境界のクオリア

山碕田鶴

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50.合縁 一

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 その朝、晴久が出勤するとキヨがいなかった。夜勤帯に入院したという。

「自覚症状はなかったの。ただ、かなり状態が悪くて先生の指示があって」

 何となく、誰もが予想はしていた。だが、誰も言葉にはしなかった。
 これもまた暗黙の了解というのだろうか。
 キヨの家族が午前中に荷物を取りに来るという。晴久が居室に残された物をまとめていると、看護師の一人が話しかけてきた。

「救急隊の人が来たらキヨさん、それまでぐったりしていたのに佐藤君は?  佐藤君は?  って騒ぎ始めちゃってちょっと大変だったそうなのよ」
「救急隊員さんは佐藤君に見えなかったんですかね」
「え?  広瀬君のことでしょう?  佐藤君って」
「僕?」
「キヨさん、どう間違えたか知らないけれど、広瀬君をいつも佐藤君って呼んでいたじゃない。広瀬君以外で佐藤君って呼ばれた人いないよ。すごく気に入られていたし、職員で唯一認識されていたんじゃないの?」
「でも、僕は何も……」
「広瀬君、いつも南大東島の話を楽しそうに聞いていたじゃない。あれ、テキトーに相槌打っていたらやっぱり雰囲気で伝わるよ。入居者さんたちって、物覚えが悪くなった分勘が冴えわたっちゃっているから。正直、広瀬君って職員には素っ気ないけれど、入居者さんに優しいのは本当だろうなって思うし。名前は知らなくても、キヨさんは広瀬君のことを信頼していたと思うけどな」
「僕が……佐藤君……」

 佐藤君はキヨの思い出の中にいる大切な人だと、晴久はずっと思っていた。キヨの大切なものは、もう思い出の中にしかないと思っていた。だから晴久は、キヨの思い出の中で佐藤君として存在してきたつもりだった。
 でも、キヨさんは僕自身を見てくれていた。

 佐藤君、ありがとうねえ。

 あれは、僕に向けて言ってくれていたんだ。

 僕は、ちゃんとここに存在していた……。

 晴久は、キヨが最初から自分を佐藤君と呼んでいたことを思い出した。
 そういえば、僕は自分から名乗ったことがなかったな。
 キヨさん、僕、広瀬といいます。
 今なら言える気がする。
 また会えたら言おう。きっと忘れてしまうだろうけれど、それでも構わない。今度は誰かを演じるのではなく、僕自身として挨拶できる気がする。
 ベッド脇の床頭台に飾られていた風景写真を黙って荷物袋に入れた。
 青い空と一面の緑。キヨの南大東島だ。スッキリとした景色なのに、少し滲んで見えた。

「あっ、何いきなり号泣なのよ?  念のための入院なんだから。やだやだ、本当に。キヨさん元気に戻って来るわよ!」
「いえ、僕は泣いていな……」

 振り向くと、ドアの前に落合が突っ立っていた。ボロボロと溢れる涙を腕で隠して声もなく泣いていた。
 ああ、落合君はこういう状況は初めてだったな。
 慣れるということはない。だが、必ずやってくるいつかを静かに受け止めて、淡々と必要な対応をしていく。そういう仕事だ。

「……広瀬さんだって、泣いてるじゃん」

 落合が看護師に訴えた。

「は?  なんで僕?」

 晴久は顔に手を当てて、涙が落ちていることに気づいた。

「自覚ないのかよ!」
「ああ、もうっ!  泣かないのっ!」

 看護師に怒られて、晴久と落合はお互いを見た。
 落合は泣きながら笑っていた。
 たぶん僕も笑っている。
 キヨが戻って来たら、今度は嬉し涙で落合と一緒に笑える気がした。



 石崎さんに、僕の名前を伝えたい。
 退勤後、駅前のベンチに座って最初に晴久の頭に浮かんだのは、石崎に自分の名前を伝えたいということだった。
 キヨに名乗ろうと思ったことがきっかけであったかはわからない。
 名前を知られていない安心感は、石崎に近づけない足かせと表裏一体だった。
 僕の名前を呼んでほしい。
 明美の赤いバラを見て、強く意識した。
 僕の存在を知って、僕の名前を呼んで、僕がここにいると認めて欲しい。
 ずっと望んできたことだ。ずっと怖くて望めなかったことだ。
 そう望むことを許されるはずだと、石崎は晴久に思わせてくれた。
 水底から聞こえる声は幻だ。
 天上の星を見上げ、星の友情を思う。
 晴久の世界が変わっていく。そのきっかけを石崎が作ってくれた。
 まるで運命の相手に本当に出会えたような錯覚。
 僕の名前を呼んで欲しい。
 そして、僕もあなたの名を呼びたい。
 ササイシン。

 望むなら、手を伸ばせ。

 今の僕になら、きっとできる。
 ササイシンを知りたい。
 晴久はベンチから立ち上がると、その足でライブハウスに向かった。

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