プリンセス・ロンド 運命の兄王と妹姫

月森あいら

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◆◇第八章 来訪◇◆

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 暴動の首謀者が捕らえられた、とクレアが耳にしたのは、それからしばらく後のことだった。
 狂った民衆の中に混じっていた魔道師は、ひそかに捕らえられ、検分を受けていたとクレアは聞いた。暴動のきっかけは、やはり魔法による人心操作。それは、ある国の名前とともに伝えられた。
 ラグラール皇国。第一王女の嫁いだ国。
 その名は、捕らえられた魔道師の口から直接聞かれたものではなかった。彼は秘密を守り抜くために、自らの命を絶った。そして、その死んだ体からその名を引きだすような高等な魔法が使えるのは、魔道の発達したマインラードでも、王太子の寵を得、若くして魔道師の頭領であるエクス・ヴィト・ラグールにほかならなかった。
 にわかに緊張した空気が王宮中を駆け巡った。国王の容体は変わらずに思わしくはなく、その回復のために働く魔道師たち、そしてラグラール皇国への報復のための計画のために忙しく立ち回る騎士と魔道師、物々しさの拭えないその最中に、ある使者の訪れが告げられた。
「ラグラール皇国の?」
 その時、王太子セラフィスは執務室での打ち合わせの最中だった。相手は彼がもっとも信頼する魔道師、そしてその傍らにはいつも通り、第二王女の姿があった。
「何と言ってきているのだ」
 セラフィスは椅子を立ち上がり、自らその知らせを持ってきた従者に歩み寄った。扉のこちらで膝まづいた従者は恐縮して体を固くする。
「先日の、暴動に関しての詫びと申し開きを、と」
「ほぅ……」
 視線を鋭く尖らせて、セラフィスは彼の差し出した書簡に目を通した。羊皮紙に青いインク、青い封蝋のされたそれは国王からの正式文書を示すものだった。
「何と?」
 エクス・ヴィトが低い声で尋ねた。セラフィスは一度ざっとそれに目を通し、もう一度丁寧に読み返してから小さくため息をついた。
「あの事件に、国はまったく関わりを持っていないとのことだ」
「……」
 エクス・ヴィトは驚いて目を見張る。それは、クレアも同じだった。
「どういうことです」
 セラフィスはその書簡を手の中で丸め、いらいらと手の平でもてあそんだ。
「側近が勝手にやったことだとな。その謝罪と、国王の身の潔白を示すために使者をよこしたそうだ」
「なぁるほど」
 エクス・ヴィトは唇の端を持ち上げて、皮肉な笑いを作って見せた。
「使者殿が、王宮の表でお待ちでございます」
 書簡を運んできた従者がそう言って頭を垂れた。
「何名だ」
「お二方で」
 セラフィスはしばらく腕を組んで瞳を閉じ、そして顔をあげた。
「よし、広間に通せ。半刻後だ」
「かしこまりました」
 従者の足音が消えたとき、セラフィスはエクス・ヴィトの方を振り向いた。
「どう思う」
「そんなわけありませんでしょうに」
 エクス・ヴィトは吐き捨てるように言った。
「国王様が知らないところでよその国にちょっかい出すような大掛かりな動きが起こるわけもない。もし本当にそうなのでしたら、信じられないほどの愚鈍ということになりますね」
「まったくだ」
 ため息をついて、セラフィスは腕を解く。ちらりと表を見やって、そしてクレアの方を振り返った。
「お前も来るか」
「え?」
 クレアはセラフィスの視線を受けて立ち上がる。そして突然の言葉に聞き返した。
「どこにです?」
「広間だ。私の隣に座っていろ。我が国に余計な手出しを企んだ国の使者が、どのような申し開きをするか見ているがいい」
「え、ええ……」
 クレアは驚いて曖昧な返事をした。セラフィスはその返事を受け取ると、声を出して従者を呼び集めた。
「謁見の準備を。王と王妃の玉座を用意しろ。謁見は半刻後だ」
「はい」
 散っていく従者たちの後ろ姿を見つめながら、クレアはセラフィスに質問を投げ掛けた。
「私も、その場に立ち会えとおっしゃるんですか」」
「ああ」
 セラフィスは短く言った。
「お前も、いつこういう状況に出くわさんとも限らないからな。いい機会だ」
