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【商店街夏祭り企画】余韻
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消毒を終え、擦りむいていたところに傷パッドを貼ってもらうと、いくらか痛みは楽になっていた。
「これでとりあえずは大丈夫だと思う。しばらくは靴を履くのもつらいと思うけど……」
足首を固定するように支えながら触れるユキくんの左手が熱い。その熱が、わたしを“帰らなきゃ”と焦らせる。
もうここにいる理由はない。
わたしはとっさに立ち上がろうとした。
「あの、えっと、ありがとう。助かりました………!」
傷パッドを当てられているものの、足に体重をかけると想像以上の痛みを覚え、前に踏み出すタイミングがずれてしまう。
床に置かれていたタオルに足を滑らせた身体はぐらりと傾き、瞬間「きゃっ」という声とともに、目をつぶり、転ぶことを予感した。なのに。
わたしの身体は同時に立ち上がったユキくんの腕に、抱きとめられていた。細身に見えながら意外に固い胸に額が当たり、頭が真っ白になる。
わたしの両腕を強く掴む手のひらの熱を薄い布越しに感じて、身体が竦んでしまう。
次の瞬間。
あ、と思う間もなく背中に彼の腕が回り、気が付いたら強く抱きしめられていた。
ーーーどうして。どうしてわたし、抱きしめられているの?
時間にしたらほんの数秒。
けれどピタリと寄り添った浴衣を通して身体の線まで知られてしまいそうなのがとてつもなく恥ずかしい。
わたしは努めて冷静を装い、目眩すら覚える動揺を隠しながらそっと彼の胸を手のひらで押し、腕の中から逃れていた。
「あ、あの………ごめんなさい」
「い、いえ……璃青さんが怪我しなくて良かったです」
チラリと見上げれば、わたしに負けず劣らず、ユキくんが真っ赤な顔をしている。
珍しく慌てている?
見たことのない表情に釘付けになり、つい見つめてしまったけれど、彼もわたしをじっと見ていて、騒がしい鼓動がいつまでも収まらない。
どちらも目を反らすタイミングがわからない。何も言えず、お互いに感情を読もうとしても読めないことが、もどかしい。
「ーーー手当も終わったので、コーヒーでも飲んで落ち着きませんか?」
わたしから視線を外さないまま、彼が口を開いた。数秒の沈黙の後で聞いたその声は、やっぱり少し掠れている。
詰めていた息をほっと吐き小さく頷くと、ようやく視線は外され、わたしはまたその場にとり残された。
立っていても足は痛むばかりなので、もう一度ソファに浅く座り直す。
ソファがキッチンに背を向けて座れる位置で良かった。今顔を見られてしまったら、きっと真っ赤なのが丸見えだから。
間近で見れば耳も、首筋までも赤いかもしれないけれど。
しばらくしてコーヒーの香ばしい匂いが漂いはじめると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。きちんと豆から淹れられた匂いは、わたしを随分とリラックスさせてくれる。
「どうぞ」
コトリと置かれたカップから湯気が立ち昇る。涼しい部屋で、そこだけが温かい。猫舌なのも忘れて、柔らかな芳香に吸い寄せられる。
熱い。だけど……。
「ユキくん、コーヒー淹れるのも上手なんだね。すごく美味しい!」
いつも黒猫さんでアルコール度数低めのやさしいカクテルを作ってくれるその手は、コーヒーまでも魔法をかけてしまう。なんだか狡いよ。
「お店でも出していますし。バーにコーヒーを楽しみに来る人も結構いて、コーヒーというのも勉強してみると面白くて」
「うん。そういうの、突き詰めてみると結構奥が深いものね」
ユキくんて、勉強家なんだなぁ。
話し上手な彼に引き込まれて、知らなかった世界が束の間広がる。全部はとても覚えられないけれど、いつまでも聞いていても、きっと飽きることはないだろう。
気付いたら、随分と時間が経っていた。
「え………と、そろそろ帰る、ね。母もまだ起きて待ってるかもしれないし」
「家まで送ります。それに草履つらいですよね。つっかけをお貸ししますから今日はそれで帰って」
嬉しそうに仕事の話をしていた彼だけれど、急に時間を気にし始めたわたしを訝しむこともなく、わたしの足をやさしく気遣う。
もう先ほどのふたりの間のぎこちなさなど、微塵も見せない。
「心配なので、下まで送ります」
「すぐ隣なのに………」
断ろうとすると、ユキくんがちょっと怖い顔をしたように見えたので、お言葉に甘えることにした。
エレベーターに乗ったら、すぐに階下に着いてしまうし、ほんの僅かな距離なのに。
「おーーー、」
「今日はどうもありがとう!」
彼が何かを言おうとしたのと同時に、遮るように口が開いて、苦笑されてしまった。
「いえいえ、もっと俺が気遣っていたら、璃青さんもそんなに足をひどく痛める事もなかったのに」
どうして、そんな表情をするの?
