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揺れる心
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「璃青、明るい色の服が着られるようになったのね。もうお母さんがいなくても大丈夫ね」
夏祭りの翌日自宅へ帰るという母を、朝早い希望が丘駅まで見送りに行くと、急にそんなことを言われた。
一瞬何のことだろうと思ったけれど、今日のわたしは確かに淡い色の服を着ていた。
水色の細いストライプに白いレースの縁取りがされたノースリーブチュニックと動きやすいベージュの八分丈のスキニーパンツスタイルは、特別おしゃれな訳ではない。
けれどここに来てから確かに紺や黒や濃いめの茶、深緑、とダークカラーのワンピースやトップス、ロングスカートの多かったわたしが今朝、無意識に選んだ明るい色。
母はそこに何を感じ取ったのだろう。
前向きになった?
そんなことはない。決してない。
昨夜ユキくんに抱きしめられたのも夢だったような気がするし、心の中のもう一人のわたしは、まだ膝を抱えたままなのだ。
誰かに大きく手を引いてもらいたいくせに、素直に甘えられなくて、気付きたくない想いを隠して押し込めて。
そんなわたしでも、今ひとつだけしたい事がある。花火大会に夏祭り。ユキくんには色々なものを貰ったから。
金魚さんをありがとう。ウサギのぬいぐるみを取ってくれてありがとう。一緒にいっぱい歩いてくれてありがとう。……って、ちゃんと言葉と形にして伝えたい。
翡翠やオニキス、マラカイト。天然石を使ったお守りを作って、渡す口実にお月見にでも誘ってみようか。
お月様は、どこから見るのが綺麗かな。あの、花火を見た河川敷かな。
気付けば母を送った駅からの帰り道、そんなことばかりを考えている。
そういえば、あのウサギのぬいぐるみ、ユキくんの部屋に忘れて来ちゃったんだっけ。
ふわふわなウサギは、今もユキくんのソファに座っているのかな。
一度は貰ったものだけど、返して、なんて言い辛い。元はユキくんが取ってくれたものだから。
さて、どうしたものかしら。
ずっと忘れていた。
誰かを心に浮かべること。
それを“恋”とは認めたくはないけれど、泉が湧くように、こんこんと想いは日々、絶えず湧いてくる。
手を繋いだら、長くて細い、でもちゃんと骨太なその手に幾度も包まれた。
抱きしめられたら、その胸の硬さに息が止まりそうだった。
あの腕とあの胸に、これまで何人の人が包まれたのだろう。昨夜から、そんなことが気になって仕方がない。
最近、お隣にお邪魔すると、ユキくんが他の女の子と笑い合う姿を見る度、苦しくなるのはきっと気のせい。
少しばかり親しくなれたから、それは僅かな擬似独占欲。
もういっそ、しばらくお店に通うのはやめておこうか。
案外平気かもしれない。だって、全部自分の気のせいなんだから。
駅前を抜けてお店に帰ったら、髪をポニーテイルにきゅっと結んで、エプロンをする。
これからお祭りの後片付け。
昨日の今日で顔を合わせるのはとても照れるし、色々考えるところはあるけれど挨拶は大事だから、ちゃんとしよう。
いつの日か、わたしが心から愛することができた人に「きみがすきだよ」って、また言ってもらえるようになれるかなぁ。
そんな風に、少しだけ女性らしい目標が再び出来たのは、今よりほんの少し前、今朝方のこと。
それはきっとユキくんのおかげ。だけど。
『本当は、誰かと寄り添って、支え合って生きていきたい』
そんな想いまで揺り起こしたユキくんが、今はちょっぴり恨めしいよ。
お願いだから、もう、これ以上揺らさないで。
そうして静かに心を閉じる。
ほら、何でもないような態度で、普通に笑って。
「杜さん、澄さん、おはようございます!お祭りの間、母がお世話になりました、って。とっても楽しかったみたいですよ。ありがとうございました」
ね、ちゃんと笑えるよ。
「ユキくん、おはよう。昨夜はどうもありがとう」
ちょっと早口かな。この角度じゃ陽射しが眩しくてユキくんがどんな顔をしているのか分からないけれど。
「璃青さーーー」
「あっ、籐子さんおはようございまーす!……ん?ユキくん何か言った?」
「いえ、おはようございます」
ユキくんは何かを言いかけていたようだったけれど、諦めたように微笑んだ。
わたしはそんな彼に小さくもう一度「おはよ」と言って背中を向ける。
「璃青さん!」
「………え?あっ」
急に向きを変えたせいなのか、いつもなら何でもない動きなのに、軽く体がふらついた。咄嗟にユキくんの手が伸びて、わたしは転ぶのを免れた。
ドキドキしながら「ありがとう」とユキくんに向き直ると、掴まれた腕はそっと離された。
ユキくんが、にこりと笑う。
「璃青さん、昨夜は無理させてしまってすみませんでした。身体は大丈夫ですか?片付け、張り切りすぎないで下さいね」
「あ、うん。ちゃんと手当てしてもらったからもう大丈夫。それより、その言い方、ちょっと………」
「言い方?」
それ、誤解を招くから。
おまけによく通る声で、あまりにもはっきりと言うから。
気のせいかもしれないけれどほら、杜さんが意味深に笑ってるの、気付かないの?
