あなたのそばで猫になる

たかはし 葵

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ムースなささやき

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 彼の腕に緩くとらわれたまま、状況が飲み込めなくて呆然としていた。


「………オレンジの匂いがする………」


 髪の根元に指を差し込み、頭のてっぺんにキスをひとつ。そのまま私の髪に鼻を埋める彼に、頭はぼうっとしていて言葉が出ない。
 昨夜、スポンジを焼いている間にお風呂に入り、仕上げはお風呂の後にした。香りが残っているとしたら、多分そのせい。



「……律?聞こえてる?」
「…………うわ、はははいぃっ!!」
「何その反応」


 だって。
 あれ?おかしいな。ってなるでしょうよ!!


「今日の律、すごい可愛い。ワンピに白レースのエプロンて、お前は不思議の国の住人か」


 いや、そんなつもりでは。

 頭の中はパニックで、まともな言葉なんて出る訳がない。ていうか“可愛い”って何だ。
 
 私は彼の腕の中、小さく震えながら左手で自分のワンピースの裾を握りしめ、右手はかろうじて彼のスーツのお腹の辺りを掴んでいた。
 彼が髪に指を差し込むから、片側に寄せていたシュシュが落ちる寸前になっていたけれど、もう、どうでもよかった。


「あ、あの………。戻ら、ないと」
「えぇ?やっと喋ったと思ったらそれ?」
「だって……」
「まぁいいや。とりあえず今日のこと、簡単に説明するよ。まず、俺は今日はただの運転手」


 わかった。コクリと頷く。


「それから、勘違いのないように言っておくと、今日は兄貴の“結納の打ち合わせ”」
「な、なるほど……」


 まだ震えは収まらないけれど途端に、ふふ、っと笑いがこみ上げた。


「俺の事だと思って、少しは気にした?」
「少しなんてもんじゃなかった、よ………」
「うん。いっぱい悩ませて、泣いてたらごめん。俺もカードを見た直後に『ごめん』なんてメール送って、本当は死ぬほど後悔してた。でも、それからずっと考えてたよ………」


 返事の代わりに、微かに頷く。


「自分の気持ちに整理をつけたかった、ってのもある。今までの彼女たちにはいくらでも冷たくなれたのに、律だけは子供の時からすごく大事で、いくらでも甘やかしたくて。その意味を、ずっと考えていたよ。親愛の情なのか、異性としての情なのかってね」


 それは、私も常に考えてきたことだった。親類として懐いているだけなのかもって。でも、高校生の頃には、彼に抱きしめられたいとか、そういう事も考えるようになってしまっていて、そんな感情に嫌悪することさえあった。


「……そうそう。白鳥のシュークリーム、食べたよ。ご馳走さま」
「………は?!」


 思わずガバッ!と顔を上げた。


「いや、叔母さんが届けに来たんだ。『これ、律の気持ち』って。美味かったよ、背中に粉砂糖がかかってて………」


 ………ん?
 ああっ!仕上げに粉砂糖忘れてた!


「私、粉砂糖のことすっかり忘れてたから、かけてないよ?お母さんがやってくれたのかなぁ」
「そうかもね。でも作ったのは律。それ見たらもうね、これ以上、気持ち抑えるの無理だー!ってなったね」


 そ、そうなんだ。……って、


「も、戻らなきゃ!!」
「は?………あぁ、そうだな。戻ってオレンジケーキ、食わないと」


 ニヤリ。
 な、何なの、その笑みは。


「律、髪、ほどけてる」
「あっ!やだ大変………にゃっ」


 両手を使って手ぐしで髪を整えようとしたら、少しだけ傾けた頬に、ちゅっ、と軽い音で、キス。


「ふは、猫じゃないんだからさ」
「な、何して………っ」


 唇の触れたあとを手のひらで押さえてキッ、と睨みつけると、


「今はこれで我慢しといてやるよ」


 “さ、ケーキケーキ”なんて、ご機嫌で。
 私の頭をひと撫でして、先に納戸を出て行った。

 ………私、まだ何も言われてないんですけどっ?!

 その後、たっぷり五分くらいは動けなかった。
 ……ような気がする。

 私が遅れてキッチンに入ると、伯母がニヤニヤしていて妙に照れた。


「瑛士になんかされた?」
「さ、されてないよっ?」


 声がひっくり返ってしまうけど、何なのでしょうか、その質問は。


「なーんだ、瑛士のヘタレ」


 あなたの息子さんデスヨ。


「良かったわ。律ちゃん、ここに来た時、悲壮な顔してたから。やっぱり瑛士のせいだったのね。少しでも元気になれたなら、和音と色々画策した甲斐があったかな」


 画策って。
 でも、母親たちにいっぱい心配かけてたんだな。自分、分かり易すぎて、ちょっと反省しなきゃだけど。
 ていうか、私をおもちゃにするのは結構だけど従兄妹同士とか、その辺はいいのか母たちよ。


「あの子を許してやってね。あれでも色々悩んだみたいだから。やっぱり従兄妹だからね、どうしても血の事とか、考えちゃったと思うの」
「え………」
「将来結婚ってなるとね、血の繋がりがね。伯母ちゃんだって、反対はしないけど考えた事はあるわよ」


 そんな事まで彼は、伯母は考えてくれていたのか。
 私はそこまで考えたことがあったかな。
 ただ、彼が好きで。好きなだけで。


「さ、今考えてもしょうがない事は置いといて。ケーキを切ったら律ちゃんも一緒に座りましょう」
「う、うん」


 なんか、いっぱいいっぱいだ。

 彼は伯父とともに、もうテーブルについていて、ケーキのトレイを運ぶ私と目が合うと、穏やかに微笑んだ。

 どうしよう、この空気の甘さ。そして、伯父さんが複雑な表情でいるのは気のせいなのかな。

 運び終えると、私は和室の客間のテーブルで、末席について座った。
 お茶とともにお出ししたケーキは好評で、啓一お兄ちゃんの婚約者さんご一家にも褒められた。

 打ち合わせが滞りなく終わると、また彼が運転手になって送っていくという。
 伯父の、ちょっと大きめなファミリーカー。


 お見送りに出ようとした私を追い越しざま、私の右肩に手をかけて彼が屈んで耳元に囁く。


「次はチョコレートムースが食べたい」


 ……………。

 い、いきなりはやめてえぇ!!


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