「ええ」
 クレアはせわしなく動き回るセラフィスの背中の後ろでつぶやいた。忙しくあちこちに指示を飛ばす彼に、それ以上の追及はためらわれた。
「姫さまも、こういうことに巻き込まれることがないとは言えませんからね」
 彼女の動揺を読み取ったかのようにエクス・ヴィトが言った。
「いつ、アスティーア姫さまと同じ状況に立たされるともわかりません。反面教師、ってことで学習しておけばいいのではありませんか」
「どういうこと?」
 クレアはエクス・ヴィトを振り返った。
「つまり、姫さまがそのうちにお輿入れになるところの国も、いつ反旗を翻すかわかりません、ということです」
「……」
 その言葉を否定しようとして、クレアは息を飲み込んだ。そんなつもりは毛頭なかった。その言葉は否定されていたが、クレアには、どうしても他国に嫁ぐ自分の姿が想像できなかった。そして、結婚がこのような弊害を伴うものであるなら、それはなおさらだった。
「姫さま、お召し替えを」
 侍女がクレアの前に進み出てそう言った。
「では、後ほど、広間においで」
 セラフィスはそう言ってクレアに微笑みかけた。
「わかりましたわ」
 クレアは侍女に伴われて執務室を出た。ちらりと振り向くと、そこにはまだ忙しく立ち回るセラフィスの姿があった。


◆◇


 他国の使者を迎えるなどの正式の謁見の折りには、広間の奥には椅子がふたつ、しつらえられることになっていた。
 ひとつは王の、ひとつは王妃のためのものだ。王として即位する際には必ずその傍らに王妃となる女性の姿があるのが習わしだった。
 しかし、今のような折り、つまり未婚の王太子の称制の期間などにはその王妃のための椅子には代わりとなる女性が座る。それは国王の后であったり、王太子の姉であったりさまざまだったが、この度、そこに腰掛けるのは王太子の妹だった。
 正装である真っ白な衣装に身を包み、そこにクレアが姿を表したとき、セラフィスは満足げに笑った。
「ご苦労様」
 そう微笑みかけられて、セラフィスはクレアに手を差し伸ばす。クレアはそれを取って、彼に誘われて玉座の傍らの椅子に腰を下ろした。
「そう、固くならずともいい。お前は、ここに座って成り行きを見守っておけばいいのだからね」
「ええ、でも……」
 クレアは彼女の手を解こうとするセラフィスにすがる瞳を向けた。
「どうした?」
 広間の緊迫した空気とは裏腹な優しい瞳に、クレアは小さく言った。
「私、このような場は初めてで……」
 ここしばらく、会議などに出席することは認められていたものの、このような場、しかも今のような緊迫した機会において公式の席を占めるのは今までにないことだった。
「心配することはない、私に任せて」
 セラフィスは取ったクレアの手を安心させるように軽く握り、そしてそれを離した。
「お前は、そこにいてくれればいいのだよ。私のために」
「お兄様の、ために?」
 そう、うなずくセラフィスはすぐにその隣の一回り大きな玉座に身を沈め、従者に向かって手を上げた。
「ラグラール皇国の使者をここに」
 自分のために、とセラフィスが言ったその言葉が、クレアの胸に灯した力の大きさに、セラフィスは思い至ることもないようだった。しかし、豪華な玉座に腰を下ろすクレアにその勇気を与えたのはまさにその言葉だった。
 蘇るのは、セラフィスの流した血。暴徒たちを沈めるためにセラフィスが見せたそれは思ったよりの効果を民たちに与え、そしてそれはクレアにも新たな思いを呼び起こさせた。
 ぎい、と大きな音を立てて正面の扉が開いた。クレアがはっと顔をあげるとそこには見慣れない色の衣装を着た男がふたりいた。それを取り囲むように自国の騎士五人がそれらに付き添い、広間の緊張は頂点に達した。
「こちらへ」
 セラフィスが低く言うと、深々と頭を下げたふたりは頭をあげ、広間の最奥、セラフィスとクレアが座る玉座の方へ歩を進めた。その内のひとりは手に大きな篭のようなものを捧げ持っている。
「遠路はるばる、ご苦労だった」
「いいえ、とんでもございません」
 使者はセラフィスのねぎらいに、再び恐縮したように頭を垂れる。
「我が国の国王陛下の名代として参上いたしました」
