彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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連休中盤、一人暮らしを始めた姉の所を訪問してみることになり、その流れの中、あかさは湯煙の中にいた。
川のせせらぎが聞こえる温泉宿に一家は足を伸ばしていた。
久しぶりに家族四人が揃ったことに両親は上機嫌だったが、あかさはあのことが気になって、心が悶えるようだった。
とりわけフジの扱いに困っていて、もちろん現実に目の前にペットのごとく居るというわけではないが、次会ったとしてどう接したらよいか決めあぐねていたからだ。
私自身が楽しみさえすれば良い、そんな薄っぺらい意味しか無いなんて普通は信じられない。
それでもまざまざとちかややしおんが楽しんでいる姿と見せつけられて、羨望がないわけではない。
ただ、無条件にそれを受け入れる、そもそも楽しめるほどの夢を持ち合わせていない。
「何を望んでいる?」
フジは言った。
彫刻に僕らは潜んでいる、と。
いくら考えても少しも解決の糸口は見つからない。
だからこうして自分の街を離れ、彫刻に近づかないでいられるのは一考するに良い機会だった。
二人とも連絡は取り合っているが、どうも私が居ないのでトリップするのをためらっているらしく、それもまた自分の役回りとして荷が重いのだ。
肉体的にではなく、精神的に肩が凝るあかさにこのお湯は効くのだろうか。
あかさは両手ですくい上げたお湯の、それが反射して映す月をじぃっと見つめ、頭から邪気を払うようにぱしゃりとそのお湯を顔にかけた。
「あんまりばしゃばしゃ顔に掛けない方がいいよ」
体を洗い終えた姉が湯に体を滑り込ませながらあかさに言った。
「なんで」
「まだ若いからいいけど、年取ったら油が落ちて張りが無くなるよ」
「若いって…。お姉ちゃんだってまだ若いじゃん」
「もう二十二だよ。高校生とは違うんだから」
「二人とも若いくせして、何言ってるの」
とは母の言。
広い露天風呂に家族三人、まるで貸し切り風呂のようで羽を伸ばし放題なのに、姉はとかく世話焼きで、まるで母が二人居るかのようで肩が狭い。
「こんなところまで来て携帯を持ち込んで。お風呂の時くらい置いておきなさい」
どちらに言われているのやら、もうどちらが言っていても同じなわけで、
「いいじゃん、防水だし」
「そういう意味じゃなくて…」
「まぁお母さん、いいじゃない」
珍しく割ってはいる姉の感覚はおそらくあかさ寄りで、身につまされるに違いなかった。
「お父さんも電話持ち歩いてるし。きっと今も持って入ってるんじゃない?」
と竹垣の向こうに目をやる姉。
あちらが男湯なのだろう、ちらりと耳を澄ますが人の気配をわずかに感じる。
携帯を持ち込んでいそうな父の姿が思い浮かぶ。
「それは仕事なんだから仕方ないじゃない」
「学生も一緒なんだって」
姉の援護はつい最近まで自信がそうであったことの証左であった。
気まずい空気を変えるかのように、
「昔は腕時計をずっとしてたよね、お父さん」
「そうね、昔は時計、今は携帯。あまり変わらないね」
昔はお洒落だったと母がよく言うが、今の父にその面影は見られない。
そんなことより…。
あかさはぐるぐる回る洗濯機よろしく、また同じことを思い返していた。
どうしたら良いだろう。
人間みたいに無視しておけばそれで関わらずにいられるのだろうか。
まだ湯に入って間もないはずなのに、のぼせそうになるあかさ。
「そういえば、大切にしてた時計があったよね?」
何気ない会話のキーワードにのぼせた頭がフル回転する。
「ああ、結婚前にプレゼントしたあれ?大切に仕舞ってるみたい」
かつて父の衣装ケースの中で見つけた時計。
古さを感じさせない小箱に入っていて、何が入ってるかわくわくしたあの時。
すでに秒針は止まっていたが…。
そう、同じ物をトリップしたときに、夢に見た。
どこだったか。
時間の感覚が麻痺して、すぐに思い出せなかったが、ようやくそれに思い当たる。
佐村か、いやフジなのか、ともかくあかさの手を取ったあの男性がしていた時計と同じ。
あの時計、ちゃんと秒針がチッコチッコと動いていた。
あれは父だったのか?
「ねぇ、昔聞いたプロポーズの時の話さぁ」
あかさは姉たちの会話にお構いなしに激しく飛び込んだ。
娘の突然の話題にとまどっていた母だったが、
「こんな感じの濃い霧が出てる夜だった」
と湯気を掴む仕草の母が話を続けた。
「テーマパークでね、そこ。ボートに乗ったり、夜景を見たり。イルミネーションが綺麗だった」
「ヨーロッパ風の建物だよね?」
「そう。連れて行ったことあったっけ?」
あかさも姉も首を横に振った。
ただ、情報誌かテレビ番組かで一度見たことがあると思うのだ。
あの夢の光景はまさにそれだ。
「花火の時プロポーズされたんだった?」
あかさは尋ねて、一人固唾をのんだ。
「よくそこまで覚えてるね」
母は楽しげに笑った。
「花火は上がるはずだった」
だった?
