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地下室のドア
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父がチャイムを押した。ピンポーンという音が鳴る。そのあとに、おじさんのものと思われる足音が近づいてくるのが聞こえた。玄関が開いた。おじさんが姿を現した。
「やあ、浩正。浩一君、おおきくなったねえ!」
おじさんは僕の頭を撫でてくれた。その優しい撫で方には心を安心させるものがあった。
「和重。悪いが一週間、頼むよ」
「ああ。任せておいてくれ」
「じゃあ、元気にしているんだぞ、浩一」
「うん」
僕はうなずき、おじさんの家へと入っていった。父は玄関を閉めた。父の立ち去る足音が聞こえた。
僕の両親は仕事の都合で一週間ばかり東京へ行かなければならないことになっていた。ところが僕はまだ小学校三年生という年であったために、一人で一週間も留守番させるわけにはいかなかった。そこで父の親友である、和重おじさんに頼んで、僕を一週間家に置いてもらうことになったのである。
「浩一君、ちょっとついてきてくれるかな?」
「うん」
僕はこの時、どうして僕を座らせてくれないのだろうかと不審に思った。いつもならば僕を今へと座らせ、クッキーとアイスクリームと紅茶を出してくれるのがおじさんの常だ。クッキーにアイスクリームをつけて、クッキー&アイスクリームを作り、紅茶を飲みながら食べるということをいつも僕はしていた。そして今日もそれを楽しみにしていた。
例にないことを目の当たりにした僕には、やけにその言葉が印象的に心にうつった。
おじさんは僕を連れて、家の中を歩いていった。やがて、黒い、頑丈な鉄の扉の前へと僕を連れて行った。これはおじさんの家の地下室だった。しばしば中に入って遊んだことがある。
「いいかい、この扉なんだけど、何があっても絶対開けちゃいけないよ」
「どうして?」
僕はこれまた例にない注文に、思わず尋ねた。
「どうして……さあ、どうしてだろうね?」
おじさんは言った。「とにかく、絶対にあけてはいけないよ。もし開けたら、おじさんにすぐばれるからね」
おじさんは言った。
それからはいつも通りに事が進んだ。クッキー&アイスクリームは食べられたし、いろいろなおもちゃで遊ぶこともできた。地下室に入れないことだけを除いて。
夜、僕はなかなか寝付かれないでいた。布団やまくらが変わってしまったことに対して、僕はどうしても落ち着くことができないでいた。別にこの布団と枕が嫌というわけでもないのだが、気になってしょうがなかった。
今は何時だろうと思って時計を見ると、午前二時だった。早いところ寝てしまわなければと思うが、どうにも寝られない。寝よう寝ようと思えば思うほど、苦しくなった。
うなり声が聞こえた。重く、地の底から響くような恐ろしいうなり声だった。一瞬風の音か何かを聞き間違えたのかと思った。しかしそうではない。そのうなり声は生きていた。自分でも何を言っているかよくわからない。しかしただ自然の音が発するものとは違う何かが、その音にはあった。
僕はその音がいったいどこから聞こえるのだろうと探った。するとどうにも窓の方から聞こえるのではないように思われた。まるで家中に響くかのような音である。それに気付いたと同時に地下室のことを思い浮かべた。おじさんが開けてはいけないといった、あの地下室。僕はあの地下室に何かがいて、だからこそあけてはいけないと言っているのだと確信した。僕は地下室のことを考えるうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌日の真夜中、僕はまたしても午前二時まで眠れないでいた。僕はその時またしても、うなり声を聞いた。僕はまたしても地下室のことを思い出した。あの地下室の中にいるもの。それはいったい……。
「助けてくれぇ!」
大きな叫び声が聞こえた。それは大人の男の声のように思われた。僕はその時、おじさんが助けを求めているのだと思った。おそらくおじさんは何か用事があって、地下室に入った。しかし何かうっかりしていることがあって唸り声の主に襲われた。
僕は布団を跳ね飛ばし、駆け出した。そして地下室の前に行くと、扉を開いた。