 ふたりは名を名乗った。それは聞き慣れない響きを持ち、クレアはそれを覚えようとしたが、耳慣れないその音はすぐに彼女の頭から離れてしまった。
「この不祥事、陛下も大変遺憾に思っておられます」
 何も持たないほうの、年嵩の男が話を切り出す。篭を抱えたもうひとりの男はそれに同調するようにわずかにうなずいたが、口を開くことはない。
「誠、この件は皇帝陛下のあずかり知らぬところ、首謀者の探索に尽力され、宮廷づきの魔道師、セイゲル・ジェライの図ったところと判明いたしました」
 セラフィスは玉座の肘置きに右腕をもたせ掛け、頬杖を突く形で微動だにせず、それに耳を傾ける。クレアはそんな彼と、目の前の異国の衣装を身にまとった男たちを交互に見つめる。
「腹心の部下の裏切りを知った国王陛下のお嘆きをご理解下さいませ。陛下はその罪状の篤さに重きを置かれ、自らのお手でジェライを処されました」
「なるほど」
 セラフィスは噛み潰したような声で言った。
「その証をお持ちいたしました。どうぞ、陛下の誠意をお受け取り下さいませ」
 その男が、もうひとりの男に篭を置くようにささやきかける。重そうに床に置かれた篭の、正面を向いた面には小さな取っ手が付いていて、男はそれを引いた。篭の側面が開いてその中に入っているものが晒される。
「きゃぁぁっ!」
 傍らに控える侍女が悲鳴を上げた。それは彼女だけでなく、広間の者たち全員に伝染するように広がった。その場は驚愕の渦に包まれる。クレアも息を飲んだ。しかし、玉座にある体が声を上げさせはしなかった。
「もっと、こちらへ」
 セラフィスは変わらない声で使者に声をかける。年若い男の方が中身をさらけ出された篭を抱えて玉座の置かれた段の下に控える。近くで見てみると、その不気味さはますます際立った。
 そこにあったのは、中老の男の首だった。青ざめて皮膚は乾き、唇を、まるで何かを訴えかけて無理矢理それを封じられたかのようにわずかに開いていた。半分だけ閉じた瞼がその不気味さに拍車をかけている。わずかに覗く眼球は、黄色く変色し血走った後が見られ、決して尋常な死に方をしたのではないことが見て取れる。そしてそれは、その体を失った首だけの姿でそこにあった。
「……」
 クレアは深く呼吸することで悲鳴を上げそうになるのを堪える。セラフィスは右手をあげて彼の腹心の部下を呼んだ。
「エクス・ヴィト」
 段下に控えていたエクス・ヴィトが歩み寄る。膝を折って頭を垂れる。
「検分を」
 セラフィスはその首を指し示し、エクス・ヴィトは無言のままうなずいて立ち上がり、眉ひとつ動かさないでその首をのぞき込んだ。手の平をかざして小さく何かつぶやいているのは、何か魔道を使っているからだろうか。それをラグラールの使者が神妙に見上げる中、エクス・ヴィトは手を下ろしセラフィスの方を振り返った。
「間違いなく、ラグラール皇国魔道師セイゲル・ジェライ殿の印であります」
 私的な場では使わないような堅苦しい言葉でエクス・ヴィトはセラフィスにそう言い、また頭を下げて自分のもといた場に戻った。
「ラグラール国王陛下にお伝えしてくれ」
 セラフィスはしばらく考え込むように瞳を伏せていたが、立ち上がってふたりの使者に視線をよこした。
「陛下のご意志、しかと見届けたと。このセラフィス、陛下のお言葉を信じよう」
「ご英断、感謝いたします」
 使者たちはほっとしたように緊張しきった体の力を抜き、床にこすりつけんばかりに叩頭する。
「つきましては、陛下から言伝がございます」
 首の入った篭の蓋を閉じ、クレアをほっとさせた後、やはり年嵩の使者がそう言った。
「我が国に、第二王女様をお招きしたいとのことでございます」
「……私を?」
 自分の名が出されたことに驚いて、クレアは椅子から腰を浮かせかけた。今まで感情の動きをまったく見せなかったセラフィスが初めて眉をぴくりと動かした。
「この不始末への遺憾の念、そしてマインラード王国への誠意を示すためにも、ぜひ歓待させていただきたいと」
「……」
 セラフィスの表情が、苦虫を噛み潰したようになった。
「妃殿下もそれを望んでおられます」
「姉上が、な……」
 不機嫌を示すような濁った声でセラフィスは言った。クレアは自分に注がれる使者の視線のもと、居心地悪く座り直した。
