境界のクオリア

山碕田鶴

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42.天明 五

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「あーもう最悪。なんでオレ泣くんだか……。化粧してなくてよかったー」

 明美はぐったりしながら笑った。

「よくわかんないけど、泣いたらスッキリしたなあ。こんなの何年ぶりだろ?  お客君はしょっちゅう泣いているよね」
「……すみません」

 謝る晴久を見るうちに、明美の笑顔は消えていった。晴久が戸惑って緊張するのを明美は無表情で見続けた。

「君はずいぶんあっさりと、人の心の暗い部分に入ってくるんだね。あ、悪い意味じゃないよ。君が詮索するとかじゃなくてさ、君なら引かれないだろうなって気がして、他人に言えないこともこっちから言っちゃうっていうか。ヤバめの話のハードルが低いっていうのかな。辛いとか悲しいとか、せっかくしまって忘れたことにしているのにバンバン思い出させるし、自分の嫌な部分を引きずり出される」
「嫌な、部分?」
「そ。今みたいにオドオドして、不安ですって顔を見せられるとイライラしてくる。つい意地悪したくなるのを抑えていると、もっと酷いことをしてほしいって君が訴えてくる。オレそんなに意地悪じゃないぞって思いたいのに、君が誘う。それでオレが酷いことをして罪悪感と後悔でいっぱいになっている横で、ボロボロの君が幸せそうに倒れている……」
「……」
「ごめん、途中から妄想入った。オレ、今ヤバいよね。普段こんなこと考えないよ。考えてる時点で君に影響受けちゃってるだろ。君はそれを平気で聞いているんだもの……」

 晴久は何も言い返せなかった。明美の言うとおりだと思った。
 ボロボロの僕は幸せそうに倒れている……。
 慣れ親しんだストレスの感覚に安心する自分だ。明美はどこまで見ているのだろう。
 明美は更にぐったりした様子で溜息をついた。

「もう帰るんだろ?  途中まで一緒に行こうよ。地下通路通るだろう?」

 明美と晴久は無言で駅前ビルの書店を抜けて地下通路へ向かった。
 途中のCDショップの前で明美が足を止めた。晴久は今まで関心もなく通り過ぎていた店だ。
 明美が店内を眺めるのにつられて、晴久も顔を向けた。
 明美は晴久を見て、店内を二ヶ所指差した。店舗中央の商品棚と、レジ近くの柱だ。

「じゃ、オレはここで」
「え?」
「知りたい、でしょ?  自分で探して確かめなよ。オレ、意地悪だよね。自分でもそう思う。純真無垢なイヴをそそのかす悪いヘビだね。なーんか、ゾクゾクする。オレ嫌な奴だな……君が知るのを怖がっているの、わかっててやっているんだ。君に、酷くしたい。純粋にササイさんのことを知って欲しい。ひがみと推しがごちゃ混ぜ。すごい矛盾と倒錯。なんだろう、この感じ。ケンに正体バレた時と同じだ。ごめんね、オレ、今すごく楽しいよ」

 晴久は、明美の泣きそうな顔を見たまま何も言えなかった。
 罪悪感と後悔でいっぱいになった明美の横で、ボロボロの晴久が幸せそうに倒れている……。
 晴久は明美の妄想を思い描きながら、
 無言で立ち去る明美の後ろ姿をただ見送った。



   晴久は少しためらいながらもCDショップに入った。明美が指差した商品棚へ向かい、検索プレートを端から順にざっと見る。
   音楽のジャンルも何も全くわからない。クラシックとか民謡とか、昔学校で習った程度の知識しかない晴久は、それこそ泳げないのに海に突き落とされた気分だった。
   とにかく「さ」を探せばいいのか。
   邦楽?
   サ
   引き寄せられるように棚の前に立った。
   サ……
   ササイシン……

   あった。

   本当に、ある。
   手にしたCDのジャケットには、男の立ち姿が写っている。陰影が強くてはっきりとはわからないが、見覚えはあった。
   CD、何枚も出しているんだ……。
   別のジャケットには陰影の強い、うつむいた顔が写っている。
   あ、今より結構若い、かな。
   どれもが晴久の知らないササイシンだ。
   これが、石崎さん?
   あの人、歌う人だったのか。
   別のCDを棚から引き出して、晴久はハッとした。
   これは、知っている。……石崎さんの手だ。
   写真を見ていると、指先をそっと重ねた感触がよみがえる。
   石崎さん……。
   棚に差された個人名の検索プレートにそっと触れて文字をなぞる。
   ササイシン。……本当に、別世界の人だ。
   晴久は明美が指差したもう一ヶ所、レジ近くの柱へ行ってみた。販促ポスターやCD発売告知、コンサート案内などの宣伝が所狭しと貼り出されている。
   ……ああ、そういうことだったのか。
   さほど大きくない枠で、ササイシンのツアー告知が出ていた。
   放浪の旅……明美の言うとおりだ。国内各地に予定が入っていて、これでは当分帰って来ない。
   晴久の心は静かだった。波も、音も、全て消えていた。ただそこに、知らなかった事実があるだけだ。
   その後どうやって帰ったのか、帰って何をしたのか、晴久には記憶がなかった。
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