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第二章 貴族は皆、息吐くように嘘をつく

第36話 失くしたもの -アーサー-

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 公務が増え、乳兄弟のフェリクスだけでは業務は多忙を極めた。

 何より軍務と公務は物理的に距離がある。だから軍務はフェリクスに、公務はルビアディル公爵家三男のデヴィッドに割り振るように決めた。

 デヴィッドは華のある社交人で、人の機微に聡くそつの無い立ち振る舞いの美男子だった。
 人手が欲しいと兄に相談した時に、女の噂が絶えない奴だが、女性の機微に疎いお前には丁度いいと余計なお節介をされた。

 ただ兄は、あの時何かを言うべきか迷っていたようにも、今ならば思える。
 
 皇城では皆が好む嘘が真になり、異端すべき真実は隠蔽される。どんな都合もこちらの手にある。
 だから噂など恐るるに足りない。本来なら。

 デヴィッドの様子を見て、皇城勤めに向いていると思ったので決めた。
 強いて言うなら大して人となりを理解していなかったが、城内の事務仕事で何を心配するのかと、アーサーは特に気にも留めていなかった。

 実はレストルに打診すべきか最後まで迷いがあったが、あれが相手ではどっちが使われているのか分からなくなるだろう。何となく面白く無いという理由でやめた。
 でももしレストルに任せていたらきっとこんな事にはならなかっただろう。

 頭の中を駆け巡る「なぜ」

 自分たちは結婚するんでは無かったか……

「俺が調べた限りでは一年程前からです」

 執務机で書類を手に持ったまま放心していると、フェリクスが口を開いた。顔を上げるといつもの無表情が見つめ返してくる。

「アーサー殿下もご存知でしたでしょう。あなたが皇都を不在にしていた頃から、ライラがデヴィッドと親しくしていたという噂を」

「……ああ」

 聞いていた。だがライラは第二皇子妃となるていで社交会デビューしているし、本人も分かっていた筈だ。
 だからまさかそんな噂が本当な筈が無い。馬鹿馬鹿し過ぎてわざわざライラに確認する事もしなかった。

 それがもし本当なら、どうなるか位本人たちだって分かっている筈だ。ライラは皇妃教育を受けているのだから……

 だが念の為噂の出処を警戒し、皇都の部下に下らない噂は速やかに鎮静するように指示を出した。

 たまに戻る皇都でもいつも忙しく、慌ただしく過ごしていた。噂の確認などしなかった。

 ライラとゆっくり過ごす時間もなく、一言二言何事か確認するような挨拶をするのがやっとだった。確かに会えない日の方が多かったが、ライラの様子がおかしいと思う事も無かった。

 デヴィッドとライラの噂は部下を通し、相変わらず聞こえてくる。
 でも信じなかった。噂はどんどん酷いものになっていく。

 何故そんな噂が出るのか、沈静化を図ろうにも消えないのか。

 何故か。アーサーにはそれ以上考えられなかった。

 ◇ ◇ ◇

「申し訳ありません」

 フェリクスの声にアーサーははっと顔を上げた。

「妹が馬鹿な真似を」

 その顔は苦渋に満ちていて、アーサーは驚いた。

 この男が表情を変えるところなど、思えば見た事などあっただろうか。
 乳兄弟として育っていたころはまだ子どもらしい面もあった気がするが、思えばライラが生まれ、それが原因で母親が亡くなった頃から物静かな男になってしまった。
 理由がそこにあるかは分からないが、フェリクスとライラはあまり仲が良くない。

 アーサーは殆ど覚えていないが、乳母に急に会えなくなった寂しさは何となく胸に残っている。
 フェリクスにとっては実の母だ。アーサーのそれよりずっと辛かった筈だ。

「よしてくれ。お前に謝られるのは違うだろう」

 アーサーは首を横に振った。

「それより仕事が一つ増えた。対応を頼む」

 いずれにしても元婚約者候補と自分の侍従の婚約だ。元婚約者を下げ渡す寛容な皇子となるか、振られた惨めな皇子となるか。皇子としては前者だろうが、自分には後者しかやりきれる自信がなかった。

 ふと目を閉じる。

 思い出すのは初めて会った時の事。
 
 覚えたばかり淑女の礼を取り、上手くできたと満面の笑みを浮かべて得意げな顔で喜んでいた。淑女らしくないと教育係の侍女頭にたしなめられると、今度は顔を俯けて落ち込むのだ。