実はユキくん、結構天然なんじゃないかしら。それともわたしが無駄に大人なだけ?
「え、えーと、じゃあ、わたし、お店の前を片付けるね……」
「あ、そうだ。璃青さんの忘れ物のウサギ、片付けが終わったら届けに行ってもいいですか?」
「は、はい……」
だから、杜さんたちが聞いてるって。
うっかり赤面しちゃったじゃない。
わたしの顔を、そんな風に覗き込むようにして言わないで。
心を閉じて、咲きたがっている蕾を見ないようにしているの。本当はもう、あなたとは距離を置きたいのよ。
自分が変わるのが怖いの。
今から話す、わたしのこのお誘いを受けてもらったら、それを最後にしたいから。
わたしを見る彼と、勇気を出して目を合わせる。
「ねぇ、ユキくん。昨日までのお礼がしたいな。今度の十五夜、一緒にお月見しませんか?その時に、渡したいものがあるの」
「お月見ですか、いいですね。今年の十五夜というと……?」
「九月八日。まだ暑いかもしれないけど、真夏の夜よりは涼しいと思うんだ。あの花火の河川敷で会いましょう」
「ここで待ち合わせではないんですか?」
「うん。時間はまだ未定。わたしからメールするね」
「そうですか。はい、わかりました。メール、お待ちしてますね」
ふふ、ユキくんたらキョトンとしてる。
お月見が済んだら、もう彼に近付くのはなるべく控えよう。お礼に作った魔除けのお守りを渡して、それからは少しずつ、当たり障りのないお隣さんに徹しよう。
そうだ。お月見の後、一度実家に帰ってみようかな。
“ユキくん、あのね。手作りのお守りなんて重いな、って思ったら、わたしに構わず捨ててしまってね”
わたしは、オニキスの黒に紛れて小さなラピスラズリをこっそりひとつだけ忍ばせた、最初で最後のプレゼントを渡す時、そう伝えようと決めていた。
夏祭りの片付けが終わり、お昼をひとりで済ませてから、午後の店舗で相変わらずブレスレットやストラップを作っていた。
控えめにガラス戸を開ける気配と、僅かに鳴ったドアベルの音。目を上げるとそこにはユキくんがウサギのぬいぐるみを抱えて立っていた。
「璃青さん、ウサギ連れてきましたよ」
「わざわざありがとう」
さっきの決意が鈍らないよう、手渡されたウサギに視線を落として、ぎゅっと抱きしめた。
お礼の後、何て言ったらいいんだろう。
「………………」
俯いたまま言葉を一生懸命探すのに、何故か喉につかえて出てこない。
ユキくんは、おもむろに水槽に近付くと、金魚に向かって「元気にやってたか?何か困った事はないか?」なんて話しかけていた。彼が指先をそっと水面につけると、金魚たちは餌の時間だと勘違いしているのか、指先に吸い寄せられていく。
わたしは金魚たちのその可愛い仕草を眺めて微笑むユキくんの横顔をぼんやりと見ていた。
視線に気付いた彼がこちらを見たけれど、慌てて目を逸らしたりしたら変に思うかな。
「金魚、元気そうですね」
「うん」
「餌は足りてますか?」
「うん」
「璃青さん、どうかしましたか?」
「………え?ううん、何でもないよ」
ただ、言葉が出ないだけなの。
「やっぱりまだお疲れなんですね。あ、コレ澄さんから、ゴーヤジャムと、ラタントゥユです。どちらも夏に元気になるモノなので、良かったら食べて下さいね。じゃあ、今日はこれで。お月見のメール、待ってますから」
「ありがとう。澄さんによろしくね」
ぼんやりしたわたしの態度に、きっと呆れたような顔をしているに違いない。
普通にできなくてごめんね。
顔が上げられなくてごめんね。
心の中で謝るわたしに、彼は小さくため息をひとつ残して、来た時と同じように静かに店を後にした。
わたしはウサギをテーブルに置くと、ウサギの頭をそっと撫でた。
「お守り、早く作らなきゃね」
そう、彼から離れるために。
引き返せなくなる前に。
夏祭りの翌日自宅へ帰るという母を、朝早い希望が丘駅まで見送りに行くと、急にそんなことを言われた。
一瞬何のことだろうと思ったけれど、今日のわたしは確かに淡い色の服を着ていた。
水色の細いストライプに白いレースの縁取りがされたノースリーブチュニックと動きやすいベージュの八分丈のスキニーパンツスタイルは、特別おしゃれな訳ではない。
けれどここに来てから確かに紺や黒や濃いめの茶、深緑、とダークカラーのワンピースやトップス、ロングスカートの多かったわたしが今朝、無意識に選んだ明るい色。
母はそこに何を感じ取ったのだろう。
前向きになった?