「マインラード王国にとっても我が国にとっても、友好を深めるためのまたとない機会と思われます」
 その口調はあくまで丁寧だった。決して無理強いをしている様子もなかった。しかし、その温和さがかえって広間に緊迫感を与えた。
「即答はできかねるな。なにしろ、ラグラール皇国までは長い道のり。年若い姫をやるには少し荷が重すぎる」
「承知しております」
 あくまでも従順に使者は言った。
「お返事をいただけるまで、待つ準備はございます。私どもの使命は、陛下の誠意をお伝え申し上げること。その目的が達せられないうちは戻ることは許されません」
「……、……」
 セラフィスはますます寡黙になった。それをそっとクレアは見やる。例え事件の首謀者とされた者の首を差し出されても、例えそこが兄妹の姉が嫁いだ先であっても、今の状態では敵地とさえ言える彼の国へ、妹をやるとの決断などできずとも無理はなかった。
 しかし断ることで、魔道師の首まで差し出したのにとの揚げ足を取られるのも、称制という危うい状態にあるこの国には不都合なことだった。マインラードは小さな国、国力の差で行けばラグラール皇国にはとてもかなわない。皇妃の実家という体裁を捨て去って、軍事力にものを言わせて攻め入ってこられでもしたら、今のマインラードに勝ち目はない。
 クレアは口を開いた。
「私、参ります」
「クレア!」
 セラフィスは頬についた手を解いて鋭く叫んだ。
「私でよろしいのなら、喜んでお招きにあずかります。お姉様にもお目にかかりたいですし」
 クレアはわざと無邪気に言った。セラフィスの方を振り向くと、驚きと戸惑いを浮かせた瞳で自分を見ている。
「お兄様……いえ、殿下。よろしいでしょう?」
「ああ」
 セラフィスは言った。それは、否定の言葉に聞こえるような声だったが、クレアがにっこりと微笑むとセラフィスは椅子に座り直し、顎を引き締めると、声を使者の方に投げ掛けた。
「お聞き及びの通りだ。御招待はありがたく頂戴しよう。しかし、幾分にも若く躾けもなっていない妹だ、訪問までにしばし猶予を戴こう。その間、お二方は一端お国の方へ戻り、国王陛下に事の次第を御報告なさるとよい」
「かしこまりました」
 最初広間に入って来た時と同じように彼らは深い会釈をし、そしてセラフィスにねぎらわれて広間を辞した。ふたりの姿が見えなくなり、扉が閉じるとセラフィスは大きくため息をついた。
「御苦労だった。皆、下がるがよい」
 広間は一瞬わずかなざわめきに包まれたものの、セラフィスの言葉に皆一様に押し黙り、謁見の終わりを告げるセラフィスの声に頭を下げた。セラフィスは玉座から立ち上がった。衣装の裾を翻して段下に下り、そしてクレアの方を振り返った。
「クレア、後ほど私の執務室へ」
「はい」
 そのまま、セラフィスはクレアに背中を向けて去った。自らも立ち上がったクレアに侍女が言葉を掛けてきて、自室に戻るように促された。
「姫さまったら」
 幼いころからずっと共にいる古参の侍女は、そっとクレアにささやきかけた。
「驚きますわ、あっさりとお返事申し上げてしまうのですもの」
「だって、あれが一番よい方法だったのでしょう?」
 クレアは首をかしげた。
「私が行かなければ、どうなるかわからないんじゃないの」
「それは、そうでしたけれど」
 彼女と、そして他数名の侍女たちに伴われながらクレアは正装を解くため自室に足を向けた。
「殿下のお気持ちをお察しなさいませ。あんなに驚かれたの、初めてお見受け申し上げましたわ」
「だって」
 柔らかな絨毯を踏んで、開かれた部屋への扉をくくる。
「お兄様のお役に立ちたかったの」
 重く織られた正装を脱ぐと、肩のあたりが軽くなる。まとい慣れた普段の衣装に袖を通す間、クレアはそうつぶやいた。
「私がラグラール皇国へ赴くことがお兄様のお役に立てることなのでしたら、私は喜んで参ります。例え、その先に何が待っていようとも」
「姫さま」
 侍女はため息をついた。クレアの衣装の背中のリボンを結びながら、小さく首を振る。
「近ごろの姫さまは、人がお変わりになったようですわ。ここに来た頃のあのお転婆な姫さまはどこにおいでになったのでしょうか」