「ユキくんは何も悪くないよ。草履、おろしたてだったし、普段履き慣れないものを履いたから、不可抗力なのよ。わたしの足がヤワなのもいけないの。………だから、もう気にしちゃダメよ?」
わたしは精一杯お姉さんぶって、草履を持っていない方の手で彼の髪に触れ、サラサラと指先で撫でるように梳いた。背の低いわたしが背伸びをすると、サンダル履きの足はまだ痛むけれど。
「もう、無理しないでくださいよ」
「わかりました、もう無理しません。………じゃあ、おやすみなさい」
ぺこりとおどけて頭を下げる。
“おやすみなさい”の後に目を上げたら、またその瞳に吸い寄せられた。
どうして、そんな表情をするの?
切なげなその瞳に、胸が痛くなる。
本当はまだ離れたくない。
ずっとそばで、あの楽しげに話す声を聞いていたい。そう、思ってしまう。
零れ落ちそうな気持ちを抱えて、わたしは彼を振り切るように自分の住まいに帰ってきた。
暗い店舗に入り、そこだけ明るい場所に向かった。コポコポと音をたてて泡が下から昇るのを見ながら、金魚さんたちの水槽に餌を入れる。
わたしは水槽が置かれたテーブルに椅子を引き寄せて座ると、水槽のガラスにそっと額を付けて目を閉じた。
冷たくて気持ちいい。
ねえユキくん、わたしを抱きしめたのは何故?
あの、わたしを見る時の表情の意味は?
こんな風に一方的に“誰か”を想うのは、ひとりでいることを選んだ時の寂しさよりも、ずっと切ない。
でも、また傷つくのも怖い。
そこに飛び込むだけの勇気は、わたしにはもうないの。
「ひとりで生きていく、って決めたじゃない」
独り言は、泡になって消えていった。
「これでとりあえずは大丈夫だと思う。しばらくは靴を履くのもつらいと思うけど……」
足首を固定するように支えながら触れるユキくんの左手が熱い。その熱が、わたしを“帰らなきゃ”と焦らせる。
もうここにいる理由はない。
わたしはとっさに立ち上がろうとした。
「あの、えっと、ありがとう。助かりました………!」
傷パッドを当てられているものの、足に体重をかけると想像以上の痛みを覚え、前に踏み出すタイミングがずれてしまう。
床に置かれていたタオルに足を滑らせた身体はぐらりと傾き、瞬間「きゃっ」という声とともに、目をつぶり、転ぶことを予感した。なのに。
わたしの身体は同時に立ち上がったユキくんの腕に、抱きとめられていた。細身に見えながら意外に固い胸に額が当たり、頭が真っ白になる。
わたしの両腕を強く掴む手のひらの熱を薄い布越しに感じて、身体が竦んでしまう。
次の瞬間。
あ、と思う間もなく背中に彼の腕が回り、気が付いたら強く抱きしめられていた。
ーーーどうして。どうしてわたし、抱きしめられているの?
時間にしたらほんの数秒。
けれどピタリと寄り添った浴衣を通して身体の線まで知られてしまいそうなのがとてつもなく恥ずかしい。
わたしは努めて冷静を装い、目眩すら覚える動揺を隠しながらそっと彼の胸を手のひらで押し、腕の中から逃れていた。
「あ、あの………ごめんなさい」
「い、いえ……璃青さんが怪我しなくて良かったです」
チラリと見上げれば、わたしに負けず劣らず、ユキくんが真っ赤な顔をしている。
珍しく慌てている?