そんなことはない。決してない。
昨夜ユキくんに抱きしめられたのも夢だったような気がするし、心の中のもう一人のわたしは、まだ膝を抱えたままなのだ。
誰かに大きく手を引いてもらいたいくせに、素直に甘えられなくて、気付きたくない想いを隠して押し込めて。
そんなわたしでも、今ひとつだけしたい事がある。花火大会に夏祭り。ユキくんには色々なものを貰ったから。
金魚さんをありがとう。ウサギのぬいぐるみを取ってくれてありがとう。一緒にいっぱい歩いてくれてありがとう。……って、ちゃんと言葉と形にして伝えたい。
翡翠やオニキス、マラカイト。天然石を使ったお守りを作って、渡す口実にお月見にでも誘ってみようか。
お月様は、どこから見るのが綺麗かな。あの、花火を見た河川敷かな。
気付けば母を送った駅からの帰り道、そんなことばかりを考えている。
そういえば、あのウサギのぬいぐるみ、ユキくんの部屋に忘れて来ちゃったんだっけ。
ふわふわなウサギは、今もユキくんのソファに座っているのかな。
一度は貰ったものだけど、返して、なんて言い辛い。元はユキくんが取ってくれたものだから。
さて、どうしたものかしら。
ずっと忘れていた。
誰かを心に浮かべること。
それを“恋”とは認めたくはないけれど、泉が湧くように、こんこんと想いは日々、絶えず湧いてくる。
手を繋いだら、長くて細い、でもちゃんと骨太なその手に幾度も包まれた。
抱きしめられたら、その胸の硬さに息が止まりそうだった。
あの腕とあの胸に、これまで何人の人が包まれたのだろう。昨夜から、そんなことが気になって仕方がない。
最近、お隣にお邪魔すると、ユキくんが他の女の子と笑い合う姿を見る度、苦しくなるのはきっと気のせい。
少しばかり親しくなれたから、それは僅かな擬似独占欲。
もういっそ、しばらくお店に通うのはやめておこうか。
案外平気かもしれない。だって、全部自分の気のせいなんだから。
駅前を抜けてお店に帰ったら、髪をポニーテイルにきゅっと結んで、エプロンをする。
これからお祭りの後片付け。
昨日の今日で顔を合わせるのはとても照れるし、色々考えるところはあるけれど挨拶は大事だから、ちゃんとしよう。
いつの日か、わたしが心から愛することができた人に「きみがすきだよ」って、また言ってもらえるようになれるかなぁ。
そんな風に、少しだけ女性らしい目標が再び出来たのは、今よりほんの少し前、今朝方のこと。
それはきっとユキくんのおかげ。だけど。
『本当は、誰かと寄り添って、支え合って生きていきたい』
そんな想いまで揺り起こしたユキくんが、今はちょっぴり恨めしいよ。
お願いだから、もう、これ以上揺らさないで。
そうして静かに心を閉じる。
ほら、何でもないような態度で、普通に笑って。
「杜さん、澄さん、おはようございます!お祭りの間、母がお世話になりました、って。とっても楽しかったみたいですよ。ありがとうございました」
ね、ちゃんと笑えるよ。
「ユキくん、おはよう。昨夜はどうもありがとう」
ちょっと早口かな。この角度じゃ陽射しが眩しくてユキくんがどんな顔をしているのか分からないけれど。
「璃青さーーー」
「あっ、籐子さんおはようございまーす!……ん?ユキくん何か言った?」
「いえ、おはようございます」
ユキくんは何かを言いかけていたようだったけれど、諦めたように微笑んだ。
わたしはそんな彼に小さくもう一度「おはよ」と言って背中を向ける。
「璃青さん!」
「………え?あっ」
急に向きを変えたせいなのか、いつもなら何でもない動きなのに、軽く体がふらついた。咄嗟にユキくんの手が伸びて、わたしは転ぶのを免れた。
ドキドキしながら「ありがとう」とユキくんに向き直ると、掴まれた腕はそっと離された。
ユキくんが、にこりと笑う。
「璃青さん、昨夜は無理させてしまってすみませんでした。身体は大丈夫ですか?片付け、張り切りすぎないで下さいね」
「あ、うん。ちゃんと手当てしてもらったからもう大丈夫。それより、その言い方、ちょっと………」
「言い方?」
それ、誤解を招くから。
おまけによく通る声で、あまりにもはっきりと言うから。
気のせいかもしれないけれどほら、杜さんが意味深に笑ってるの、気付かないの?