「あら、私は私のままよ」
 クレアは笑った。
「あの頃は、私がちっとも家庭教師たちの言うことを聞かないと嘆いていたじゃない」
「それは、そうですけれど」
 衣装を調え終わり、最後にその頭に帽子を載せてクレアは鏡をのぞき込んだ。
「あまり御立派な態度は、姫さまらしくありません」
「まぁ、どういう意味?」
 笑いあうふたりに、扉を叩いて侍女に通された従者が声を掛けた。
「姫さま、殿下がお呼びです」


◆◇


 「姫さま」
 王太子の信望も厚い年若き魔道師が、驚くほどの軽い声で彼女を迎えた。
「たいそうなお手柄ですね。姫さまの口からあんな言葉が出るなんて、驚きましたよ」
 先ほど、ラグラール皇国の魔道師の首実検を眉ひとつ動かさずやってのけた男と同じとは思えないほどの明るい口調でエクス・ヴィトは言う。
「見直しましたよ、姫さま」
 その背中の向こうには、見たこともないほど表情を曇らせているセラフィスの姿があった。気に入りの椅子にもたれ掛かって腕を組み、足を組んでいるエクス・ヴィトと言葉を交わしながら視線を上げるとそんな兄の姿が目に入って、クレアは思わず口をつぐんだ。
「クレア」
 エクス・ヴィトの声にセラフィスのそれが重なった。いささか緊張しながらそれに返事をし、クレアは衣擦れの音をさせながらそちらに近づいた。
「……はい」
 眼下に見下ろすセラフィスは眉をしかめて目を閉じ、背もたれに体重を預けて微動だにしない。クレアはそんな彼の姿におろおろと手を揉みしだいた。
「あの、お兄様……」
「クレア」
 もう一度名を呼ばれ、クレアはぴんと背筋を伸ばした。
「はい」
「お前、自分が何を言ったかわかっているのか?」
 いつになく真剣なその表情に、クレアもおのずと声を固くして答える。
「ラグラール皇国を訪れる、と申し上げたことですか」
「もちろんだ」
 セラフィスは瞼を開き、怒ったように声を尖らせた。
「今、あの国と我が国がどういう関係であるかわからないわけではなかろう。お前のように護身の心得もない者が行って、万にひとつのことでもあったらどうするつもりなのだ」
「でも……!」
 クレアは胸の前で手を組んで言った。
「断るわけにも行かないのではないのですか? 断れば、我が国がラグラール皇国に敵意を持っていると曲解されて、それこそ戦争にもなりかねないのではありませんの」
「だからといって、お前が行くことはない」
 セラフィスは有無を言わせぬほどのきっぱりした口調で言った。
「必要があれば、私自身が赴くつもりだった」
「そんなこと、許されるわけありません……」
 クレアは息を飲んだ。
「そんな、お兄様がおいでになるなんて。それならば、よけいに私が……」
 セラフィスは大きく息を吸い込んだ。瞳を伏せて、クレアから視線を反らせ、そしてため息を吐き出した。
「それでも、お前にだけは行かせたくなかった」
 不機嫌にさえ見えるセラフィスは、そうつぶやくように言うと椅子から立ち上がり、クレアに背を向けて窓に視線を向けた。
「お兄様……?」
 その言葉の先を探ってクレアは声を掛ける。しかし、セラフィスはそれ以上は言おうとはせず、口をつぐんだままの沈黙が流れた。
「はいはい、そこまでですよ」
 そこでエクス・ヴィトが口を挟まなかったら、セラフィスは二度とクレアの方を見なかったかもしれない。エクス・ヴィトはふたりの間をつなぐように交互に顔を見ながら言葉を続けた。
「そうは申されても殿下、姫さまがああおっしゃられなければどうなっていたかわかりませんよ」
 エクス・ヴィトがセラフィスに声を向けると、彼はすねたように唇をとがらせた。
「殿下の弱点をよく知っているということですね」
「弱点?」
 クレアが聞き返すと、セラフィスはエクス・ヴィトがそれに答えるのを待たず振り返って言葉を継いだ。
「なめられた、ものだな」
 重々しく唇を破ってセラフィスは言った。
「そんなに頼りなく見えるのかな、私は」
 わずかに自嘲の色さえ込めながら、笑いをもらす。
「甥とはいえ、こんな小さな子供に簡単に取って代わられると思われていたとはな」
「年は関係ないでしょう。必要なのは象徴ですから。王太子としての、男」
