境界のクオリア

山碕田鶴

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34.真意 一

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 夜勤明けのぼんやりした頭で、晴久は陽射しの強い窓辺に揺れるレースのカーテンを見ていた。
 波、みたいだな……。
 布団に入ったものの眠気のピークを過ぎてしまい、眠るに眠れない。
 必要最低限の物さえ揃っていないような殺風景な部屋で、唯一テーブルに飾っている絵をつかんで寝転がった。
 明美が手帳に描いてちぎった落書きのような絵。
 石崎から預かった消耗品のギターピックと明美の絵は、晴久が初めて手に入れた形ある宝物だ。
 絵を眺めながら、晴久は自分の内のモヤモヤした気持ちも眺めていた。
 僕は他人と関わるのが怖い。
 表面的に社会生活を送れるくらいのことはできるようになった。自分から、もっと関わりたいと思えるようにもなった。
 存在の全てが欲しい。そう強く望む相手がいる。
 それなのに、どうしても近づけない。
 僕の心は近づくことを怖がって遠くに隠れている。きっちりと引いた境界線の内側で、ひとり寂しく安心している。
 思い出すのは、闇の中より暗い黒。ただそこにいるだけで人目を惹く存在感。不機嫌にも見える気難しそうな顔で、つまらなそうに僕に声をかける姿。
 うつむいて黒髪が少し頬にかかるのを僕はまともに見られない。なぜかぞくりと粟立つ感覚に、水底に引きずりこまれて沈む自分を思う。
   僕のことに無関心で拒絶の目を向けたかと思えば、静かな声が僕を引き寄せる。
 もし、その唇が僕の名の軌跡を描いたら……。
 想像して、またぞくりとする。
 歓喜にはほど遠い絶望。
 晴久は、速まる鼓動をそのままに布団に突っ伏した。

「ムリだな……。ハ、ル、ヒ、サ……」

 心臓が痛い。
   僕は、あなたに名前を呼ばれる勇気がない。
 ライブハウスでギターを弾く石崎は、晴久が全く知らない別人のようだった。
 それも含めて石崎さん、だよな。
 ……ササイシンって、誰だろう。
 検索すればきっと何か出るはずだ。でも、知れば益々遠くなる気がする。直接訊かないのにこっそり調べるのも気が引ける。
 気になるなら訊いていい。そう言っていたけれど、そもそも石崎さんは僕にササイと呼ばせない。
 ササイシンは僕とは無縁の存在だということではないのか。
 答えの出ない思考を繰り返し、繰り返し、戻れなくなる前に振り出しに戻る。
 ……ずっと石崎さんのことを考えているな。



 学生が夏休みの時期になると、施設の面会に孫やひ孫が多くなる。少し賑やかな雰囲気が入居者を笑顔にする。

「あら、かわいいねえ。ボクいくつ?」

 小さな子供を見て車椅子から声をかける百歳のキヨは、面会者を笑顔にする。フロア全体がいつもより穏やかだ。
 キヨにも孫家族が面会に来ていた。帰り際にフロア長と話している。

「婆ちゃんアタシらのことはもう忘れちゃってて仕方ないんですけど、南大東島の思い出もなくなっちゃったんですかねえ。旅行で行ったから写真見せに来たのに、これは違うって怒って。今はこんなだよって言っても全然ダメで……」

 晴久は、面会が終わったキヨを部屋に連れて行くため車椅子を押した。

「佐藤君。南大東島ってご存知?」

 キヨが機嫌良く話しかけてきた。

「一面サトウキビ畑でね、海も。……」
「……キヨさん?」

 キヨはそれ以上何も言わなかった。
 晴久は、キヨを抱きかかえて車イスからベッドへの移動を介助する。男でも気をつけないと腰を痛める重労働だ。
   高齢者は少し体をこすっただけで酷い内出血になることもあるので、常に細心の注意が必要だ。

「佐藤君はいっつも優しいねえ。ありがとうねえ。ああ、南大東島ってご存知?  いいところなのよ」

   今日も僕は佐藤君だな。
   キヨの前で晴久はいつも佐藤君だ。

「キヨさんは南大東島、また行きたいですか?」

 ふと訊いてみた。ベッドに横になったキヨは、穏やかな笑顔で床頭台を指差した。施設に来た時から飾ってある古い風景写真だ。

「私の南大東島よ」

 一瞬、キヨの心にかかった霧の先を見た気がした。キヨの言う南大東島は思い出の中にあるということか。
 見返すと、いつもどおりふわふわと曖昧な笑顔で晴久を見ている。
 本意も真意もわからない。それでもキヨはそう言ったような気がした。
   キヨの知っている南大東島と、家族の見た南大東島は違う。どちらも本物なのに、同じではない。
   キヨにとって大切なものは、もう過去の自分の記憶の中しかないのだろうか。
 
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