上 下
44 / 63
第五章 スイミング・プール・サイド Swimming Pool

1.

しおりを挟む

 僕は、事態を冷静に認識し、分析できているつもりで、同時に、まったく気がてんとうしてもいた。

 彼の本当の恋人はどんなひとなのか。彼はそのひとを愛しているのか。愛していても、束の間、他の誰かに安らぎを求め得るものなのか。
 僕の恋人に対して——居ないけど——考慮しないのか。
 それに、恋人ならば、ダンスの用語を借りて言えば「インサイドにステップする」ような振舞いも、示唆しているつもりなのだろうか。

「そうだ、あの……」僕は不意に思い出して、「足の血豆は治りましたか?」と、彼の顔ではなく、足先を見ながら言った。

「まだ少し、鬱血した赤味があるけど、ほとんど治ったよ」

 田坂さんの喋り方も声の調子も、今まで通りで特に変化はないように感じた。

「それは良かった。僕たちとしては」と、僕はあえて複数形で言った。「田坂さんには、傷ひとつない、無事な姿でいてもらわないと」

 気詰まりな空気にならないよう、新しい話題を探し、会話を続けなければ。無理に笑うとか、わざとらしい、陽気な調子にならないように。

「残ったサンドイッチは、夜食にする?」と、僕は控えめに田坂さんを盗み見る。「他の誰か、スタッフペルソネルの子に、食べてもらってもいいし」

 田坂さんはまだタルトを食べ終えていないのに、追い立てるようなことを言ってしまい、僕はすぐに後悔した。心の中で、小さく舌打ちをする。彼に、気を遣わせないよう、努めなければならない。

「いいの? サンドイッチの奪い合いは必至だね。ケンカにならないよう、見張っておかないと」

「じゃあ、サンドイッチとフリットを大皿にまとめて、それから、ギモーブは花に持って行かれちゃったけど、焼き菓子は安泰だから、一緒にバスケットパニエに入れておく」

 すぐにでも一人きりになりたくて、早口になるのを止められなかった。本当は、動揺しているのを知られたくないのに。

「ありがとう」と田坂さんは労わるように言った。「雨が降らなくて良かった」

 どこを見ているのか、自分でも分からなかった。とりあえず、視界に彼は入ってはいなかったと思う。

「お疲れさまでした」うつむいたままで僕は言った。まだ、そんなことは言いたくなかった。「後の片付けは任せておいて。おやすみなさい」

ようくん」と彼は、大人が優しく言い聞かせるような口調で言った。「準備は任せきりだったから、後片付けは僕がやっておこうか。どこに仕舞えばいいか、教えてもらえるかな」

「二階の、リネン室へ。堤燈ランタンとか空瓶とかも、まとめて置いたので、かまいませんから」

 こんな風に、彼から逃げるように、素敵なピクニックが終わるはずではなかったし、終わらせるつもりもなかった。せめて、もう幾らかでも愛想よく、穏便に、おやすみを言い合いたかった。
 けれども、もう遅すぎる。

「雨のにおいがするね。かすかに、だけど。さあ、急いで片付けなくちゃ」

 田坂さんが、使い終わった食器ヴェセル類を手際よく重ねる。

 僕は布巾トルションを広げ、

「それは、僕が台所キュイジーヌへ持って行って、洗っておきます」

「けっこう重いよ」と、田坂さんが布巾の上に重ねた食器を載せた、細くて長い指の、きれいな白い手で。

「うん、平気……ねえ」と僕は、伏せた眼を上げて、彼に呼びかけた。

「何?」と彼は、表情を読み取ろうとするように、僕を注視した。

 彼の端正な顔は、すぐそこにあった。前のめりになるのを、堪えているように見えた。『まるで、よく躾けられた召使いサルヴィタールみたいだ』と思い、非道い例えをすぐに悔やんだ。

「どうして、その、、役目を僕に?」

 彼の幸不幸の決定権を、僕に委ねるとは!

「葉くんは、バビロンの住人じゃないから」と彼は静かに言った。

映画業界バビロンの住人ではないからと言って、ザイオンの人間であるとは限らない」僕は、つぶやくように言った。
 
「それでだけで充分」

 彼の眼に映っているのは、現実の僕ではなく、僕に理想を投影しているにすぎないのだ。僕に期待したところで、いずれ失望するだろう。それは僕だって、避けたかった。名残惜しいけれど、事態は変化してしまったのだ。ここから、去らなければならない。

「引き留めたら、いつまでも片付かないね」と僕は、やっとの思いで彼から視線をはずした。

 もう、あんなに親密な距離で凝視みつめ合うこともない。

 僕は布にくるんだ食器を持って立ち上がり、バルコニーを後にする。

『嫌だ、嫌だ……今まで通りがいいのに、今までと同じでいたいのに……』

 僕は、今までの、気さくで気楽に付き合える田坂さんに、助けを求めずにいられなかった。あの書斎に駆け込めば、彼に会えればいいのに。僕の不安を払いのけて欲しい。

 台所にたどり着くと、怖くて涙がとめどなく溢れた。食器を卓子ターブルに置きもせず、抱えた指に力をこめる。
 あれほど慕っていたのに、向こうから距離を詰められると——それも、こんなに短期間で——とたんに怖くてたまらなくなってしまった。

 大好きなひとを、自分が密かに追いかけるのはいいけれど、好意を示されたら、僕は嫌悪感でいっぱいになってしまう。悪い癖だ。

 でも、田坂さんのことは嫌いにはならない。気持ち悪くもない。だけど、すぐそこまで歩みよられると、怖気づいて逃げ出さずにいられない。僕は、格別に特技も才能もないつまらない学生だし、洒脱にお喋りするのも苦手で、彼とは釣り合わない。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。

 涙はとまらず、嗚咽に変わった。




*「インサイドにステップする」
 向かい合ったポジションで、自分の足を相手の足の間に入れること。

*「バビロン」と「ザイオン」
 ラスタファリズムの思想で、ザイオンは神の国の意味ですが、ここでは単純に、『ハリウッド・バビロン』の対義語として使いました。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

貴方へ愛を伝え続けてきましたが、もう限界です。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,089pt お気に入り:3,804

一行日記 二月

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:248pt お気に入り:0

一行日記 2024年3月 🥚🐇

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:319pt お気に入り:2

Advent

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:397pt お気に入り:1

1年後に離縁してほしいと言った旦那さまが離してくれません

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,455pt お気に入り:3,760

真夜中の山の毒気と宿る雨

ホラー / 完結 24h.ポイント:170pt お気に入り:4

婚約破棄されましたが、幼馴染の彼は諦めませんでした。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:426pt お気に入り:280

処理中です...