境界のクオリア

山碕田鶴

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8.邂逅 三

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 晴久は男と並んでベンチに座ると、しばらく黙って駅ビルを眺めた。
 すぐ隣に、肩が触れるほどの距離に男がいる。それだけで緊張した。
   視線を落として隣を盗み見る。黒い上着の袖と膝の上で軽く組まれた手が視界に入った。

「よく会うな」
「会うのは二度目です」
「そう。二度も会った」
「別に待っていたわけではありません」
「だろうな。だから、私は運がいい」

 抑揚もなく言う男は、全く嬉しそうには見えない。

「君はいつも駅前にいるのか?」
「まあ……仕事で夜勤の日以外はだいたい、です」
「君は家がないのか?」
「……あります。アパートを借りています」
「仕事は何をしている?」
「……あの、なんで初対面でそんなことを訊くんですか?」
「会うのは二度目だ」
「いや、そうですけど……」

 晴久は個人的なことに踏み込まれるのを非常に警戒したが、男が自分に関心があるようには思えなかった。どこまでも事務的に訊いているといった感じだ。
   だいたい、無関心が顔に表れている。

「端的に言うと、私は君を疑った。君は変なことはやっていないと言ったが、今日も駅前でぼんやり座っている。しかも、ほぼ毎日か?  別に私には何の関わりもないが、疑われることがないのなら尚更夜に駅前でフラフラするのはよしなさい。君みたいにふわっとした気弱そうなのは、特に危ないだろう。変な輩に絡まれてトラブルにでもなったらどうする?」

 晴久は返す言葉もなかった。
   今、絡まれている。ちらりと頭をかすめたが、口に出す勇気はない。

「……とは思うが、これは余計なお世話だ。君がどうなろうとも正直私にはどうでもいい話だ。聞き流してくれて構わない」

 ずいぶんとはっきりものを言う人だと晴久は思った。
 どうでもいい話。自分だったら社交辞令でもう少し当たり障りのない言葉を選ぶ。
 だが、突き放したような言い方がかえって晴久を安心させた。
 この人は、遠い。

「危ないことは気をつけます。仕事帰りにちょっと寄っているだけですから。ただ、これは日課というか習慣……僕にとっては儀式みたいなものなので……」

   自分がしていることを説明するのが難しい。理解は期待していない。 
   男はつまらなそうに晴久を見た。

「儀式か。こんな所で神にでも祈るのか?」
「祈りません。その……自分をリセットするというか……今日の自分を消しているだけです」
「ゲームと一緒か。あっさりと毎日ゲームオーバーできて気楽だな」

   男に他意はないだろう。ただの相槌だ。それなのに、晴久は思わず言い返してしまった。

「明日また頑張るためです」

   ちらりと見られて、息が止まるほど緊張する。

「前向きだな。まあ、切り替えが早いのはいいことだ」

 褒めるでもけなすでもなく、本当にどうでもいいという感じで応じながらも男の声は優しかった。
   今度は自分が肯定されたような気がしたが、男が独り言のように続けた。

「君は面倒な感じだな」

 晴久はまた緊張する。男の一言一言が、まるで近寄ったかと思えば遠ざかる波のように晴久の心を揺らす。
 こんな見ず知らずの男の何気ない言葉さえ気にして、どう思われたかなんて気にして怖くなってしまう。顔色をうかがっているわけではないけれど、返される言葉や態度にいちいち反応してしまう……。
 晴久はうつむいたまま小さく溜息をついた。
   どうしよう。胸が、痛い。

「それで?」

 男が静かに訊いた。

「いつからやっている?  ……儀式だ、儀式。大事なんだろう?  話がまだ途中だ」
「え?  あ、はい……」

 つまらなそうに、でも訊くんだ。
 興味関心ではなく事務的な取り調べといった感じの男の問いに、晴久は自身の記憶をたぐり寄せていった。

「元々は小学生の頃の習慣です。その時は駅前ではなくてショッピングモールの中でしたけど。さすがに、儀式とかいう感覚はなかったです」
「ずいぶんと年季が入っているな。小学生はそこで何をする?」
「何も。ただ毎日閉店まで買い物客を見ていました」

 ショッピングモール館内の中央広場に建つ時計台。その前に置かれた待合ベンチが、晴久の居場所だった。

「毎日家出か。大胆だな」
「その……僕はいらないって……母からずっと言われていて。家にいられなかったんです。モールに行けば一時的に母の願いを叶えられたし、家にいるよりマシでした。モールで僕を気にする客もいませんでしたし。……そう、何をしていたっていえば、僕は自分が消えてしまわないかなって、ひたすら願っていました。でも無理そうだから、透明人間でもいいやって」

   晴久は自然に笑顔になっていた。自他の境界に線を引いて自分を守ろうとするのは無意識だ。
   他人事のような話ぶりもわざとではない。自分だけが知る、どこか自分でないような記憶には現実味がなかった。

「その頃から自分を消し続けているのか?  消しても消しても湧いてくるのか」
「湧く?  ははっ、ホントですね。僕は湧き続けている……」
「周りから何か言われなかったのか?」
「たぶん何も。あの、ウチは普通の家だったと思いますよ。通報されたとか事件になったとかはないですし」
「そんなものか?」
「少なくとも僕は普通だと思っていました。それに、ずいぶん後になって一度だけ母が謝ってきたんです。あれは虐待だった、かわいそうなことをした、もっと大事にしてあげれば良かったって」

 ある日、晴久は母から突然そう告げられた。高校生の頃だ。

「ちょうどテレビで子供の虐待が話題になっていた頃で、それを見て自覚しちゃったんですかね。ただ、謝られても僕は何も感じませんでした。この人は罪の意識に耐えられなくて謝って、それで勝手にゆるされて全て忘れ去るんだろうな。そう思っただけです。その後関係が良くなったわけでもなく、嫌われることさえない完全な他人になった感じで。今は会うこともないんですけど。ショッピングモールの方は、小学校卒業の頃に引っ越したので、それっきりです」

 晴久にとっては、ただの昔話だ。どこか他人事のような乾いた記憶。
   家庭のことを誰かに話す日が来るなど考えもしなかった。
   今こうして話しているのは、きっとこの男が自分と全く関わりのない、名前も知らない他人だからだ。
   この状況もまた、現実味がなさ過ぎた。
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