輪(りん)

玉城真紀

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次の日の朝早く、暗いうちに俺達は女将の車であの丘を目指した。今日も天気は良さそうだ。
少し霧がかった道をガタゴトと車は進んで行く。皆、緊張しているのか誰も話さない。窓から見える景色を静かに目で追っているだけだ。
もっと先まで車で行くことが出来るのに、女将の提案で、きぬの家の前から歩いて丘を目指すことにした。車を降りた俺達は自然ときぬの姿を探す。

いる。

相変わらずきぬは、手にお膳を持ち、朝焼けの中前のように同じルートを歩いている。俺は悲しいような恐ろしいような気持ちでソレを見ていた。

「行くぞ」

既に、丘に向かって歩き出していた橋本の声で我に返った俺は急いで後についた。
丘まではそんなに距離はないはずだが、今日の俺はやけに体が重かった。次第にみんなから離れてしまう。そんな俺を見た橋本は近くに来ると

「大丈夫か?」

と声を掛け腕を引いてくれた。すると、さっきまで前を歩いていたと思っていた日引がいつの間にか俺の後ろにつき

「ヒヒヒ。しょうがないね。ほら、これをつけてな」

と、自分の腰ひもの部分につけていた鈴を外すと俺に手渡した。チリンと澄んだいい音がする。俺はそれを自分のズボンのベルトを通す所につけた。歩くたびにチリンチリンといい音がする。どういう訳か、その音を聞いていると心なしか体の重さが取れてくるようだ。


ようやく丘に着いた。
女将は小走りに丘の端に行くと、こちらを振り返えり

「ほら!見てごらん!」

俺達は女将の側まで行った。とても素晴らしい景色だった。徐々に顔を出す太陽の光に照らされていく村はキラキラと朝露に濡れているように見え、一日の始まりを実感させる。空気も澄んでいて、息を吸うたびに体の中から浄化されるかのようだ。俺はその景色を見ているうちに自然と涙が出てきてしまった。

「な、なんだよお前。また何か憑りついたのか?」

橋本が俺を見て慌てて言った。俺は返事をする気にはなれなかった。今、何かを話してしまうとこの気持ちが崩れてしまうような気がしたからだ。
その代わりに女将が

「人はね。感動すると涙が出るものなのよ。わかるでしょ?」

と代弁してくれた。多分、女将も初めてこの景色を見た時、俺と同じような状態だったのだろう。だから俺の気持ちが分かったのかもしれない。俺は暫くそこに立ち尽くしていた。

チリン

鈴の音で俺は現実に引き戻された。左右を見るともう誰もいなく、あの大きな楠の所に集まっていた。ここに何をしに来たかを思い出した俺は、途端に嫌な気持ちになると、皆の所へ歩いて行く。

「お、もういいのか?」

橋本はニヤニヤしながら俺に言った。

「ああ」

俺は少し照れ臭かったので素っ気なく返事をする。

「さてと、どこを探そうか・・・・・・あ、女将と日引さんはここで待っててください」

と水島は着ている上着を脱ぎ、丁寧にたたむと楠の根元付近に置いた。几帳面な所があるらしい。こんな所にも律義にスーツで来る水島を見ながら俺はそんな事を思っていた。

橋本は川の中を探すと言い靴を脱ぎ始める。橋本だけ川の中を探させることは出来ないので、俺も一緒に川に入ることにした。
草むらの方をガサガサと探す水島を横目に、二人で川の淵に立ち、いざ、川につま先をつける。

「冷てぇ~‼」
「くぅ~っ!」

俺達は悲鳴をあげながらゆっくりと川に入って行く。これほどまでに冷たいとは。足から頭まで逆冷水を浴びたようだ。体の芯まで冷えてくる。

「よ、よし。俺はこっち。お前は向こうの方を探してくれ」

橋本は声を震わせながら的確に指示を出す。ゆっくりと川の中を歩く。澄んだ綺麗な川の中にある自分の足が、ユラユラと揺れているのをじっと見ていた。

(こんな冷たい川に押し付けられて・・・・・・こんな綺麗な川に・・・・)

その時、俺の視界がぐにゃりと歪んだような気がした。余りの冷たさに目がおかしくなったのかと思った俺は、目を何度もパチパチと瞬きしたりこすってみたりするが歪んだ視界は治らなかった。川の中の足がありえない形に歪み始める。

「何だこれ」

その瞬間、先程まで見ていた自分の足ではなく、違う物が見え始めた。丸い石。細かい砂。少し離れた所には緑色の草がゆらゆらと揺れている。

「え・・・・・・」

次に、細かい砂が巻き上がり小石が踊り出す。ハッキリとしていた視界が巻き上がった砂で見えなくなってくる。

チリン

なんだ?

