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第五章 スイミング・プール・サイド Swimming Pool
1.
しおりを挟む僕は、事態を冷静に認識し、分析できているつもりで、同時に、まったく気がてんとうしてもいた。
彼の本当の恋人はどんなひとなのか。彼はそのひとを愛しているのか。愛していても、束の間、他の誰かに安らぎを求め得るものなのか。
僕の恋人に対して——居ないけど——考慮しないのか。
それに、恋人ならば、ダンスの用語を借りて言えば「インサイドにステップする」ような振舞いも、示唆しているつもりなのだろうか。
「そうだ、あの……」僕は不意に思い出して、「足の血豆は治りましたか?」と、彼の顔ではなく、足先を見ながら言った。
「まだ少し、鬱血した赤味があるけど、ほとんど治ったよ」
田坂さんの喋り方も声の調子も、今まで通りで特に変化はないように感じた。
「それは良かった。僕たちとしては」と、僕はあえて複数形で言った。「田坂さんには、傷ひとつない、無事な姿でいてもらわないと」
気詰まりな空気にならないよう、新しい話題を探し、会話を続けなければ。無理に笑うとか、わざとらしい、陽気な調子にならないように。
「残ったサンドイッチは、夜食にする?」と、僕は控えめに田坂さんを盗み見る。「他の誰か、スタッフの子に、食べてもらってもいいし」
田坂さんはまだタルトを食べ終えていないのに、追い立てるようなことを言ってしまい、僕はすぐに後悔した。心の中で、小さく舌打ちをする。彼に、気を遣わせないよう、努めなければならない。
「いいの? サンドイッチの奪い合いは必至だね。ケンカにならないよう、見張っておかないと」
「じゃあ、サンドイッチとフリットを大皿にまとめて、それから、ギモーブは花に持って行かれちゃったけど、焼き菓子は安泰だから、一緒にバスケットに入れておく」
すぐにでも一人きりになりたくて、早口になるのを止められなかった。本当は、動揺しているのを知られたくないのに。
「ありがとう」と田坂さんは労わるように言った。「雨が降らなくて良かった」
どこを見ているのか、自分でも分からなかった。とりあえず、視界に彼は入ってはいなかったと思う。
「お疲れさまでした」うつむいたままで僕は言った。まだ、そんなことは言いたくなかった。「後の片付けは任せておいて。おやすみなさい」
「葉くん」と彼は、大人が優しく言い聞かせるような口調で言った。「準備は任せきりだったから、後片付けは僕がやっておこうか。どこに仕舞えばいいか、教えてもらえるかな」
「二階の、リネン室へ。堤燈とか空瓶とかも、まとめて置いたので、かまいませんから」
こんな風に、彼から逃げるように、素敵なピクニックが終わるはずではなかったし、終わらせるつもりもなかった。せめて、もう幾らかでも愛想よく、穏便に、おやすみを言い合いたかった。
けれども、もう遅すぎる。
「雨のにおいがするね。かすかに、だけど。さあ、急いで片付けなくちゃ」
田坂さんが、使い終わった食器類を手際よく重ねる。
僕は布巾を広げ、
「それは、僕が台所へ持って行って、洗っておきます」
「けっこう重いよ」と、田坂さんが布巾の上に重ねた食器を載せた、細くて長い指の、きれいな白い手で。
「うん、平気……ねえ」と僕は、伏せた眼を上げて、彼に呼びかけた。
「何?」と彼は、表情を読み取ろうとするように、僕を注視した。
彼の端正な顔は、すぐそこにあった。前のめりになるのを、堪えているように見えた。『まるで、よく躾けられた召使いみたいだ』と思い、非道い例えをすぐに悔やんだ。
「どうして、その役目を僕に?」
彼の幸不幸の決定権を、僕に委ねるとは!
「葉くんは、バビロンの住人じゃないから」と彼は静かに言った。
「映画業界の住人ではないからと言って、ザイオンの人間であるとは限らない」僕は、つぶやくように言った。
「それでだけで充分」
彼の眼に映っているのは、現実の僕ではなく、僕に理想を投影しているにすぎないのだ。僕に期待したところで、いずれ失望するだろう。それは僕だって、避けたかった。名残惜しいけれど、事態は変化してしまったのだ。ここから、去らなければならない。
「引き留めたら、いつまでも片付かないね」と僕は、やっとの思いで彼から視線をはずした。
もう、あんなに親密な距離で凝視合うこともない。
僕は布に包んだ食器を持って立ち上がり、バルコニーを後にする。
『嫌だ、嫌だ……今まで通りがいいのに、今までと同じでいたいのに……』
僕は、今までの、気さくで気楽に付き合える田坂さんに、助けを求めずにいられなかった。あの書斎に駆け込めば、彼に会えればいいのに。僕の不安を払いのけて欲しい。
台所にたどり着くと、怖くて涙がとめどなく溢れた。食器を卓子に置きもせず、抱えた指に力をこめる。
あれほど慕っていたのに、向こうから距離を詰められると——それも、こんなに短期間で——とたんに怖くてたまらなくなってしまった。
大好きなひとを、自分が密かに追いかけるのはいいけれど、好意を示されたら、僕は嫌悪感でいっぱいになってしまう。悪い癖だ。
でも、田坂さんのことは嫌いにはならない。気持ち悪くもない。だけど、すぐそこまで歩みよられると、怖気づいて逃げ出さずにいられない。僕は、格別に特技も才能もないつまらない学生だし、洒脱にお喋りするのも苦手で、彼とは釣り合わない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
涙はとまらず、嗚咽に変わった。
*「インサイドにステップする」
向かい合ったポジションで、自分の足を相手の足の間に入れること。
*「バビロン」と「ザイオン」
ラスタファリズムの思想で、ザイオンは神の国の意味ですが、ここでは単純に、『ハリウッド・バビロン』の対義語として使いました。
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