実はユキくん、結構天然なんじゃないかしら。それともわたしが無駄に大人なだけ?
「え、えーと、じゃあ、わたし、お店の前を片付けるね……」
「あ、そうだ。璃青さんの忘れ物のウサギ、片付けが終わったら届けに行ってもいいですか?」
「は、はい……」
だから、杜さんたちが聞いてるって。
うっかり赤面しちゃったじゃない。
わたしの顔を、そんな風に覗き込むようにして言わないで。
心を閉じて、咲きたがっている蕾を見ないようにしているの。本当はもう、あなたとは距離を置きたいのよ。
自分が変わるのが怖いの。
今から話す、わたしのこのお誘いを受けてもらったら、それを最後にしたいから。
わたしを見る彼と、勇気を出して目を合わせる。
「ねぇ、ユキくん。昨日までのお礼がしたいな。今度の十五夜、一緒にお月見しませんか?その時に、渡したいものがあるの」
「お月見ですか、いいですね。今年の十五夜というと……?」
「九月八日。まだ暑いかもしれないけど、真夏の夜よりは涼しいと思うんだ。あの花火の河川敷で会いましょう」
「ここで待ち合わせではないんですか?」
「うん。時間はまだ未定。わたしからメールするね」
「そうですか。はい、わかりました。メール、お待ちしてますね」
ふふ、ユキくんたらキョトンとしてる。
お月見が済んだら、もう彼に近付くのはなるべく控えよう。お礼に作った魔除けのお守りを渡して、それからは少しずつ、当たり障りのないお隣さんに徹しよう。
そうだ。お月見の後、一度実家に帰ってみようかな。
“ユキくん、あのね。手作りのお守りなんて重いな、って思ったら、わたしに構わず捨ててしまってね”
わたしは、オニキスの黒に紛れて小さなラピスラズリをこっそりひとつだけ忍ばせた、最初で最後のプレゼントを渡す時、そう伝えようと決めていた。
夏祭りの片付けが終わり、お昼をひとりで済ませてから、午後の店舗で相変わらずブレスレットやストラップを作っていた。
控えめにガラス戸を開ける気配と、僅かに鳴ったドアベルの音。目を上げるとそこにはユキくんがウサギのぬいぐるみを抱えて立っていた。
「璃青さん、ウサギ連れてきましたよ」
「わざわざありがとう」
さっきの決意が鈍らないよう、手渡されたウサギに視線を落として、ぎゅっと抱きしめた。
お礼の後、何て言ったらいいんだろう。
「………………」
俯いたまま言葉を一生懸命探すのに、何故か喉につかえて出てこない。
ユキくんは、おもむろに水槽に近付くと、金魚に向かって「元気にやってたか?何か困った事はないか?」なんて話しかけていた。彼が指先をそっと水面につけると、金魚たちは餌の時間だと勘違いしているのか、指先に吸い寄せられていく。
わたしは金魚たちのその可愛い仕草を眺めて微笑むユキくんの横顔をぼんやりと見ていた。
視線に気付いた彼がこちらを見たけれど、慌てて目を逸らしたりしたら変に思うかな。
「金魚、元気そうですね」
「うん」
「餌は足りてますか?」
「うん」
「璃青さん、どうかしましたか?」
「………え?ううん、何でもないよ」
ただ、言葉が出ないだけなの。
「やっぱりまだお疲れなんですね。あ、コレ澄さんから、ゴーヤジャムと、ラタントゥユです。どちらも夏に元気になるモノなので、良かったら食べて下さいね。じゃあ、今日はこれで。お月見のメール、待ってますから」
「ありがとう。澄さんによろしくね」
ぼんやりしたわたしの態度に、きっと呆れたような顔をしているに違いない。
普通にできなくてごめんね。
顔が上げられなくてごめんね。
心の中で謝るわたしに、彼は小さくため息をひとつ残して、来た時と同じように静かに店を後にした。
わたしはウサギをテーブルに置くと、ウサギの頭をそっと撫でた。
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