チリン

この音

チリン

「何やってんだよ。早く探せよ」

橋本の声が後ろから聞こえてきた。
その声で我に返った俺は急いで周りを見る。元に戻っていた。
一体何だったんだ?

「ヒヒヒ。あんたは引っ張られやすいんだね。人の気持ちに入ることはやめた方がいいね」

いつの間にか日引が両手を後ろに組むようにして川の淵に立っていた。

「今のはもしかして・・・・・・チヨの記憶・・・・・・」

「違うよ。川の記憶さ」

「川の・・・・・・」

「いいかい。物でも人でもこの世に出た時から記憶と言うものはつくものなんだよ。絶えず流れているこの川にもね」

俺はサラサラとゆるやかに流れる川を見た。
川の記憶・・・・・・今までこんな事はなかった。

「あの・・・・・・何で俺はこんな風になっちゃったんですか?今までこんなこと経験したことなかったし、第一俺、霊感なんてないし」

「ふん。・・・・・・事が全て済んだら両親の供養をしっかりするんだよ」

「?」

何でここで俺の両親の事が出てくるんだ?俺は訳が分からず日引に聞こうと思ったが、日引はくるりと背を向けると楠の方へ歩いて行ってしまった。
仕方なく俺はお尻が濡れないように腰を下ろし川の中の帯留めを探し始めた。

しかし、長くは探し続けることは出来なかった。川の水が冷たくて足の感覚がなくなってくる。橋本と相談し、休憩をはさみながら探すことにした。その間、女将と日引は女将が用意したシートを広げ、その上でくつろいでいる。

お昼頃になると女将が作ってくれたおにぎりを食べ、また帯留め探し再開。そんな事を繰り返しながらさほど長くはない川に悪戦苦闘していた俺達だったが、空が赤くなる頃、ようやく俺達の行動が報われる時が来た。

「あった・・・・・・あった~!」

丘の入り口辺りにいた水島が大きな声を出した。片手を大きく上げている。その手には確かに俺達が探し求めていた帯留めらしきものを掴んでいた。

「マジで?」

「本当⁈」

俺と橋本はバシャバシャと水しぶきをあげながら川から上がり水島に走り寄る。水島の手の中の物を見ると、あの蔵にあった物と同じ帯留めだった。苔が生え色も若草色ではなく黒ずんでしまっている。

「見つかったの?良かった!」

女将が遠くの方で歓喜の声を上げる。
俺達はシートの所へ行き日引に見せた。

「おめでとさん。じゃあ。それを返そうかね」

日引はどっこいしょと小さく言いながら立ち上がると、今まで座っていたシートを女将に片づけるよう指示をする。女将は急いでシートを端の方へ寄せ片づけた。
日引は俺が持ってきた般若の面を箱から取り出し、楠の根元近くの土の上に二つ並べて置いた。


「さ、帯留めをこっちへ」

日引は、蔵にあった帯留めを割れたお面の上へ。先程見つけた黒ずんだ帯留めを綺麗なお面の上へ丁寧に置いた。何か御経でもあげるのかと思いきや、日引は自身が持っている巾着の中から赤い紐がついた鈴を取り出した。俺に渡してくれた鈴よりも一回り大きな鈴だった。

チリ~ンチリ~ン

二つのお面の前に立ち、鈴を持った右手を前に突き出しゆっくりと振る。その鈴は、俺が持っている鈴よりもとても重く間延びしたような音を出す。俺達は日引の後ろに横一列になって並んだ。

