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第三章 偽り、過失、祈り、見えない傷
第73話 未来の自分
しおりを挟む「やめて!お母さまは亡くなったのよ!」
ライラはレファナの手を振りほどき叫んだ。自分を抱えるようにしてじりじりと後ずさる。レファナは、はんと笑い声を上げた。
「何言ってんだ。だからこうして生きてるって教えてやってるのに、物分かりの悪い子だね」
そしてはあと息を吐く。
「あたしはあんたに、こんなに心を砕いているのに。ねえ、あのリヴィアって女は邪魔者だったろう?」
唐突にあの女の名前が飛び出して来て、ライラは一瞬怯んだ。あの女がなんだと言うのだ。
「あの邪魔な女はあたしが片付けてやったからね。崖から突き落として、綺麗に落ちて行ったよ。あたしたちの邪魔をするなんて許せないものねえ、ライラ。分かるよ、あいつの浮気相手も黒髪だったんだ。あの手の女は人から男を掠め取るのに長けてるからね。ちょっと強気にあしらうくらいで丁度いいんだよ」
ライラは瞠目した。
な、な……何を……したと……!
「ああ、いいんだよお礼なんて。そんな事より母さんを大事にしておくれね。あたしが手を汚したのは、全部あんたの為なんだから」
「嘘よ!わたくし、あんな女どうでも良かったわ!こ、殺すなんて……そんな事……は」
「へえ?じゃあその瓶はなんなのさ、毒じゃないのかい?」
レファナは小瓶を顎でしゃくって示す。
「違う!違うわ!これは媚薬で……これは……」
女は再びははは、と嗤った。
「あんたさあ、自分の思い通りに行くように、力付くてやってるって自覚が無いのかい?あたしと一緒だよ」
ライラは、はっと青褪めた。
「それにさあ、あんただってアーサー殿下の婚約者だったのに、その侍従と結婚したじゃないか。何もかもあたしと一緒じゃないかい。何が違うって言うんだい」
目を逸らしていた事実がライラを正面から射抜く。
「今だってアーサー殿下にくっついて歩いてさあ。やっぱり子爵程度じゃ不満だったんだろ?あんたはあたしに似て向上心が高いからねえ」
満更でも無さそうに首肯するのはやめて欲しい。
けれど一緒にするなと叫びたくなるこの女の言葉は、自分が当然享受するべくと考えていたもので。
思わず触れた思考に、悪寒が背中を駆け上る。
「あの皇子様はあんたを愛妾にしてくれるんだろ?それこそあたしのおかげだよ。あたしはあの子の乳母だったんだから。あの子はあたしが育てたようなもんさ」
ライラが産まれたのはアーサーが3歳の時だ。物心がつくかつかないかの頃だと言うのに、何を言っているのか。それにさっきから自分の都合に合わせた解釈をして、本人の意思をまったく確認していないではないか。
「……!」
ライラは震えた。同じだ。
自分はアーサーに何も聞いていない。いや違う。アーサーが自分を愛しているのは揺るぎない事実なのだから。だってアーサーは。アーサーは……
「もうやめて!」
ライラは両耳を塞いで座り込んだ。
目の前にいるメイドの女は自分の事を母親だと言う。
────違う。
ライラはお父さまの子では無いと言う。
────違う。
メイドにまで身分を落とし、浅ましい物言いを繰り返す。まるで未来の自分を鏡で映したようで……
────違う!
「違う違う違う!!!」
ライラは首をぶんぶんと振り、乱れた髪の間からメイドを睨みつけた。
「メイド風情がわたくしになんて物言いをするの!お前なんてお父さまに頼んで断頭台に送ってやるわ!」
「なんだって?母親に向かってなんて事を言うんだい!いいから今まで出来なかった親孝行をするんだよ!お前ばっかり上手い事収まろうなんて、そうは行かないからね!」
そう言ってレファナは、にやりと口端を引き上げた。
「そうそうしっかり話しておかないとね。あたしがあんたの母親だって。アーサー殿下に。イスタヴェン子爵に」
その言葉にライラは震え出した。
「あ、あ……やめて。やめて……」
そんなもの誰も信じない。誰も相手にしない。けれど、ライラの思考が刺激され、思い出される。
デヴィッドとの婚約を発表した時よりも酷い誹謗中傷。
身の置き場の無いいたたまれなさ。
あの時よりも、もっと酷い────
嫌!こんな話、誰にも聞かれたく無い!
ライラは反射的に近くにあった置き時計を掴んだ。
◇ ◇ ◇
屋敷内を駆け回る使用人を躱しながら、フェリクスは執務室に向かっていた。
屋敷から辺境伯に続きリヴィアが抜け出し、更にその後をディアナが追って行った。そして今彼らには人知れずご退場頂いている。
おかげで指揮系統がどこにもない。右往左往する私兵や執事に、自分が代行すると話をつけた。
正直こうなる事はある程度予想できていた。馬鹿じゃないかとは思わないけれど、間違いなく罰は下される。
何せ国家反逆罪だ。辺境伯に至っては妻の罪に気づいていながら、その罪を引き受けようとして、更に罪を重ねている。
確かに二人に同情の余地はある。けれど罰を軽くしても咎人の心は軽くはならない。
何故なら彼らは悪人ではない。罪の重さに耐えきれず、良心の呵責に耐えられなくなるだろう。
アーサーが減刑を考えるなら一言物申すべきだ。フェリクスは口元を引き結んだ。
フェリクスは贖罪をしない。自分が正しいと思っている訳でもない。自分は産まれた時から汚れていて、その手で既に沢山のものに触れてきた。
それら全てが元から綺麗であったわけでは無いけれど、汚してしまったものの方が多いとは思っている。
何せ自分は、あんなものから産まれてきたのだから。
汚れていくだけの自分には、清らかな者たちが砕け散る様は憂鬱に映るだけだ。フェリクスはこんな事になった彼らに心から同情した。許されるのはそれくらいだと分かっているから。
執務室で私兵の隊長と執事で打ち合わせをしていると、泡を食ったように使用人の一人が飛び込んで来た。
今度は何だと眉を顰めるフェリクスの顔を見ながら、使用人はライラの名前を口にした。
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