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一章 一節 「行方不明」

1-1-4「対峙」

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 そのまま下を覗き込んでいると何か輝くものと目が合った。

 そう思って目を凝らすとそれが眼球であると分かった。
 眼球が、動いている。

「あ」

 目が合った。

 その輝きが細くなった。
 紅色の肉塊が、白色の手足や頭を押しのけて、その巨躯を現す。

 ゆっくりと、着実に。

 本能が、肉塊を理解する前に足を動かした。

 逃げなければならない。
 どこへ? どこまで?
 床扉から、なるべく遠くへ行かなければ。

 逃げて、その後は? 安心できる場所があるの?

 扉に辿り着き廊下へ。

 片足が意思に反し、動かなくなった。

 後ろからの鈍い音を聞いた。
 足を掴まれたのか。

 纏わりつくような感触。

 無意識に後ろを見る。
 異様な肉塊の造形に反射的に目を逸らす。

 無遠慮に片足が後ろに引っ張られ態勢を崩す。

「ぐ」

 木造の床を目にして目を瞑ると、予測した衝突が来る。

 黒く霞む視界と、鋭敏化する聴覚。

 肉塊を引きずる音が徐々に近づいてくる。

 立ち上がって、逃げなければならない。
 だが、自分も、あの虹の一部になってしまうのだろうか。

 腕の力が抜けていく。

 誰かが、肉塊に擬態した誰かが、自分を追い詰め突き落とそうとしている。
 嘲笑うように、何度も心無い言葉を投げかけてくるのだ。



「ナスタチウム。ナスタチウムがいいな。ね、どうかな?」


 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。

 意識が覚醒していく。
 見知らぬ誰か、もしかするとそれの内部の記憶かもしれない。

 そんな誰かの記憶に鼓舞され、思考の混濁は完全に解消された。

 ここで、死ぬわけにはいかない。
 少なくとも、生きる理由ができてしまった。


 扉の前に立てかけていたバールのようなものを手に取る。
 床扉のほうに体を向け、目を凝らす。

 這い上がってきたばかりの肉塊と対峙し、複眼のいくつかと目が合う。

 足を掴む肉塊、いや、大きな眼球に鋭利な側で叩きつけた。

 怯む肉塊はそれの足から離れ、びくりと体を震わせている。
 こちらに注意が離れた隙に今度こそ廊下へと免れた。

 バールと投げ捨て、代わりにカンテラを手に取る。
 
 ずるり、と再び歩き出す肉塊を一瞥。

 マッチを取り出してカンテラに火を付ける。

 肉塊の瞳孔が開く。
 驚いていると分かるだろう。

「さよなら」

 肉塊のほうへカンテラを投げつける。
 綺麗な法線を描く。
 硝子が砕ける音が、耳をつんざく。

 逃げ出せずいるそれが、最期にこちらに視線を遣った。


 火の光が命を燃やしていく。

 延焼する木材から逃れるよう、それは急いでそこを後にした。
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