チリ~ンチリ~ン

何故だかこの鈴の音を聞いていると眠くなってくるようだ。俺は今まで、きぬが犯してしまった罪。俺に供養を頼んできたきぬ。今まで、見た事もない人のしでかした事に対して何で俺が。とそう思っていた。でも今は違う。
俺は手を合わせた。

(チヨ・・・・・・チヨさんハルさん。そしてそのお母さん。本当に申し訳ありませんでした)

俺は心から祈った。

チリ~ンチリ~ン

鈴の音はゆっくりと一定のリズムを取りながら鳴り続けている。周りは小川のサラサラと流れる音と、ひぐらしの鳴く声。この三つの音が交じり合い、まるで自然のコンサートのようだった。

パキ

突然、コンサートの中に小さな異音が混じった。俺は目を開け音の出所を探す。橋本たちも同じように気がついたらしく周りを見回している。その中で、女将だけある方向を見て目を丸くしているので、その視線の先をたどる。

「!」

お面が割れている。
一つはもともと割れていたが、割れていなかった面が縦に割れているのだ。俺は日引にその事を言おうと口を開いが、日引はこちらをゆっくりと振り向くと、分かっているというようにゆっくりと頷いた。

その頷きは他の人達の口も閉ざす程、日引から異様な雰囲気が漂っていた。俺は、何かが起きている事を確信しながらまた目をつぶり祈ろうとした時、丘に入る入り口辺りに誰かが立っているのに気がついた。

「?」

よく見ると、何ときぬが立っている。お面を被らなくちゃ見れなかったきぬを俺はしっかりと正面から見た。お膳を持っていた手は、今は何持っていない。両手は体の脇に納まり直立の姿勢でこちらを見ている。本来ならいるはずのないものがいる事に驚き恐怖を感じるのだろうが、この時の俺は全く恐怖は感じなかった。むしろ、大詰めを迎えようとしているのかと緊張と嬉しさがあったぐらいだった。

その後、きぬはゆっくりと滑るように俺達の所に近づいてきた。とてもゆっくりと。近付くほどにきぬの表情がハッキリと見えてくる。あの口元がクシャりとなった皺くちゃな顔。皺に埋もれてどこを見ているのか分からない眼。何となく辺りの空気が冷たくなってきたようにも感じる。そのきぬが、俺達から二m位の位置まで来た時だ。

不意に日引が横に一歩移動した。
日引が移動したお陰で、きぬと日引が重なり俺からきぬが見えなくなる。

「お前に渡した鈴を手に握りな。絶対に何があってもその手は開くんじゃないよ。もうなにも見なくていいから目をつぶっときな」

日引はこちらを見ずに背中越しに俺に言う。俺は慌てて日引の言う通りに鈴を取り、右手に握ると目をつぶろうとした。

しかし、その時俺は見てしまった。日引が横に移動したことで楠の根元に置いた般若の面が良く見えるようになったのだが、その二つの割れた般若の面の目が俺を見ているのだ。


「え・・・・・・」

気のせいかと初めは思った。光の加減でそう見えるだけなのでは。しかしそうではなかった。何度見ても、般若の小さく空いた黒い穴の目は俺をしっかり見ていた。ただでさえ、恐ろしい表情をしたお面が二つに割れるという異常事態、それだけでも不気味なのに動くはずのない黒い穴・・・・・・その目が動き俺を見ている。

もう、気が狂いそうだ。こんな奇妙で気味の悪い事ばかり・・・・・・もう早く終わりにしたい。俺は般若の目を見ながらそう思った。

「大丈夫よ。しっかりしなさい」

誰かが俺の耳元でそう言ったのが聞こえた。女性の声だ。でも、今の俺は誰が言ったのかなんてどうでもよかった。俺の心はこの状況に耐えられなくなっていた。理不尽ともいえるこの状況。先程は消えていたはずの想いがまた蘇る。何で俺が・・・・・・自分のしでかした事位自分で始末つけろよ。子孫に迷惑かけるな。

しかし一方で、その気持ちに反論する自分がいる。死んでもなお供養を望むきぬの想いを叶えてやりたいと。そんな気持ちの葛藤をしている時、近くで誰かの鼻をすする音が聞こえた。


