境界のクオリア

山碕田鶴

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63.越境 四

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 晴久の手の甲にササイが手の甲を重ねた。ササイの熱が静かに広がっていく。
   晴久もササイも、その手を見つめた。

「お前は時計台の曲を生きる希望だと言った。心の支えだとも言った。その言葉に私は救われた」
「救うって、そんな大げさな。僕があの曲に助けられただけです。曲を作ったササイさんに助けてもらったんです」

 晴久は慌てて否定した。
 僕は何もしていない。僕は自分のことでいっぱいいっぱいだった。僕は……

「……と、言いたいんだがな。そんなに単純で格好いい話ではない」
「はい?」

 晴久の必死な顔の目が丸くなるのを見て、ササイは楽しそうに笑った。

「あの曲を作ったのは、私が元々やっていたバンドを解散して一年以上過ぎてからのことだ。当時の私は、仲間との関係が壊れた現実を受け入れられないままの酷い状態でな。今思えば廃人同然だった」

 あの白い錠剤。酒や薬でボロボロだったという明美の話。アキラ……。この時期のことなのだろう。

「おかしいか?  私はお前と違ってスパッと気持ちを切り替えることができないからな。お前のように強くもない。いつまでも引きずって、どこまでも落ち続けた。だが、いかに酷い状態であろうと時間は流れる。どれだけ執着しても、過去になっていく。私は自分の心に区切りをつけたいと思うに至って『星の友情』を書いた。進め。歩き出せ。ここに留まるな。書きながら、そう自分に言い聞かせ続けた。ライブハウスで曲を弾いた時にお前が言ったとおりだ。……晴久にはどうしてわかったのだろうな。なぜ伝わったのだろうな……」

 ササイは空を見上げた。ライブハウスの帰りと同じ、星の見えない空。あの時も、ササイはそんなことを考えていたのだろうか。
   晴久も空を見上げた。

「あの曲を作った後、私は活動を再開した。それなりに実績も積んできた。だが、心の内は一向に晴れることがなく鬱々としたままだった。十年。いや、十二、三年か。長かったな……そうして、私は晴久に出会った」

 偶然に、とササイは言った。
 その偶然がササイを変えた。

「あの曲がお前の人生に影響を与えたと知った時、最悪だった時期の私にも存在価値はあったのだと……歓喜した。お前の人生を支配した気にさえなった。お前には申し訳ないが、傲岸不遜ごうがんふそんな考えが私のプライドを満たした。私はそれで救われたのだ」
「ごうがん、ふそん……」
「ん?  ああ……要は……あの曲のおかげで生き続けたと言うお前を私なら助けてやれるような気になって、それで自分に力があると思い上がっていた」

 ササイは時々難しい言葉を使って説明する。それは、はっきりと言いにくいことを曖昧に隠したいからなのかもしれない。
   気まずそうに言うササイが、晴久はおかしかった。

「……だが、そんなちっぽけなプライドは、お前にあっさりと蹴散らされた。気づけばお前は、私の鬱々とした気持ちまで消し去ってくれていた。お前を助けられるなど慢心も甚だしい。私はお前に到底敵わないと思い知らされた」
「僕、そんなに助けを求めていましたか?」
「いや、全く。助けてほしいそぶりもなかった。だから、完全に一方的な親切の押し売りと私の自己満足だ。私はお前の気弱そうな見た目にすっかりだまされた」

 ササイはからかうように、触れている肩で少しだけ晴久を押してきた。

「お前はいつも前を向いていた。不安も怯えも山ほど抱えたまま、たとえ迷っても前に進むことだけは迷わなかった。お前は誰を頼ることもなく、まだ見ぬ運命の相手にさえ救いは求めていなかった。……晴久、お前は強いな。お前がどうして強くならなければいけなかったのかは、もちろん知っている。それでも、私はお前の強さに惹かれた。お前の前向きさに助けられた。自分も強くありたいと思った。私にとって本当の救いは、お前を知ったことだ。お前と続いていくなら、どんなに遠くても、どんな形でも構わない。お前の距離が私の距離だ。近づくのはゆっくり、少しずつでいい。私が欲しいのは終わりのない関係だ。どれだけ離れても、手を離すことのない関係だ」

 晴久は「星の友情」を思った。
   遠く離れていても互いに引き合う星と星……。
 そうだ。
   晴久は、ポケットに入れていたギターピックをササイに差し出した。

「お預かりしていた物です。今日会えたから、お返しします」

 ササイが一瞬不安そうな表情になったのを見て、晴久は慌てて言葉をつけ加えた。

「僕は、ササイさんの手を自分から離すことはありませんから。僕には出会わなければいけない運命の相手がいる。それがササイさんだと確信しています。それが勘違いでも、ササイさんだから会いたい。僕にはササイさんに会うための理由は必要ありません」
「……きっぱり明解で本当に男前だな。どうして見た目がひ弱そうで、少し近寄るだけであれほど緊張して恥ずかしがるのか理解に苦しむ」
「変な分析はやめて下さいっ」
「ククッ。そうだな。私と晴久には、もう理由はいらない。そうだろう?」

 ササイは晴久の手を取ると、自分の胸に押し当てた。
 晴久は、ハッとしてササイを見た。
 ササイさんの音……。

「 わかるか?  『星の友情』は私の拍だ。私の鼓動だ。お前が聴き、記憶の中に存在し続けたのは私自身の心音だ。私はもうお前の内にいる。お前と私の鼓動はひとつになっている。離れようがない」
「……本当、に?」

 ササイの目が笑っている。

「……ササイさん、自分で嘘つきだって前に言いましたよね?」
「嘘ではない。お前の中に私がいるのは本当だろう?  ……まあ六十、心拍数くらいのテンポの曲なんていくらでもあるけどな」

 ササイは晴久が呆れたように見るのを笑って受け流すと、晴久の顔を覗き込んで静かに目を合わせた。

「晴久も私の内にいる。離れることなどできない。私もお前も、互いを呼び合っている。ずっと昔から、出会う以前からだ。晴久、私はいつまでもお前の名を呼び続ける。そういう運命だ」

 これは、偶然ではない。

「きっと、やっと出会えたんだな。晴久……」



 僕が夢見た奇跡の運命。
 複縦。そして、この先は転調──
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