 アーサーは思わず笑みこぼれ、その手を掬い取って指先に口付けを落とした。

 驚いた顔が赤く染まるのか嬉しくなり、思わず将来を共にして欲しいとプロポーズとも取れる言葉を口にしてしまったが、ライラは嬉しそうにはにかんでくれた。

 大人になるにつれ淑女らしくなっていき、でも愛らしさには磨きが掛かり、我が事のように嬉しく思っていた。

「……残念だ」

  現実に返るように目を開けた。

 ライラとの時間は、軍属になってからは社交に復帰するまで全くと言っていいほど取れなかった。
 冠婚葬祭でもなければ一兵卒には自由時間など取れはしない。里帰りを頻繁に行う者もいたが、そういう者は割と直ぐに退役していた。

 だからといって別にライラの事を考えていなかった訳では無い。ただタイミングが難しかったのだ。

 出来ればエリックの立太子後に婚約し結婚へと臨みたかった。
 だが恐らくエリックの立太子は最低でもこの国の男性の成人とされる15歳。ライラは22歳になってしまう。女性は20歳を越えると行き遅れ扱いされる為、流石に辛いだろう。

 ならばどこが良いかと考えれば、建国五百年の祝祭。祖母の体調不良が多少気になるが、これに合わせて婚約を発表すればと思っていた。

 まあ結果考えるだけで終わってしまったが。

 祝祭は盛大にとり行われるだろう。ライラたちの婚姻を祝うように、合わせて盛大に────

「殿下は何故────」

 口を開くフェリクスに顔を向ける。今日は良く喋る事だ。アーサーは自分の侍従に目を向けた。

「何故ライラと婚約なさらなかったのです?」

 そう言われて、アーサーはふと海色の瞳を瞬かせた。
 フェリクスの瞳は全てを見透かすように、相変わらず物静かだ。
 降参とばかりにアーサーは肩を竦めた。

「私が第二皇子だからだよ」

 ────何があるかわからないから。

 長年婚約をしていても、その縛りが何某なにがしかの事情により解消されない保証は無い。
 アーサーはライラと結婚するつもりでいたが、それでも自分の婚約────結婚は駒として浮かせておきたった。

 そんな打算が裏目に出てしまっただけだ。
 
 何があるか分からないといいながら、もし政略結婚が来ても回避する気でいたのに。
 あわよくばそれさえ逆手に取りライラと婚姻出来れば、よい政治手段にもなると思っていた。取らぬ狸の何とやらだ。

 アーサーは息を吐いた。

「今日か……」

 ずっと眺めている書類にまだ視線を落としているのに気づき、手を離した。頭に入ってこない。

「ええ、それと殿下にお願いがあります」

 アーサーは顔を上げた。またしても珍しい。この男がお願いなどと。

「今日ライラと話して欲しいのです」

「ライラと?」

「そこでライラの事を断ち切って頂けませんでしょうか?」

 ……余計なお世話だ。全く。

 アーサーはまた一つ息を吐いた。

 急すぎる……色々と……

「私の従者と幼なじみの婚約だ。祝福しない程狭量ではない」

「よろしいのですか」

「構わないから連れてこい」

 視線は先ほど手放した書類から離せずに淡々と告げる。
 かしこまりましたと一礼する気配の後、ドアの閉まる音が聞こえた。

 自分は冷静なのだろうか。

 長年傾倒してきた幼なじみが別の誰かに嫁いで行ってしまうというのに。嫌だ駄目だという言葉が出てこない。

 アーサーは両手を組んでその上に額を乗せた。

 目を閉じると、昔見た柔らかく微笑んでいた幼なじみの少女が浮かぶ。

 父も兄も、きっと気づいていてアーサーに知らせなった。
 試されていたのはアーサーか、ライラか。

 軍務の間数える程しか会えなかったが、それでもライラ以外の女性には目がいかなかった。夜会では必ず初めにダンスに誘った。社交が嫌でも顔に出せずに鬱屈としていると、あの微笑みが癒してくれた。

 ライラ────ただそばにいるだけで安心できて癒されていた。

 あの笑顔が思いだされる。

 最後の会話は何だったか。

 一番印象に残った言葉でも構わないのに浮かばない。

 けれどもう、あの笑顔が自分に向けられる事はないという確信と、それでもいつまでも忘れらないだろうという痛みが胸を苛んだ。
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