見たことのない表情に釘付けになり、つい見つめてしまったけれど、彼もわたしをじっと見ていて、騒がしい鼓動がいつまでも収まらない。
どちらも目を反らすタイミングがわからない。何も言えず、お互いに感情を読もうとしても読めないことが、もどかしい。
「ーーー手当も終わったので、コーヒーでも飲んで落ち着きませんか?」
わたしから視線を外さないまま、彼が口を開いた。数秒の沈黙の後で聞いたその声は、やっぱり少し掠れている。
詰めていた息をほっと吐き小さく頷くと、ようやく視線は外され、わたしはまたその場にとり残された。
立っていても足は痛むばかりなので、もう一度ソファに浅く座り直す。
ソファがキッチンに背を向けて座れる位置で良かった。今顔を見られてしまったら、きっと真っ赤なのが丸見えだから。
間近で見れば耳も、首筋までも赤いかもしれないけれど。
しばらくしてコーヒーの香ばしい匂いが漂いはじめると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。きちんと豆から淹れられた匂いは、わたしを随分とリラックスさせてくれる。
「どうぞ」
コトリと置かれたカップから湯気が立ち昇る。涼しい部屋で、そこだけが温かい。猫舌なのも忘れて、柔らかな芳香に吸い寄せられる。
熱い。だけど……。
「ユキくん、コーヒー淹れるのも上手なんだね。すごく美味しい!」
いつも黒猫さんでアルコール度数低めのやさしいカクテルを作ってくれるその手は、コーヒーまでも魔法をかけてしまう。なんだか狡いよ。
「お店でも出していますし。バーにコーヒーを楽しみに来る人も結構いて、コーヒーというのも勉強してみると面白くて」
「うん。そういうの、突き詰めてみると結構奥が深いものね」
ユキくんて、勉強家なんだなぁ。
話し上手な彼に引き込まれて、知らなかった世界が束の間広がる。全部はとても覚えられないけれど、いつまでも聞いていても、きっと飽きることはないだろう。
気付いたら、随分と時間が経っていた。
「え………と、そろそろ帰る、ね。母もまだ起きて待ってるかもしれないし」
「家まで送ります。それに草履つらいですよね。つっかけをお貸ししますから今日はそれで帰って」
嬉しそうに仕事の話をしていた彼だけれど、急に時間を気にし始めたわたしを訝しむこともなく、わたしの足をやさしく気遣う。
もう先ほどのふたりの間のぎこちなさなど、微塵も見せない。
「心配なので、下まで送ります」
「すぐ隣なのに………」
断ろうとすると、ユキくんがちょっと怖い顔をしたように見えたので、お言葉に甘えることにした。
エレベーターに乗ったら、すぐに階下に着いてしまうし、ほんの僅かな距離なのに。
「おーーー、」
「今日はどうもありがとう!」
彼が何かを言おうとしたのと同時に、遮るように口が開いて、苦笑されてしまった。
「いえいえ、もっと俺が気遣っていたら、璃青さんもそんなに足をひどく痛める事もなかったのに」
どうして、そんな表情をするの?
「ユキくんは何も悪くないよ。草履、おろしたてだったし、普段履き慣れないものを履いたから、不可抗力なのよ。わたしの足がヤワなのもいけないの。………だから、もう気にしちゃダメよ?」
わたしは精一杯お姉さんぶって、草履を持っていない方の手で彼の髪に触れ、サラサラと指先で撫でるように梳いた。背の低いわたしが背伸びをすると、サンダル履きの足はまだ痛むけれど。
「もう、無理しないでくださいよ」
「わかりました、もう無理しません。………じゃあ、おやすみなさい」
ぺこりとおどけて頭を下げる。
“おやすみなさい”の後に目を上げたら、またその瞳に吸い寄せられた。
どうして、そんな表情をするの?
切なげなその瞳に、胸が痛くなる。
本当はまだ離れたくない。
ずっとそばで、あの楽しげに話す声を聞いていたい。そう、思ってしまう。
零れ落ちそうな気持ちを抱えて、わたしは彼を振り切るように自分の住まいに帰ってきた。
暗い店舗に入り、そこだけ明るい場所に向かった。コポコポと音をたてて泡が下から昇るのを見ながら、金魚さんたちの水槽に餌を入れる。
わたしは水槽が置かれたテーブルに椅子を引き寄せて座ると、水槽のガラスにそっと額を付けて目を閉じた。
冷たくて気持ちいい。
ねえユキくん、わたしを抱きしめたのは何故?
あの、わたしを見る時の表情の意味は?
こんな風に一方的に“誰か”を想うのは、ひとりでいることを選んだ時の寂しさよりも、ずっと切ない。
でも、また傷つくのも怖い。
そこに飛び込むだけの勇気は、わたしにはもうないの。
「ひとりで生きていく、って決めたじゃない」
独り言は、泡になって消えていった。
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