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第六章 ピグマリオン L’amour est avenge

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 どこか遠くで、靴音が響いた気がした。また誰かが、シーツをかぶって廊下を駆け回っているのだろうか。眠気で痛む頭をなだめ、勢いよく立ち上がるなり、僕もまた、屋根裏部屋へ向かって走った。

 寝台に倒れ込み、身を守るように躰を丸める。さっきまで感じなかったのに、田坂さんのトワレの香りが鼻をついた。心の安らぐサンダルウッドと、ヴァニラの甘く懐かしい匂い。
 彼の躰の熱とにおいで変化したSANTAL——甘さがきわ立つのは、体温が高いからかもしれない——のせいで、彼の不在がより強く意識された。

 自分がなにをすればいいのか、どうしたいのか解らなかった、今に始まったことではないが。
 卵を割らなければオムレットは作れないのに、卵ひとつでこの大騒ぎ!

 頭痛はおさまらないけれど、もうそろそろ起き上がって、ニコラのためにパエリアを炊かないと……。そう思った次の瞬間、携帯電話の着信音が聞こえた。その音は、僕をひどく不愉快にした。

「あと十分、いや五分、寝かせてくれてもいいじゃん……」僕は舌打ちせんばかりにつぶやいた。

よう何時いつまで寝てんの」と電話から怒鳴り声がする。「ニコちゃん来てるよ」

 電話をかけてきたのは花だった。信じられないことに、時刻はすでに六時だ。さっきまで、五時より十五分は前だったはずなのに。

 僕は、大急ぎでピジャマを脱ぎ捨てると、裸で浴室サル・ドゥ・バンに駆け込み、汗を流した。部屋に戻り、ワードローブガルドロブを探って適当な服を探す。白と黒のストライプ柄レイユールの夏用セーターシャンダイユ濃紺ブルーフォンセショートパンツショーツを寝台にほうった。

「いつの間に、こんなに時間が経っていたんだろう」と僕は苛々とつぶやいた。「ニコちゃん、まさか、本当に、パエリアを期待してたのかな。怒られませんように」

 台所キュイジーヌの奥に据えられた卓子ターブルの上座で、白いセーラー服姿のニコラは、二つ目のクレームブリュレを食べていた。黒い塗りのお椀や、幾つもの空のお皿が、まだ片付けられずに並んでいる。

「ニコちゃん、ごめんね、パエリア」と僕は言った。「すっかり寝坊しちゃって、用意出来ていなくて」

「パエリアがどうだって?」とニコラは微量に困惑した口調で訊ねた。「シーフードのご飯なら、とびきり美味しいのを食べたとこだよ、タコの炊き込みご飯のおむすび」

「覚えてないの?」と僕は拍子抜けして言った。「夕べ、僕を呼んで、朝食はエスカルゴのパエリアにするよう言ったこと」

「いやだ、気持ち悪い」と彼女は否定するように手をふって、「カタツムリなんか、絶対無理、一生口にしない」

「やっぱり寝ぼけてたんだ」後ろで田坂さんの笑い声がした。

 僕がそちらを向くと、彼は僕に近寄ってかがみこんだ。お早うを言い、僕のこめかみに短くキスをし、それから、ニコラの横に坐り、彼女の頭をなでた。

 彼の脣の感触に心を騒がせながら、彼の口づけが何時いつも不意打ちなことに、僕はちょっぴり腹を立てた。昨夜の煩悶を彼に訴え、慰めてもらいたくなる。睨むように彼を凝視みつめる。
 彼のシャツは秋らしい茶色マロンで、リンネルの生地についた皺の無頓着アン・スーシアンスな感じが素敵だった。

「ニコも」と、ニコラはデセールに眼を落としたまま、田坂さんを見もしないで言った。「ニコにも、ようくんみたいの、して」

「いいよ」と彼は腰をあげた。

 ニコラの背中側から両肩に手を置き、左の頬と右の頬に、脣で音を立ててビズをする。ニコラはキスでなくても、彼がほぼ指示に従ったからなのか、満足そうにうなずいた。
 僕は、彼に特別扱いされたようで、こらえても口元が笑ってしまい、ニコラにばれないように他所よそ見をした。

「一仕事終わらせて来たんだよ」と田坂さんは得意そうに言った。

「順調?」とニコラが、むしろ年長者のように訊ねる。

「勿論、順調にトラブル続き」

「学生さんは、夏休みをのんびり過ごせて羨ましい」と花が憎らしげに言いながらやって来た。手に曲げわっぱのお弁当箱を持っている。

『自分だって学生のくせに』と、花に言ってやりたかったけれど、確かに起きるのは遅かったので、悔しいけど言い返せない。

「あ、そうだ」と僕は、不意の思いつきを実行する。「田坂さん、手伝ってもらってかまわないかな、ほんの少しだけ」

「うん、何すればいい?」と、やはり彼はすぐに立ちあがった。

「ごめんね、ちょっと、パントリーの方、お願いします」

 僕は腕組みをして、自分たちの姿が棚の死角に入る地点まで、彼を先導した。まだ朝陽の射さないパントリーは、薄暗かった。

「高いところの物を取ればいいの?」

 僕の用事は、そんなことじゃない。

 振り向きざま、彼に向かって腕を伸ばす。ゆっくりと、腕を彼の背中に回し。

「ごめん、夕べは間違ってた」と僕は彼の胸に頬を当てて言った。「離れているの、すごく辛くて、後悔して……」

 言っているうちに、想いがこみあげ、涙があふれそうになった。

「僕も、寂しくて眠れなかった」

 彼は僕を責めることはせず、そっと抱きしめた、壊れものを扱うように。彼の腕と、彼だけのSANTALの香りにつつまれる。僕は大きく息を吸った。そのおかげか、一晩中、僕を苛んだ苦痛は、すっかり氷解したように思われた。





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