地下室の中はいつも通り見慣れた光景のはずだった。階段があって、いつもは闇に包まれている。しかしこの真っ暗な地下室は今や、遊び場などではなく恐ろしげな場所へと変貌していた。この見通せない暗闇の奥に何かがいるという事実が、この地下室を恐ろしい場所に変化させていた。僕は入口の右にあるスイッチを押して電灯をつけた。
視線をスイッチのところから階段の向こうへと向けなおした。そして僕は見た。巨大な犬が階段のすぐそばのところに立ち、僕を見つめているのを。その毛並みは黒く、地下室の電灯の光を浴びてつやつやと輝いている。目は金色で、ガラス玉のように光っている。顔立ちはどちらかといえば狼に似ているようにも思えた。大きさは驚くほどにでかく、到底普通の犬とは思われない大きさであった。
その犬が階段を駆け上がってきた。僕はとっさに逃げ出した。しかし僕がかろうじて扉のすぐ横へ飛びのいた時には、もう犬は地下室から出てきていた。
僕は尻もちをついた。その体勢のまま、改めて黒い犬を見た。その大きさは大きいどころではなかった。僕は動物園でバイソンという牛を見たことがあるが、そのバイソンとこの黒い犬の大きさは同じくらいだった。
「何てことを!」
おじさんの声が聞こえた。見ると、黒い犬の陰の向こうにおじさんの姿があった。なんということだ!おじさんは襲われていなかった。僕はその時、自分が勘違いから恐ろしい失敗をしてしまったことを悟った。
しかし。僕は誰の声を聞き間違えたというのか。あの「助けてくれぇ」という声はいったい誰のものだったのか。
『余にかかる部屋にて苦痛与えしを我は許さじ』
僕のすぐそばでそんな声が聞こえた。
「ひいっ」
おじさんの悲鳴が聞こえた。様子から察するに、声はおじさんのものではないように思われた。
『貴様の愚昧なることはこの地上から地の底まで届くほどに深し。余は甚だし恨みと軽蔑とを貴様に持ちけり。さすれば永遠の闇へ貴様を連れ去らん』
おじさんは今や、泣きわめいていた。僕にはそれがみっともないものだとは思えなかった。むしろ、目の前の存在の畏怖と偉大さをただひたすらに強調するものに思えた。
黒い犬はおじさんにとびかかった。おじさんの胴に黒い犬は食らいつく。おじさんの悲鳴が一層強くなる。黒い犬はおじさんをくわえたまま、走り去っていった。
しばらくして、バンという何かを壊すような音が聞こえた。それきり何も音はしなかった。
「やあ、浩正。浩一君、おおきくなったねえ!」
おじさんは僕の頭を撫でてくれた。その優しい撫で方には心を安心させるものがあった。
「和重。悪いが一週間、頼むよ」
「ああ。任せておいてくれ」
「じゃあ、元気にしているんだぞ、浩一」
「うん」
僕はうなずき、おじさんの家へと入っていった。父は玄関を閉めた。父の立ち去る足音が聞こえた。
僕の両親は仕事の都合で一週間ばかり東京へ行かなければならないことになっていた。ところが僕はまだ小学校三年生という年であったために、一人で一週間も留守番させるわけにはいかなかった。そこで父の親友である、和重おじさんに頼んで、僕を一週間家に置いてもらうことになったのである。
「浩一君、ちょっとついてきてくれるかな?」
「うん」
僕はこの時、どうして僕を座らせてくれないのだろうかと不審に思った。いつもならば僕を今へと座らせ、クッキーとアイスクリームと紅茶を出してくれるのがおじさんの常だ。クッキーにアイスクリームをつけて、クッキー&アイスクリームを作り、紅茶を飲みながら食べるということをいつも僕はしていた。そして今日もそれを楽しみにしていた。
例にないことを目の当たりにした僕には、やけにその言葉が印象的に心にうつった。
おじさんは僕を連れて、家の中を歩いていった。やがて、黒い、頑丈な鉄の扉の前へと僕を連れて行った。これはおじさんの家の地下室だった。しばしば中に入って遊んだことがある。
「いいかい、この扉なんだけど、何があっても絶対開けちゃいけないよ」
「どうして?」
僕はこれまた例にない注文に、思わず尋ねた。
「どうして……さあ、どうしてだろうね?」
おじさんは言った。「とにかく、絶対にあけてはいけないよ。もし開けたら、おじさんにすぐばれるからね」
おじさんは言った。
それからはいつも通りに事が進んだ。クッキー&アイスクリームは食べられたし、いろいろなおもちゃで遊ぶこともできた。地下室に入れないことだけを除いて。
