気がする・・・っ」
頭を両手で抱え込み、心からの憎悪を吐き出すレンブラントの言葉に、ナタリアは固まった。
・・・これは、夢? 私は悪夢を見ているの?
私が、トリーチェを殺した?
いつ? どうして? そんな筈ないのに。
ナタリアは、まだ現実が理解出来ていない。
唇を戦慄かせ、肩が小刻みに震えた。
「ライナルファ家もオルセン家も、ぶっ潰してやる・・・ああ、それからあの煩い羽虫のような商会の小倅もな」
レンブラントの眼は昏い。その声は唸るようだ。
「今は逃げ回っているようだが、じきに捕まえてお前の後を追わせてやる。元はと言えば、あの男がお前に執着して始まったことだ。逃がしはしないさ」
ナタリアの瞳から、幾筋も涙が伝い落ちる。
「・・・私、私は、本当に・・・トリーチェを殺したのですか・・・?」
「ああ」
「ナ、ナイフで、刺したと・・・」
「何度も何度も、執拗にな」
「どうして、そんな・・・」
「俺に聞くのか? 妹を刺し殺したお前が・・・俺に?」
「・・・っ」
レンブラントは酷薄な笑みを浮かべる。その瞳は凍てつくほどに鋭くナタリアを貫いた。
そして、レンブラントは冷たく言い放つ。
「処刑は一週間後に行う・・・覚悟しておけ」
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