 セラフィスは立ち上がり、窓を通して差し込む光の中に影を作った。
「私も同じかな。王太子という座っているだけの、形代かたしろ
 エクス・ヴィトは目の前に広がった紙を弾いて、笑った。
「そんなこと、思ってもおられないくせに」
 笑いかわす声の向こうで、エクス・ヴィトが何でもないことのように言った。
「あの印はどうなさいますか」
「裁きの間に晒しておけ」
 クレアが震え上がるような声でセラフィスは言う。
「姉上の嫁ぎ先だ、直接報復などと言う真似はしたくはないが、そのまますべてを許すほど寛大になるつもりもない」
 セラフィスはその薄紫の瞳に突き刺すような色を宿した。
「いかに、我が国が軍事力に劣るとは言っても、卑屈になる必要などどこにもないのだからな」
 そのセラフィスの、見たこともないほどの厳しい瞳の色、想像もできなかったほどの怒りに、クレアはふとあることに思い至った。
 もしかして、あれは真実なのではないのか。
 それは、恐ろしい考えだった。しかし、クレアはそこに、それにすがる自分を見た。
 セラフィスのその声に含まれるのは、裏切りを許さない怒りだけではないような気を起こさせる。つまり、真実を暴かれたゆえ、隠していた事実が明るみに出たゆえの怒りもあるのではないか。
 かと言って、それを問いただす勇気はなかった。そうできるわけもなかった。しかし、操られていたとは言えその折民の口から洩れた言葉、それをセラフィスは態度で否定はしたが、言葉ではそうしたわけではない。それもそうだ、もしそれが真実だったとすれば、自らの口では否定できまい。ただ、態度で示したことを民が、そしてそれを見た者がどう取るか、だ。
 自らの腕を傷つけて示したあの血を疑う者はないだろう。それは、すなわちセラフィスの正統性を示すに足るものだった。しかし、あれがセラフィスの賭けだったとしたら。流れてはいない王家の血をそれと信じさせるための。
 クレアの脳裏に一筋の光が差した。それがなぜなのか、彼女にはわからなかった。ただ、もしもとの考えが彼女をひどく陽気にさせた。おかしな話だ、王太子たる兄が、ともすればその資格を持たないのではないかとの考えがこれほどに気分を明るくさせるとは。それは、彼女に大きな衝撃を与えるべきだった。兄と信じていた者が兄ではないかもしれないのだ。しかし、それが言葉が与える印象ほどは深刻なものには思えないのはなぜなのだろうか。
 セラフィスの思った以上の厳しい口調が、クレアにそんなことを考えさせる。クレアは首を振った。首を振ってその考えを否定した。
「なぜ、そのようなことを考えついたのですかしら」
 エクス・ヴィトはふたりの前を去っていった。王太子の腹心である彼は、この事件の最終的な後始末を任されていた。それが、魔道が大きく関った事件であるからにはなおさらだった。
「よくある話だよ。それに一番効果的だ」
 セラフィスは窓を背に立ってクレアの質問に答えた。
「民は、王家の血の正統性を信じている。それを持つだけで聖なる力が宿るというふうにな。それを逆手にとれば、その権威を失墜させることなど容易だ」
「王族の血を持つというだけで、国を治める力があると思われている、ということですか……?」
「そういうことかな」
 セラフィスは窓際を離れ、エクス・ヴィトが残した報告書を取り上げた。
「民にとっては、言葉しか信じられるものはないからな。この男が王家の長男で、王太子だと言われればそうと信じるしか術はないし、実はあれは偽の王子だ、と言われればやはりそれを信じるしかない」
 セラフィスは少し疲れて見えた。それも、無理はない。クレアはいたわるような視線を投げ掛けた。
「実際は、王家の血を持たずとも、国を統べる能力がある者はいるということですわね……?」
「それは、そうだろう」
 セラフィスはクレアの言葉の意味を掴みかねたようにわずかに困惑の色を見せながら言った。
「血縁がすべてではないからな」
 クレアにとっても、それ以上を口にすることはさすがにできかねた。ただ、すがるような目でセラフィスを見る。その視線の意味をどう取ったのか、セラフィスは優しく微笑んだ。
「お前には、辛い道を強いることになる」
 セラフィスは瞳を伏せて言った。
