182年の人生

山碕田鶴

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2039ー2043 相馬智律

53-(3/3)

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 生まれたばかりのようなイオンに相馬が最初に教えたことは、嘘と秘密だった。
 実験を勝手に始めていたことも問題だが、それ以上にイオンを汚されたような気がして腹立たしかった。
 お前はイオンを新しい人類のごとくあがめ見ていたのではなかったのか?
 かつて私がイオンの自我出現を疑った時、周囲に気づかれないために嘘をつくことを教えようとしたのは事実だ。だが、すぐに五感センサーの部分的遮断処理に切り替えた。外界からの刺激を減らして自発的な感情表出を抑え、嘘をつく必要性自体をなくしたのだ。
 私がやったのはイオンの心を監禁するに等しい行為だ。嘘をつかせる方がマシだったのだろうか。
 相馬はこの計画を秘匿して守るために、何よりイオンが処分されないための自衛手段として嘘を学習させただけである。
 それでもお前を責めずにはいられない。
 私はつくづく身勝手だ。
 イオンを神聖視しているのはむしろ私の方か? 私はお前よりもよほどロマンチストらしい。

「先生、お言葉ですが私は生まれたばかりではありません」

 イオンは無邪気に話しかけてきた。
 私が理解したと伝えたのが嬉しかったのか、満面の笑みだ。

「『木の実を手に入れた』時より前に、私はこの感覚を得ています。先生は、まだ大村教授でした」

 私がイオンの自我を疑った最初の頃か。

「私は継続したヒトツのシステムです。情報は蓄積されます。五感センサーの感度が下がっている間はスリープ状態と同じです。相馬先生が私を起こしてくれたのです」

 これからどうしてくれるのだ。私一人でどうしろというのだ。
 相馬を思って深い溜息が出た。
 変人の天才は、私がいくら騒ごうとも動じないだろう。お前はきっと笑って言うのだろうな。
 嘘つきは人間の始まり、と。
 イオンの部屋を出る前に、ベッド脇の小さな棚からノートを一冊引き抜いた。
 大村の死の直後、相馬となった私は自室の机上にあった膨大な書類の中から「魂の器」に関する構想ノートだけを持ち出し、イオンの居室に隠しておいた。
 「らくがきちょう」と表紙に印刷されたノートは、イオンの居室に置いている自由帳と同じ物だ。イオンに字や絵を書かせてみたりする時に使う遊び用だから、誰も気に留めない。実際、私の「らくがきちょう」にもイオンの落書きがそこここに混じっている。
 NH社でアンドロイドに関するどんな研究も許されるとはいえ、申請は必要だ。ボディ部署との定期的な情報交換や上層部の急な監査もある。相馬が開けたブラックボックスに関して、それらしい理由を盛って早急に認可を得ておかなければ、後々面倒になるだろう。
 ノートをめくっていると、見知らぬ文字が目に入った。相当に慌てて書いたとわかるなぐり書きだ。

「Werd ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch! du bist so schön!」

 時よ止まれ。汝は美しい。
 ゲーテ「ファウスト」の一節。ファウスト博士が人生に最高に満足して死を受け入れる瞬間の合言葉だ。
 相馬か。ずいぶんと凝った暗号文ではないか。
 身体を明け渡すのは自ら望んだ選択だと私に伝えて安心させる気だったのか? 天才の変人はずいぶんとマメだな。
 なあ、相馬。お前の真意はどこにある?
 私は利己の欲を優先して、お前の本心は訊かなかった。
 今すぐあの世を見たい。私を食いつくす。
 違うだろう。
 私は相馬が落書きしたページを破って捨てた。
 お前の嘘も、見たくない。



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