彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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最初はどうなるかと思ったが、ずっと待っていたことを話すと、しおんはしばらく考えている様子だったが、あかさに付き合ってくれた。
ちかやが居ないわけを話すと、
「ふーん、そうなんだ」
と、表情無く、そっけない。
あまり気にしていないのだろうか?
落ち着いて話してくれるならありがたいが、しおんの激高した後ろ姿が脳裏をよぎった。
しかしそれは考え過ぎだった。
しおんは終始ゆっくりとした口調で答えてくれた。
「夢を見た?」
「見た、たぶん。夢なんだよね」
「中世の街に居たよね?私たちと一緒に」
「最後だけ一瞬ね」
と、しおんはうつむき加減で続ける。
少し顔が赤くなったか?
「手に触れることもできるし、持つことも何だってできた」
頷くあかさ。
「人と話もできるし、感情もあるみたいだった」
思い出しながら言っているらしく、目を瞑りややあって、
「風の匂いも砂の感じも実体がある。あれは夢じゃない」
それは確かにその通りなのだが、未だに信じられない自分も居るわけで、夢であって欲しい気持ちの方が強かった。
例えば、あの世界のあの時間では私はすでに死んでいることになっているわけだしね。
少なくとも死は夢と現実の境界線たり得ないのは確かだろう、あかさはそう考えていた。
「でも、夢なの。あれは」
愛想笑いの一切でない、おそらくしおんの真顔が木の陰でちらついた。
「なぜ?」
あかさの問いは予定調和のごとく発せられる。
「私の夢だから」
表情には真っ向貫く真摯さに満ちている。
「どういうこと?」
しおんは公園のベンチからすっくと立ち上がり、すぐ目の前の自宅へあかさを先導した。
振り返るしおんの姿に、あの猫のことを思い出す。
しおんの部屋は整理されているとは思えない有様で、あかさを部屋に入れ掛けてからそれに気づいたようで、慌ただしく片付けている。
割とすぐに終わったのは、散らかっていたのが机の周りだけだったからだ。
その机の上には今集めたばかりの紙の束がいくつも積まれており、そのうちの一つを手にしてあかさに面と向かって座った。
またすこし頬が赤い。
レースのカーテンがやや部屋を暗くしていて、もしかして表情を見られたくないからだろうか。
「これ、昔書いた小説みたいなもの」
バサッと置かれたそれはあまり綺麗とは言えない文字がびっしり書かれた原稿用紙で、
「読んでみて。お茶入れてくる」
そう言うと足早に部屋から出て行った。
相当な枚数であるそれを手にすると、あかさは読み始めた。
物語は中世の街を舞台にした男女の悲恋だった。
主人公は世界で唯一魔法が使えて、何でもできる。
でもそれを使うと命の嵩が減る。
その国の姫君は隣国へ嫁ぐことが決まっていて、一兵卒から近衛兵隊隊長まで出世した男性は姫に恋していた。
その男性の幼なじみだった主人公は男性に想いを寄せていて、それぞれが報われない。
ある日落馬し命を落とす姫に、男性は失意とその責を問われ、死へ向かう。
自分の命に代えて姫に命を与える主人公は自らの死に祈りを添える。
大まかな流れを見たあかさは、やっぱりかと納得した。
ちょこちょこと異なっているようであるが、大きくはこの物語をなぞっている。
私たちの夢といい、今日の夢といい、これはやはり…。
そこへしおんが戻ってきて、紅茶を出しながら、
「どうだった?」
しおんは目線を会わせずに言った。
あかさは一考して、
「良く書けてるね。感情移入しちゃった」
あかさはしおんのあの時の台詞や仕草を思い出していた。
「今思うと変な文章だし、おかしなところが一杯なんだけど」
今日何杯目だろう、口を付けた紅茶は少しぬるかった。
「昔から書いてるの?」
「中学くらいかな、書き始めたのは」
ゆったりと、斜向かいにしおんは座った。
「何か心が震えると書きたくなるの」
そういうものなのかと、頷くあかさは、
「これは自分の恋愛経験?」
流石にこれは唐突すぎたかなと、言ってから悔やむあかさだったが、
「わかるの?」
と意外と表情が明るくしおんが返すので、あかさはほっと胸をなで下ろした。
「わかる。きっとみんなそうじゃない?」
「そう、なのかな」
言ったものの皆が皆そうだとは思っていないあかさだったが、少なくともしおんの感じたであろう好きな人との距離感や想いはかつての自分も共感できることだった。
あの独特の距離感はもう今はないだろうし、すこし気恥ずかしい。
そして、しおんとの距離もまた近づいたような気がしたのは、声や表情からわかった。
いつしか、あかさとしおんは恋愛談ばかりになってしまっていた。
トイレを借りたあかさはこれを良いタイミングとばかりに話を変えた。
「で、夢の話なんだけど」
座り直す二人。
「ちょっとこれは違ってるよね、イメージが。私はイギリスとかフランスとかが舞台かなぁって」
「うん、そう」
頷くしおんは少し顔をほころばせた。
「でもあの場所は…」
言葉に詰まったあかさに、つられるように考え込むしおん。
何の関わりもなく変わる世界なのだろうか?
払拭はできない、というか可能性はあるが、自分の希望とは関係ないのかも知れない。
だって、初めての時はあれに強い願望を抱いていた訳じゃないし、二回目はちかやにとって凄く楽しそうではあったが、自分にはむしろ辛かったように思う。
そもそも夢という域を超えない以上、夢は夢なのだ。
理屈じゃないのかも、きっと。
あかさは考えても、結局は答えなど無いのだと思うことにした。
あかさは自分が経験したことを状況から何もかも知っている全てをしおんに話した。
だが、しおんも聞きはすれども返答に窮すように眉間にしわを寄せているだけだった。
ようやく口を開いたしおんは、
「あの世界はトルコとか、中東だよね」
「え?あぁ、さっきの話?」
あまりのタイムラグにあかさは思わずつんのめった。
随分と自分の話をしたのだが、聞いていたのだろうかとあかさは少々心配になった。
「そういえば…」
あかさは別の疑問をぶつけてみた。
「私、猫を抱いていたんだけど、見た?すごくかわいい猫」
ちょっとニュアンスが違うようにも思ったが、かわいいことに変わりはないのである。
「ん?どんなの?」
「口だとちょっと難しいな。すごく頭が大きくて…」
「ちょっと待って。紙に」
としおんは妥当なことを言った。
私、絵心は持ち合わせてないんですけど、ともかくさらさらとペンを走らせるあかさ。
そうれはもう満面の笑み、もう爆笑と行って良いのだが、どうやらそのかわいらしさは伝わったようだ。
「いや、見てない。それが居たの?」
「そう、だっこしてた」
「いいなぁ」
と、そこだけ聞けば可愛らしい女子の会話である。
しおんが持ったその絵を除いては。
「そういえば、そぅ」
と頓に思い出したあかさは、ずっともやもやしていたのに忘れていた大切なことをきいてみた。
「これ、誰かに見せたことある?」
「ない、絶対」
しおんの反応は予想通りだった。
「ちやかには?」
「ないよ」
「やけにちかやが物語の展開に詳しくて。もしかしたらと思って」
しばらく考え込むしおんは、ぴくりとしたかと思うと見る間に顔を赤らめた。
少し雲行きの悪さを察し、すかさず、
「もしかしたらあっちの世界で聞いたのかも知れないけど…」
もうあかさの声はしおんの耳には届いていないと思われた。
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