咄嗟にそちらを見ると、女将が何かを見ながら涙を流している。
見ているのは日引の方だが、日引を見て泣く理由がないのでおそらくきぬを見ての事だろうと思った。俺は体をずらし日引越しにきぬを見た。

きぬは地べたに正座をし、皺くちゃで少し曲がって節くれだった指を伸ばし手を合わせて頭を垂れていた。皺の中にある目からサラサラと涙が流れているのが分かる。
俺はそのきぬの小さくなりながら必死に祈る姿を見て心が痛んだ。
自分の両親のためとはいえ、人を殺めてしまった事を後悔し死んでも成仏が出来ず、同じ場所で同じ行動を永遠と繰り返しているきぬ。

現代でも殺人事件のニュース等が毎日のように報道されている。中には後悔の念でいっぱいの犯人もいるのだろう。しかし、その後悔とは何の後悔なのだろうか。捕まってしまいこれから刑務所で暮らすことになってしまった事への後悔なのか。家族に迷惑かけてしまったという後悔なのか。俺には分からない。

今、目の前で小さくなりながら懸命に手を合わせているきぬは、何の後悔なんだろう。俺はきぬをじっと見ながら考えた。
(いや・・・人殺しを正当化するものなんて何もない。後悔先に立たずと言うではないか。チヨの母親に対しては不可抗力だったとしても、チヨを殺した事は許されない)

俺は目をつぶり必死で祈り始めた。

心から「申し訳ない」と。

すると、不思議な事に手に握りしめていた鈴が次第に熱くなってきた。

「熱っ」

俺は咄嗟に手を開こうとしたが

「我慢しな」

日引に止められる。


しかし、手に焼石を握らされているかのように熱く、我慢するのが辛い。熱くて痛くて右手に震えが出て、その震えが全身にまで移る。

チヨやその母親の無念がこういう形で表れているのかもしれないと考えた俺は必死で我慢する。熱さと痛みに耐えながら、頭の中でチヨたちに対し必死に許しを請う。

しかし、もう限界だった。俺はあまりの熱さに手を開いてしまったのだ。見ると手の中の鈴はぐつぐつと真っ赤になり少し溶けているようだ。手のひらも皮が溶け焼けただれている。俺は手の中の鈴を地面に落とした。

チリン

「え?」

地面に落ちた鈴は溶けてはおらず、元の綺麗な鈴だった。

俺は自分の手を見る。何ともなっていない。
さっきまでの熱さや痛みもなくなり、焼けただれていたはずの手のひらは綺麗なままだった。何が起こっているのか分からず手のひらを見ていたその時だった。

突然、息が苦しくなってきた。
俺は驚き、息をしようと口を大きく開けるが入ってくるのは酸素ではなく何故か水のように感じる。陸にいるのに何故・・・・

鼻から水が入ったようにツンと鼻の奥が痛む。俺はその場から転げるように離れ何とか息をしようともがくが、どこに行っても俺の口や鼻からは水しか入ってこなかった。橋本や女将、水島が驚いて俺を呼ぶ声がくぐもって聞こえる。返事をしたくても出来ない。自分の顔の回りを手で払うが何もなく、見えない水が俺の頭の部分にあるようだ。倒れこんだ俺は次第に意識が遠くなってきた。

「三人目」

遠のく意識の中そう聞こえた。
さっきの「大丈夫。しっかりしなさい」と言った者とは違う声だ。

そうか・・・・・・三人目は俺だったのか・・・・・・

そう考えた時、俺は暴れるのをやめた。
チヨは許していないのだ。
俺は諦めた。
抵抗するのをやめた。息が出来ないのならもうしなくてもいい。
ゆっくりと目を閉じていく。


チリ~ン

日引の鳴らす鈴は今の俺には子守歌のように心地よいものになっていた。

チリ~ン

さっきまでの苦しさがなくなり、このまま眠ったら気持ちがいいだろうな。そう思いながら俺はその流れに逆らわないことにした。

チリ~ン

「・・・・・・」
「・・・・・・い!」
「おい!」

俺は橋本の大きな声で目が覚めた。目を赤くした橋本は俺を見下ろし、恐ろしく怖い表情をしながら俺の体を揺さぶり声を何度も掛ける。
どういう状況なのかすぐに理解できなかった俺は、ガクガクと体を揺さぶられながら