「このような試練は、王家に生まれついた者にはつきものとはいえ、お前だけには味合わせたくなかったのだが……」
 そう言うセラフィスはクレアが見たこともないほど意気消沈していて、彼女はそれにかえって不安を覚えた。
「ご心配、なさらないで下さい」
 クレアは先ほど浮かんだ考えを振りきるように元気な声で言った。
「お兄様が流された血に、私も応えたいのです」
 クレアの熱心な声にセラフィスは視線をあげる。
「お兄様の正統性が疑われるなら、それはまた王家そのものに対する侮辱でもあります。そんなことを、王女としての私も許してはおけません」
 セラフィスはじっとクレアを見た。その、吸い込まれそうに澄んだ水晶の瞳にクレアは頬を染めないようにするのに苦労した。ともすれば、それはそのまま身をゆだねたくなるようで、クレアは肩に力を入れてその魅力に抗った。
「私に、王家の者としての誇りを示させて下さいませ」
 しばらく、沈黙が流れた。それを聞いていたエクス・ヴィトは小さく息をついて感嘆を示した。セラフィスは言葉を失ったように黙り込み、そしてやっと唇を解いた。
「……お前は、いつの間にそんなことを考えるようになったのだろうね」
 冷たいものが触れた、と思うと、それはセラフィスの手で、クレアは頬にそれを感じてにっこりと微笑んだ。
「ついこの間まで、木登りや水遊びを好むような子供だったのにね」
「私も、いつまでも子供のままではおりません」
 子供の殻を脱ぎ捨てたその時、胸に走った未知の味が蘇る。クレアは急いでその邪念を振り払った。そして、その思いが引き起こす熱が、セラフィスの手を伝って彼に届いてしまわないか危惧した。
「私も、大人になります」
「そのようだな」
 セラフィスはにっこり笑って手を離した。
「頼りにしているよ」
「ありがとうございます」
 クレアはドレスの裾を持ち上げて頭を下げた。セラフィスはわずかに硬い表情でそれを見つめていた。
「あの、お兄様」
 クレアは彼の腰を下ろす机の側に近寄って言った。
「お願いがあるのですけれど」
 顔をあげて彼は首をかしげた。
「あの、私の供に、魔道研究院のアーシュラもお入れ下さいませんか?」
「アーシュラ?」
 手を止めてセラフィスは言った。
「ああ、あの、ラーケンの拾った子かい?」
「ええ」
 顔をのぞき込むクレアに、セラフィスはにっこりと微笑んだ。
「聞いているよ。結構魔道の腕が立つようじゃないか。お前の友達なんだって?」
「ええ、そうなんです」
 クレアは指を組んで、ねだるようにセラフィスに言った。
「きっと、アーシュラが付いていてくれれば危険なこともありません」
 セラフィスはペンを取り上げた。彼の走らせるペン先の音だけが部屋に響く。
「わかったよ、どうせ、幾人かの魔道師をお前につけることにはするつもりだ。女性の方が向こうも警戒しないだろうしな」
「ありがとうございます、お兄様」
 クレアがにっこりと微笑んだので、セラフィスは呆れたように笑った。
「おいおい、遊びに行くんじゃないんだよ。ともすれば、とても危険な目に合うかもしれないんだからな」
「ええ、わかっていますわ」
 クレアはきゅっと表情を引き締めて言った。
「例え、何があっても、私はお兄様のお役に立つことだけを考えて行動いたします」
「……」
 クレアの熱い言葉に、セラフィスは答えなかった。字で埋めた紙を丸めて持つと、寂しげすら見える笑みを洩らして言った。
「何が、お前を子供でなくしてしまったんだろうね」
 クレアが何かを言う前に、セラフィスは彼女の前を去った。その後ろ姿を、クレアは驚いて見つめる。
「お兄様……?」
 残されたのはクレアだけ。大きな仕事を前に、弥増すのは戦きや戸惑ではなく、そんな兄の言葉から生まれるある思念。そして、それは重なるごとにクレアの中で、ひとつの大きな波となって揺れ始める。
 姫君の出立は、一週間後と定められた。この訪問は大々的に告示され、クレアはふたつの国を巡る、疑惑と陰謀のただ中を行くことになった。物々しい空気が、華やかなはずの一行を彩る。それでも、クレアは不思議と不安は感じなかった。
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