夜、僕はなかなか寝付かれないでいた。布団やまくらが変わってしまったことに対して、僕はどうしても落ち着くことができないでいた。別にこの布団と枕が嫌というわけでもないのだが、気になってしょうがなかった。
今は何時だろうと思って時計を見ると、午前二時だった。早いところ寝てしまわなければと思うが、どうにも寝られない。寝よう寝ようと思えば思うほど、苦しくなった。
うなり声が聞こえた。重く、地の底から響くような恐ろしいうなり声だった。一瞬風の音か何かを聞き間違えたのかと思った。しかしそうではない。そのうなり声は生きていた。自分でも何を言っているかよくわからない。しかしただ自然の音が発するものとは違う何かが、その音にはあった。
僕はその音がいったいどこから聞こえるのだろうと探った。するとどうにも窓の方から聞こえるのではないように思われた。まるで家中に響くかのような音である。それに気付いたと同時に地下室のことを思い浮かべた。おじさんが開けてはいけないといった、あの地下室。僕はあの地下室に何かがいて、だからこそあけてはいけないと言っているのだと確信した。僕は地下室のことを考えるうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌日の真夜中、僕はまたしても午前二時まで眠れないでいた。僕はその時またしても、うなり声を聞いた。僕はまたしても地下室のことを思い出した。あの地下室の中にいるもの。それはいったい……。
「助けてくれぇ!」
大きな叫び声が聞こえた。それは大人の男の声のように思われた。僕はその時、おじさんが助けを求めているのだと思った。おそらくおじさんは何か用事があって、地下室に入った。しかし何かうっかりしていることがあって唸り声の主に襲われた。
僕は布団を跳ね飛ばし、駆け出した。そして地下室の前に行くと、扉を開いた。
地下室の中はいつも通り見慣れた光景のはずだった。階段があって、いつもは闇に包まれている。しかしこの真っ暗な地下室は今や、遊び場などではなく恐ろしげな場所へと変貌していた。この見通せない暗闇の奥に何かがいるという事実が、この地下室を恐ろしい場所に変化させていた。僕は入口の右にあるスイッチを押して電灯をつけた。
視線をスイッチのところから階段の向こうへと向けなおした。そして僕は見た。巨大な犬が階段のすぐそばのところに立ち、僕を見つめているのを。その毛並みは黒く、地下室の電灯の光を浴びてつやつやと輝いている。目は金色で、ガラス玉のように光っている。顔立ちはどちらかといえば狼に似ているようにも思えた。大きさは驚くほどにでかく、到底普通の犬とは思われない大きさであった。
その犬が階段を駆け上がってきた。僕はとっさに逃げ出した。しかし僕がかろうじて扉のすぐ横へ飛びのいた時には、もう犬は地下室から出てきていた。
僕は尻もちをついた。その体勢のまま、改めて黒い犬を見た。その大きさは大きいどころではなかった。僕は動物園でバイソンという牛を見たことがあるが、そのバイソンとこの黒い犬の大きさは同じくらいだった。
「何てことを!」
おじさんの声が聞こえた。見ると、黒い犬の陰の向こうにおじさんの姿があった。なんということだ!おじさんは襲われていなかった。僕はその時、自分が勘違いから恐ろしい失敗をしてしまったことを悟った。
しかし。僕は誰の声を聞き間違えたというのか。あの「助けてくれぇ」という声はいったい誰のものだったのか。
『余にかかる部屋にて苦痛与えしを我は許さじ』
僕のすぐそばでそんな声が聞こえた。
「ひいっ」
おじさんの悲鳴が聞こえた。様子から察するに、声はおじさんのものではないように思われた。
『貴様の愚昧なることはこの地上から地の底まで届くほどに深し。余は甚だし恨みと軽蔑とを貴様に持ちけり。さすれば永遠の闇へ貴様を連れ去らん』
おじさんは今や、泣きわめいていた。僕にはそれがみっともないものだとは思えなかった。むしろ、目の前の存在の畏怖と偉大さをただひたすらに強調するものに思えた。
黒い犬はおじさんにとびかかった。おじさんの胴に黒い犬は食らいつく。おじさんの悲鳴が一層強くなる。黒い犬はおじさんをくわえたまま、走り去っていった。
しばらくして、バンという何かを壊すような音が聞こえた。それきり何も音はしなかった。
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