「でも上がらなかったの」
あの物語と違う。
「霧雨が段々と雨に変わってしまって…」
もう母の話の続きはあかさの耳に入らなかった。
私が勝手に花火が上がったと思い込んでいただけだ。
それなら確かに私の夢だ。
真実とは異なっているけれども、私の中で完結している、私の夢。
あかさは謎が少し解けたというのに、顔は暗い。
人の夢を自分のものとして喜んでいるだけの存在。
それが私。
人の想いに乗っかっているだけの薄っぺらい存在の私。
かつて月を薄っぺらいと感じたのは、そのまま自分の夢のことを感じていたのか。
悲しさより絶望に近い、どうしようもない現実。
すべては私が原因で、その帰結も私にある。
携帯を持つと唖然とする二人を置いて、あかさは風呂を後にした。
濡れた髪を拭くのもそこそこに、あかさは携帯を手に電話を掛けるか迷っていた。
あなたたちだけでも楽しんで、と?
もうトリップしない方が良いよ、と?
その姿は地図を手に道に迷った観光客のようで、だが誰に話せばいいか、それすらまだ決めあぐねていた。
ひさき?加織?
もちろん、ちかややしおんではない。
一番夢を知らずにいたのは自分自身なのだと知ってしまった。
知るべきは自分自身だ。
力なくソファに身を埋めるあかさは、拭き切れていなかったお湯が冷めて服が冷たいことも気にならなかった。
でも、その冷たさのおかげか、考えがまとまった。
フジの目的が何であれ、私には明確な夢も希望も持ち合わせていない。
楽しくて逆に冷めてしまう夢ばかりだった私に、フジは楽しくないのか尋ねた。
今は答えられる。
私は楽しくない。
広間で食事を終えた客がぞろぞろあかさの前を通り過ぎる。
皆満足げな顔つきで、まるっきり反対の顔つきのあかさには目もくれない。
そして、場は静まりかえり、あかさは一つ結論を導き出した。
夢を、フジを無視すべきなのだ、と。
はねつける自信はない。
トリップだって逃れられないかも知れない。
フジの目的である楽しさの共有はフジの近くにいる自分からではなく、お膳立てされた他人の夢。
いや、いやだ。
あかさはつぶやき、何度も繰り返した。
暗示を掛けるように、何度も。
ドサッと隣で音がして、驚いてそちらを見る。
浴衣姿の姉があかさの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?湯あたりでもした」
実際割とすぐ上がったのだからのぼせることはないのだが、携帯を持つ手に力を込めたままソファに落ち込んだ姿を見せつれられれば心配になるなと言うのが無理である。
「どうしたの?」
遅れてやってきた母に、
「ちょっと湯あたりしたみたい。涼んでから行くから部屋に戻ってて」
と姉が促した。
母の後ろ姿を見送って姉は再度あかさを見つめた。
あかさには姉の生き方がうらやましかった。
一本筋が通っていて、自ら作った道を邁進する姿は、自信と魅力に満ちている。
それだけに、対比すると自分が見えなくなってしまう。
姉にはわからないだろう。
「人間関係?」
姉らしい率直な問いであり、フジを人間とは言えないものの当を得ていた。
「まぁ、そう」
「話、聞こうか?」
「ううん、いい」
姉の表情はつい最近まで見てきた普段の様子と変わらない。
妙な間がある。
言葉を選んでいるのか、推し量ろうとしているのか、ともかく姉はじっとあかさを見つめ、だが決して妹を理解できはしない。
何か相談したこともないし、大体が私を知らないだろうに、と突然、背中を張り倒された。
あかさは何が起きたのかわからないが、びっくりして携帯を落とし、目を見開いた。
「しっかりしろ、あかさ」
怒っている様子ではない、やはりあまり表情を出さない姉は続けて、
「困ってるならいつでも連絡しな。私がついてる」
と、胸を張ってみせる。
意外な言葉だった。
そんなこと一度も言われたことはない。
体を起こしたあかさの肩を抱くと、
「あんたは私の妹。大事で可愛い妹」
姉は一呼吸して、あかさの目を見つめる。
「生きるって成功したり、失敗したり。失敗の方が多いかもね」
姉に失敗は似合わない、しかし自信のことを言っているようで、知らない姉の姿だった。
「迷うのは良いこと。でも進むの。あんたがいつも私についてきたように。私じゃなくて、心を許せる誰かと一緒でいい」
その目はまっすぐで、あかさのいる場所は一段照明でも灯したように明るく、姉の姿はきらきら眩しかった。
「あかさ、あんたは好奇心の塊だった。それはきっと、これからもずっとそう」
すうっと心にかかっていた霧が消えた。
満月を隠していた雲が晴れ、夜空がきらめくようだ。
「私がそばにいる。何でもいいな」
そういうと、姉はにやりと笑顔を見せた。
すがすがしい笑顔だ。
負けずに笑顔を作るあかさは、いつしか本当に笑顔になっていた。
あかさは膝に落とした携帯を握り、立ち上がる。
「もう大丈夫」
姉も肩を並べ、もう一度、
「私がついてる」
肩を抱く姉の手のひらは、暖かくあかさの背を押すように感じた。
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