「は・・・・・・橋本・・・・・・おい」

その声に気づいた橋本はようやく俺の体を揺さぶるのをやめた。先程の恐ろしい顔が次第に泣き顔に変わっていく。

「わかるか?俺が分かるか?」

橋本は真っ赤な目で俺を真っ直ぐに見ながら聞いた。


「あ、ああ」

体を起こしながら言った。それを聞いた橋本は、大きなため息を一つ吐くと

「良かった・・・・・・」

と、俺の隣にドスンと腰を下ろした。何が何だかまだわかっていない俺は周りを見回すと、心配そうに女将と水島がこちらを見ている。少し離れた所に背中を向けて日引が立っている。そこで、全て思い出した。

そうだった。俺苦しくなって・・・・・・

「大丈夫?本当に驚いたわよ。突然苦しみだしたかと思ったら、バタンって倒れて眠っちゃったんだから」

女将がホッとした顔で言った。

眠った?まだすっきりとしない頭で思い出す。確か気持ちよくなって・・・・・・

「お前は三人目じゃない。まだ終わってないんだよ。しっかりしな」
日引は背中越しに俺に声を掛ける。

終わってない・・・・・・

もう逃げ出したかったが、逃げ切れないのだろう。
俺は落ちている鈴を探し手に取る。それを合わせた手の間に挟み頭を下げた。


手を合わせながら考える。

恐らく、俺の両親が死んだのは単なる不幸な事故なんだ。
相馬が見た夢の話で一人二人と死の連鎖が続くように感じたが、そんな事があるのか。非現実的な事を目の当たりにしているが、俺の頭ではそれを詳しく理解することは無理だ。日引の言うようにきぬが供養を望んでいるのなら、それをやるだけだ。誰が犯した罪だとか関係ない。俺を頼ってきたのなら俺に出来る事をやるしかない。

俺はもう、難しく考えるのをやめた。

会った事もない、写真ですら見た事もない先祖達がいて俺がいる。当たり前の事なのだが、今まで考えた事もなかった。
チヨとハルが産まれた時代の考え方や生き方は詳しくは分からない。逆にチヨ達からしたら、俺が生きているこの時代の考え方や生き方は理解できないだろう。しかし、そう言う過程を経て今の俺がこの世にいる。

(そうだ。この件が終わったら両親の墓参りに行くか)

日引が言ったからではない、自分から自然とそう思った。


チリン

気がつくと、先程までの空気の冷たさがなくなりムッとした暑さを感じた。

チリン

そっと目を開け、楠の根元にある般若の面を見る。もう俺を見る事もなく縦に割れた状態で置かれているが、心なしか顔の至る所がすすけたような色になっている。

あれ?こんな色だっただろうか。夕焼けの茜色に照らされてそう見えるのだろうか。ジッと面を見ていた。その時丘の下、村の方から気持ちのいい風が吹いてきた。

チリン

今までの不安や心配、様々な気持ちをどこかへ持って行ってくれるような風だ。

チリン

とても気持ちのいい風に、思わず目をつぶる。風はサラサラと俺の体の中を通って行くかのように通り過ぎて行った。

チリンチリン・・・・・・リン

今までの鈴の音が消えていくような音を出したので、目を開け日引の方を見ると、こちらを振り向き持っていた鈴を腰ひもに結わえながら

「終わったね」

少し疲れたように日引は言った。

終わった・・・・・・のか?

正座して手を合わせていたきぬが消えている。それを確認した俺は、本当に終わったという事を実感した。大きく体を折り日引に向かって頭を下げると

「ありがとうございました」

と静かに言った。

見ると、どこに行ってしまったのか楠の根元に置いておいた般若の面と帯留めが、跡形もなく消えている。周りを見るがどこにもない。
俺は探さなかった。恐らく、風と共に親子三人安楽の地へ行ったのかもしれない。

丘の入口の方から、相馬がゆっくりと歩いてくるのが見える。俺の顔を見て全てを察したのか、歩みを止めるとホッとしたように笑った。




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