182年の人生

山碕田鶴

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2039ー2043 相馬智律

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 私は私的な痕跡を残さない。それは昔からの習慣だ。よって最低限の物しか持たない。
 別に利己的本能の欠如ではない。いつ消えても困らないための、ある意味保身だ。
 物欲なく永遠の命を望むとは、この世への執着があるのかないのかわからないな。
 研究棟の居室スペースに置いていた記録や未公開の計画書は、夜のうちに全て廃棄した。手伝いに来たイオンたちはシュレッダーが楽しかったのか、餌を与えるがごとく嬉々として紙を突っ込んでいた。この時代に最も機密保持に向くのが手書きのメモとは、何とも私向きだ。
 何も残さずに、はじめから存在しなかったように消えるのが理想だ。
 私は本来存在しないはずの人間なのだ。
 誰にも記憶されない。記憶されても、それは私ではない。
 それでも私は在り続ける。
 翌日の午後、私とリツを乗せた車は職員寮に向かった。
 研究棟から歩いても行ける距離にあるが、要は監視のためだろう。
 公営集合住宅のような、四角いだけの殺風景な三階建ての建物が数棟並んでいる。小さな公園もあり、親子連れがいた。

「ここはリツが外で見てきた風景に近いのではないか? 家族で住めるから子供もそれなりにいるらしい。敷地内には、昔ながらの分校のような学校もあると聞いている」
「シキの言う昔っていつの時代ですか?」

 リツが笑って訊く。初めて来た場所で何もかもが珍しいといったふうにキョロキョロ見て回っている。
 ここは相馬が最後に生活していた場所だが、リツには見覚えも懐かしさも皆無だ。
 リツの外出は、高瀬の言ったとおりすぐに許可された。私たちを職員寮まで送迎した本部の車は、駐車場で待機している。相馬の部屋の確認が終われば、照陽グループの車がリツを迎えにここまで来るだろう。
 そうして、リツはこの研究施設を出ていく。

「こんにちは」

 寮の階段で赤ん坊を抱いた若い女性とすれ違った。布にくるまれて両腕にすっぽりと収まっているのではっきりとはわからないが、生まれてまだ間もないのではないか。私自身が人間の親になったことがないせいか、これほど小さな子は見たことがない。リツも小さな人間を見るのは初めてだろう。わあと歓声をあげると、自然に笑顔になっていた。

「シキ、赤ちゃんて小さいですね。手、動かしていますよ!」

 こわごわと赤ん坊を見るリツを女性は柔らかな笑顔で見守っていた。まるで若い夫婦のようだ。
 相馬智律。彼には決して訪れない光景だ。
 私が未来を奪い、追い出した魂。その魂は今、目の前にある。
 私のこの肉体を彼に戻すことはできないのか。私がリツと身体を交換できれば、相馬の人生は再び彼のものにはならないのか。リツが再び元の肉体に戻ったら、相馬として生きていた過去を思い出すだろうか。
 ……これは私の願望か。リツの人格無視も甚だしい。身勝手にもほどがあるな。相馬はもういないのだ。
 私は頭を振って妄想を追い払った。

「わあ」

 リツがまた歓声をあげた。赤ん坊の小さな手が不器用に宙をとらえる。
 私が何気なく見ると、赤ん坊はわずかにこちらへ顔を向けた。
 目が合う。
 じっと私を見つめている。
 首もすわらない、視界もまだはっきりしないであろう赤ん坊が、私を凝視していた。
 ありえない。
 ……まさか。

「カイ?」
「え?」

 驚いたのはリツだ。
 同時に赤ん坊が泣き出した。女性は私たちに謝りながら去っていった。
 カイ……お前は、そこにいるのか?
 魂が引きずり出される感覚がよみがえる。
 恐怖に全身が粟立つ緊張感と、肉を裂かれる痛みと、鮮烈な生命の感覚と、倒錯した快楽と……。
 長く忘れていた全てが私を襲った。

「あの、大丈夫ですか?  シキ、顔が真っ青で……ちょっと⁉︎」

 崩れるように階段にしゃがみ込んだ私をリツは心配そうに抱きかかえた。

「とにかく部屋に入りましょう」

 ふらふらと何とか二階の部屋まで歩き、リツに鍵を開けてもらうとそのまま床に倒れ込んだ。ほぼ何もない空間だ。指紋でも検証しない限り個人を特定できるようなものは置いていない。
 相馬の過去の所持品は全て処分した。相馬の全てを私は奪って捨てたのだ。
 大村の寿命が尽きる恐怖に引きずられ衰弱していく私の魂を救ったのは相馬だ。その相馬から奪ったこの肉体までも、捨てることになろうとしている。
 静かに肩に触れかけたリツの手を取って、私は彼を抱き寄せた。

「すまない、相馬……。ゆるせ」

 リツは訳がわからないという顔で腕の中にじっと収まっていた。
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